「美しいね」「美味しいよ」「何かあったのだろうか」「おやすみ、サンダルフォン」
優しい笑みを浮かべて、言葉が紡がれる。
都合の良すぎる、妄想だ。誰にも見えないことを理解している。誰にも聞こえないことを承知している。
納得をして、選んだ結末でありながら、未だ受け容れることの出来ていない現実に、耐え切れなくった脳が作り出した淋しい妄想でしかない。それでも、サンダルフォンが作り出した妄想のルシフェルは、どこまでも、優しく、声を掛けるのだ。
ルシフェルが口にする言葉の中には、全く記憶にないものがある。その事実に気付いてしまうたびに、これは自分が作り出した、都合の良いルシフェル様なのだと痛感して、虚しさを覚えた。優しい声音。微笑を浮かべる姿。過ぎ去り、消え去った日々を思い起こす度に、ツキツキと胸が痛んだ。後悔ばかりが浮かんだ。
約束を果たすために騎空艇に同乗をしていた時にはなかった妄想だった。
我武者羅にルシファーへの手がかりをつかむ事に、必死だった。約束を果たすための命だった。手一杯だった。その後。約束を果たした後について、考えたことは無かった。だけど、どこか、ぼんやりと、自分はいないのだろうと覚悟ともいえない、予感めいたものがあった。それを、受け容れていたというのに、だというのに、サンダルフォンは約束を果たして、空の世界で、こうして、生きている。それからだった。サンダルフォンはふと、思ったのだ。もしもあの御方が、ここにいたならば、なんてことを描いてしまった。
馬鹿馬鹿しく、虚しいだけだと切り捨てることが、出来なくなっていた。サンダルフォンの淋しい一人遊び。記憶の中に仕舞いこんでいた、穏やかなルシフェルを描く。サンダルフォンの記憶の中では、いつだって、優しく、穏やかであった。世界でただひとりの、サンダルフォンの、絶対的な味方であり、永遠の存在。例外はただ一度きり。災厄の邪神として、対峙をした瞬間。あの再会こそが、最期であった。ルシフェルが最期に見たサンダルフォンの姿は、憎悪にまみれて、理不尽な八つ当たりをする、邪神だった。それが、今でも、心苦しくなる。だって、ルシフェルの言葉には一切の嘘偽りはなかった。サンダルフォンが否定をした言葉はすべて、ルシフェルの本心であり、真実だった。それを思い出す度、胸が締め付けられた。
最初は、喫茶室で提供する予定のブレンド珈琲を味見した時だった。この味は、あの御方が好まれそうだと思った。それから、いつもあの御方は美味しいとしか言わなかったなとつい、思い出し笑いをしてしまった。
開店準備中の喫茶室を見渡して、不敬であるのだが、想像をしてしまった。あの御方はこのスペースに案内しようと考えた。カウンターから近いテーブル席だ。入口から奥に位置しており、少しだけ他のテーブルと離れている。そして、窓の近くでもある。珈琲を飲みながら、楽しむのだ。自身の羽で空を飛ぶのとは異なる感覚。サンダルフォンは、当初こそ、乗り物酔いを覚えたのだが、あの御方はどうだろうか。もしも平気ならば、騎空艇から、流れる景色を興味深く思うかもしれない。そんなことを、考えて、描いた。
窓の近くのテーブル席。腰かけたあの御方。その背中には、羽はない。穏やかな顔で、カップを手に取る。一挙手一投手を、サンダルフォンは固唾を飲んで見守る。緊張で手汗をかいて、震えそうになる手足を必死に、なんてことないように動かしながら、様子を窺う。ルシフェルはといえば、一口味わい、微笑を浮かべて、そして、
「美味しいよ」
まるで、現実のように鮮明に描かれた。自分の想像力に、乾いた笑いを零して、目の奥が熱を帯びた。これは、ダメだ。こんなことは、いけない事だ。だというのに、空想のルシフェルはどこまでも優しくて、サンダルフォンの望むままに、振舞う。優しい声で、欲しい言葉をかける。
淋しいことをしているという自覚はあった。羞恥を覚える。けれども、それでもサンダルフォンは誰にも言えない秘密事のようにルシフェルを想い、描いた。
息苦しいほどの切なさだった。
その頃からだった。夜中、一人で飲む珈琲を二人分、淹れるようになった。
話しかけるようになった。
なんでもないことだった。巻き込まれた事件だとか、喫茶室の利用者のことだとか、天気がよかったことだとか。独り言のように、ぽつぽつと、けれどもたしかに、ルシフェルに語り掛けていた。思い出して、笑って、正面を見る。カップの中の珈琲からゆらゆらと湯気が出ている。その奥には、誰もいない。ひとりだった。そんなサンダルフォンの秘密事に踏み込んできたのはルリアだった。
誰かいるんですか。ひょっこりと、顔を覗かせる姿。サンダルフォンは後ろから掛けられた声に、びくりと肩を震わせた。いけないことを見られてしまったかのような緊張感に、手足が冷たくなった。
