ピリオド

  • since 12/06/19
 一緒に住まないかと誘われたのは高校最後のWCが終わり、キセキと呼ばれた5人と初詣に行った帰りだった。黒子が志望する大学は何処も自宅から通うには何かと不便で、黒子は春から下宿をする予定だった。赤司に誘われて戸惑いはあったけれど、一人暮らしに不安はあったし、少しばかりの下心もあって是非にと頷いた。
 それから無事大学に合格し、春から同居生活が始まった。
 赤司も黒子も互いの行動をあれこれ詮索することもなく、かといって喧嘩することもなく至って友好的だったと思っていた。
 しかし、大学に入って暫くしたあたりから、赤司の女性関係が派手になった。帰る時間が極端に遅くなったり、帰ってこない日があったり。あからさまにシャツに口紅が付いていたりすることだってあるのだから、いくら鈍いと言われている黒子だって、気づかないはずもない。
 黒子が赤司と同居していると知っている数少ない友人や元チームメイトは口々に黒子を労わるように言う。彼らにとってもあの赤司の女性関係というのは意外というしかないほどだった。何事にもストイックに貫き通す赤司は学生時代に浮いた噂が流れたこともない。そんな彼だからこそ、意外だった。それは黒子も同様だ。
 それに黒子は確かに赤司に対して友愛以上の思慕を抱いてはいたけれど、それをどうこうしようとは思ってもいない。そもそも端から期待もしていないし、赤司が女性と付き合っていると知ってからは諦めていた。
 初めて見知らぬ香水をまとった赤司を前にしたときは動揺をしたけれど、それも今では「あ、また変わったんですか」と頭の片隅で思う程度になった。それよりも帰らないなら帰らないと連絡してほしいと思ったのだ。それも寂しいとか辛いなんて可愛らしい理由ではなく、食事の用意がいるのかいらないのか分からないのが面倒で仕方ないなんて所帯じみた可愛げの無い理由だった。

 珍しくも赤司は仕事が終わるとすぐに帰ってきた。それに黒子は珍しいなと思いながら彼の好む料理を一品追加する。もとより口数が少ない二人で、食事中も話すことは少ない。ただ黒子の食べる量にもっと食べろと赤司が口を挟むも、黒子は運動もしていないのでこれくらいが丁度良いんですよとかわすだけだ。
 食べ終わった食器を洗う黒子に赤司が声を掛ける。

「テツヤ、明日は何時に上がるの?」
「明日は確か・・・」

 スケジュールを思い出そうとしたところで、はたと考える。赤司がそんなことを聞くということは、つまるところ、誰かを呼びたいということなのだろう。

(ああ、そういうことですか)

「五時終わりですが、仕事場の人の飲みに行く約束があるので遅くなるとおもいます」

 言外に付け加える。

(だから存分に連れ込んでくださって構いませんよ)

 5時終わりは本当だけれど、飲みに行く約束なんてしていない。明日は早くに終わるから家でゆっくりしようと思っていたところだ。そろそろ次の行事で使用する紙飾りにも手を付けなければならない。けれども家主である赤司の事情や、殆ど自分が居候に近いということは十分に理解している。
 そんな答えに、赤司はすっかり興味を無くしたようだ。

「そう」

 詰まらなさそうに仕事用のノートパソコンを起動させていた。仕事があるなら部屋に戻ればいいのにと思うけれど、口にはしない。
 それでも一応は、台所を預かっている身であるし尋ねておく。

「夕飯はどうしますか?作り置きしておいたほうがいいなら、作りますが・・・何か食べたいものはありますか?」
「テツヤの作るものは何でも美味しいから、何でも良いよ」
「… ありがとうございます」
(どうせ、食べないクセに)

 何度と繰り返して、黒子だって学習する。作り置きしておいたご飯に箸が付けられたことは今まで無い。いつも、翌日の黒子の朝ご飯になっている。


 予定で5時上がりだったけれど、結局は手伝いに駆り出されて、勤め先である保育園を出たのは7時を過ぎていた。残業になるのかは分からないけれど、家に帰れないという中では時間を潰せることは何でも有りがたかった。さてどうしたものかと考えたところで、足は当然のように行き付けのバーへと向かっていた。
 繁華街のビルとビルの隙間にひっそりとある地下へと続く階段。その手前には、看板が小さく置かれている。6時開店のバーはこじんまりとしていて、バーと言うよりも隠れ家的なレストランのようだ。