振り向けば、規則正しい生活をしているルリアが夜中に起きていることに、サンダルフォンは驚いた。ルリアもまた、夜遅くまで起きているサンダルフォンに、驚いていた。
「天司に睡眠は然程、必要ではないからな」
「そうなんですか?」
「今はな。……君はどうしたんだ、こんな時間に。眠れないのか?」
「あ……えっと、その……なんだか落ち着かないっていうか、目が覚めちゃって。そうしたら、明かりが漏れていて、何だろうって、覗いてみただけなんです」
咎められたわけではないのに、サンダルフォンは言い訳のように、正当化する理由を口にした。対して、ルリアが口をまごつかせる。何かを隠しているかのようにも感じたが、サンダルフォンはそこに踏み込まない。
「……少し待っていろ、ホットミルクを用意しよう」
「え、でも、」
「君をそのまま放り出すほど、俺もひとでなしではないさ」
「っありがとうございます、サンダルフォンさん」
はにかむルリアに、サンダルフォンは柔らかい微笑を返した。
ルリアが足を踏み入れる。日頃、利用している雰囲気とは異なる喫茶室にルリアは奇妙さを感じながら、室内を見て、ふと気づく。
「誰かいたんですか?」
「いや? ……ああ、そのコーヒーか。量を入れ間違えただけだ」
問いかけに、サンダルフォンは片手鍋に牛乳を注ぎながら答える。
ルリアの視線の先、テーブルの上にはカップが二つ、残ったままだった。
サンダルフォンが、量を間違えるだなんてありえないことだ。それも珈琲である。ルリアはちらちらと、カップに視線を向けながらも、気にしないようにして、カウンター席に座った。
「お待ちどおさま。ホットミルク、はちみつ入りだ」
「ありがとうございます……あつっ……」
「全く……。淹れたてだ、ゆっくり飲め」
「はぁい」
ルリアがふうふうと息を吹きかけて冷やす姿を、サンダルフォンは微笑ましく見守った。丁度良い温度になったのだろうホットミルクを口にしたルリアが頬を緩める。
「それを飲んだら、体が冷えないうちに部屋に戻ると良い」
「はい! 今ならぐっすり、眠れそうです! サンダルフォンさんはいつもこんなに遅くまで起きてるんですか?」
「そう、だな。喫茶室の準備があったりすると、遅くなることもある。天司に睡眠は必要じゃないってことは、君だって知っているだろう?」
「そうかも、しれませんけど……」
もじもじと何か言いたげなルリアに、サンダルフォンは内心で歎息を零す。
どこまでもお人好しな少女のことである。サンダルフォンのことを、心配をしているのだろう。以前であれば大きなお世話だと苛立ちを覚えていた。今となっては心配をされるということに、むず痒いような気持ちになる。
ホットミルクの甘い香りが喫茶室に漂う。
「……珈琲の研究をしてるんですか?」
「ああ。ブレンドや、新しい珈琲豆を試しているんだ」
「っふふ」
「何が可笑しかったんだ?」
「ごめんなさい。サンダルフォンさん、本当に珈琲が大好きなんだなあっって……喫茶室での店長さんで、喫茶室が閉まっていても珈琲を淹れてるから」
「何を当たり前のことを」
そう口にしてから、サンダルフォンはすとんと腑に落ちた。はくと、一瞬、言葉を忘れてしまう。訝しがられる前に、なんてことのないように、取り繕う。
「そろそろ、部屋に戻ると良い」
「はい、お邪魔しました。サンダルフォンさん、おやすみなさい」
「……おやすみ」
そう言って、飲み終えて空になったカップを置いたルリアが去っていく。見送ってから、その足音が小さく、消えていくのを確認すると、どうにか保ってきた体裁なんてどこかに吹き飛んで、たまらずに、しゃがみ込んだ。手足の先がじんと痛みを覚えるほどに冷え切った。喉元にせり上がっていた息を吐き出した。咳き込む。我が姿ながら、あまりにも無様なものだから、笑いが込み上がった。
「なんだ、そういうことか、たった、そんなことか」
今更過ぎて。当然すぎて。その考えに、至らなかった。
虚しすぎて笑いが零れる。
「ルシフェル様、」
呼び掛ける声は情けないほどに嗚咽交じりで、震えていた。どうしたんだい。そんな声が聞える。耳朶に、蘇る。柔らかい音。
「……貴方に、会いたいです」
サンダルフォンは、とうとう口にしてはならない言葉を口にした。抱いてはいけない願いを抱いた。空の世界で生きることを選んだサンダルフォンには、その資格はなかった。それでも、言葉を漏らすほどに、焦がれた。会いたいと、焦がれるほどに、願った。
乾いた笑いが零れる。
「……あなたは、愛を教えてくれた。与えてくれた。けれど、恋を教えては、くれなかった」
気づかされた恋が、サンダルフォンを苛む。
また、新しい一日が始まる。
ルシフェルのいない、今日が来る。