「こんばんは、高尾くん」
「お!久しぶりじゃん、黒子!」

 開店して1時間のうちはまだ客もいないようで、カウンターの中で暇そうにしていた高尾は立ち上がるとカウンター席をすすめる。黒子もその席へとついた。

「何にする?」
「そうですね…明日も仕事があるので、軽いのをお願いします」
「おっけー」

 黒子はあまりアルコールに明るくない。何時もは一緒に飲んでいるメンバーの雰囲気が好きで適当に飲んでいる。一人で飲むときはバーテンに任せっきりだ。
 その日は結局軽く、なんて行っておきながら高尾に止められるまで飲んでしまった。


 ふらふらになりながらも、マンションに到着する。オートロックの番号を入れて、ふわふわとした頭でエレベーターに乗り込む。(お酒臭いかも)思ったけれど、乗ってしまったものは仕方ない。
 最上階に付いて鍵を取り出す。上手く刺さりにくい。むっとしながらも、何とか開ける。センサー式の電気がついた。

「ただいま帰りました」
「お帰り」

 習慣的に言えば、誰もいないと思っていたため、返事に驚く。奥のリビングも電気はついていて、赤司はどうやら一人のようだった。そういえば鼻につくような、甘い香りもしない。

「起きていたんですか?」
「ああ・・・」

 赤司から見た黒子は陶器のような真っ白い頬をうっすらと赤く染めあげて、とろんと下がった目尻から、酔っていることが明らかだった。黒子は酒癖が悪いわけではないし、自分の飲める量というのを十分に分かっていると思っていた赤司には予想外のことだ。
 自制が強い黒子が其処まで飲むということは、余程気を許した相手なのだろうか。赤司の横を通り過ぎようとした黒子から、つんとしたアルコールとタバコの香りに混じって、香水のにおいがした。その匂いは女性がつけるものではない。赤司も何処かで嗅いだ覚えのある香水は、誰のものかという記憶にはなくとも男性ものだとわかる。
 赤司は思わず通り過ぎようとする黒子の腕をつかむ。その力は制御できておらず黒子は顔を顰めて振り返る。

「どうかしました?」
「本当に、職場の人と呑んできたの」

 黒子の勤める保育園には女性職員しかいないはずだった。以前、黒子が愚痴というには軽く、困ったように、何だか居心地が悪いんですよねと言っていたのをよく覚えている。
 黒子は少し考えるような素振りをしてから

「実は、飲みに行く約束をしていた人の都合が合わなくなりまして。それで、結局1人で飲んでいたんです」

 恥ずかしそうに言う黒子は嘘をついているようではなかった。赤司は胸をなで下ろす。

「それなら、早く帰ってきたら良かったのに」
「… 出来るわけ、ないじゃないですか」
「テツヤ?」
「お酒を飲みたい気分だったんです」

 シャワー浴びてきます。
 言いながら赤司の腕を振りほどいた黒子は、酔いもすっかり覚めているようで足取りもしっかりとしていた。


 頭からシャワーを浴びる。急激に頭の中が冷えていくような、足元がすくわれるようなそんな不安が襲い掛かる。

(赤司くんは、ボクが鍵を開けることに何度も躊躇うことも、玄関に靴がないことに安堵することもしらない)

 でも、それで良い。

(男同士なんて不毛な関係に、巻き込もうなんて思ってない)

 こうやって、好きな人と同じ家にいるだけで世界中の誰よりも幸せであると胸をはれる。たとえ気持ちが一方通行でも、過ごした時間が覆ることは無い。

(でも、そろそろ潮時かもしれない)

 高校を卒業してすぐ、大学時代からこの部屋に住んでいる。卒業し、社会人になった現在も惰性で続けてきた。何も言わない赤司に、甘えてきたのだ。
 それも、もう許されなくなってきた。
 赤司も黒子も24になった。そんな良い年をした男二人が一緒に暮らしているなんて、何を言われてもおかしくはない。黒子は構わなくとも(寧ろ嬉しいとさえ思っても)赤司は違う。

「ここあたりが、頃合いでしょうね」

 中学から抱いていた想いに踏ん切りをつけるには、もう十分過ぎるほどの幸せをもらった。
 バスルームの中で黒子の独り言がシャワーに掻き消される。


 思い立ったら吉日とでも言わんばかりに、黒子はパソコンの賃貸を取り扱う大手サイトであらかたの物件をチェックした。条件としては職場に近いことと家賃くらいしかない。実際に見て決めた物件は、職場までは電車で3駅、駅まで徒歩10分。ユニットバスなことにはやや心配があるけども、家賃を配慮すれば仕方ないことだし、きっと慣れるのだから大丈夫だろう。
 此処まで決めて、黒子はまだ赤司に何も伝えていなかった。このところ、赤司は家に帰るのも遅いようで顔すら合わせていない。そもそも帰宅する頻度も減ったような気もする。
結局何も報告出来ないまま、契約を終えて引っ越しの手続きも済ませてしまった。
 出て行ったところで、赤司が困ることは何もないと知っている。
 家賃のことだって、元は赤司の家が所有しているマンションゆえに、本来ならば不要といわれたのだ。それを無理矢理渡してきたし、足りないと思われる部分も家事でまかなってきた。
 そこで黒子は今まで避けてきた考えをする。

(ボクって、本当に最低だ)

 赤司はきっと冗談だった。それを都合の良いように解釈して6年近く自分の事情に巻き込んだ。ドッドッと煩いくらいに跳ね上がる心臓に、嫌な汗が浮かぶ。
 この6年、赤司が何故自分に女性関係を隠すことをしなかったのか、今更気づく。赤司は優しいから、黒子自身で決断させるようにしたのだ。それに気づかないふりをした自分に嫌気がさす。
 家事ができる女性なんて、赤司にはそれこそ掃いて捨てるほどに知っているはずだ。

(早く、しよう。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない)

 早く出て行かなくちゃ。






 段ボールの中身の殆どは本だ。私物の純文学作品から保育に纏わる関連書籍まで多数ある。休日を使い、せっせと引っ越しの準備をする。
 赤司は一昨日の、木曜日から帰宅していない。
 リビングもキッチンにも、黒子のものはなくなった。不快に思うだろう共有で使用していたタオルや食器などのものは全て新品に取り替えたし、すっかり黒子がいたという事実はなくなっている。
 あとは自室の荷物を残すのみとなっている。
 引っ越しは明日だ。
 黒子の部屋も伽藍としている。即日で使用する分だけを旅行バッグに詰めた。

(手紙でも残しておくべきでしょうか)

 今日も帰ってくるかわからない。お世話になった礼くらいは直接言いたかったけれど、無理かもしれない。
 自覚すればするほど、赤司にかけた迷惑を考えることがおそろしくなる。
 コンビニで買ってきたレターセットに、お世話になったこと、今更で申し訳ないということを書き連ねて便箋に詰めた。

「好きでした」

 そっと、呟いて、想いも置いていく。


「ただいま」

 玄関を開けるとセンサーが察知し、電気がついたもののその奥のリビングは真っ暗だった。この時間であれば、黒子は仕事が終わっているはずで、リビングにいる。だというのに部屋は人の気配が希薄だ。
 玄関を確認すると黒子は帰っていないようだった。

「テツヤ?」

 まだ仕事があるのだろうか。それとも、職場の飲み会でもあるのだろうか。
 赤司はネクタイを緩めながら連絡はなかったなと不安になる。それから書置きでもあるのだろうかと部屋を見渡したところで、封筒を見つける。
 食卓テーブルにぽつんと置かれた薄水色の封筒には、細い字で「赤司くんへ」と書かれている。震えそうになる手で、封筒から便箋を取り出す。



『赤司くんへ。

 六年間お世話になりました。
 迷惑ばかりかけて本当にすみません。
 今更ですが出て行きます。
 手紙での報告になって申し訳ないです。
 タオルや食器、調理器具等は勝手ながら処分して買い換えさせていただきました。
 気に入らないデザインでなければ幸いです。
 また落ち着き次第連絡しますね

 黒子テツヤ

 追伸、いらぬお節介かもしれませんが女性には真摯に接して上げてください』



 最後まで読み終え、黒子の部屋に飛び込む。部屋には、何もない。
 むき出しのフローリングに、黒子が使用していたデザインとは異なるカーテン。

「テツ、ヤ・・・」

 薄水色がくしゃりと赤司の手で皺を寄せる。


―くしゅんっ


「何?風邪?」
「いえ鼻がむずむずして・・・ 誰か噂でもしているんですかね」
「今時そんなこというやついるのかよ!」

 高尾がげらげらと笑う。それにつられて黒子も笑った。

「そういえば、引っ越しって何時だっけ?」
「昨日ですよ」
「ほー・・・ってもう終わったのかよ!」

 驚き声を上げる高尾に黒子はドヤ顔で言い返す。

「はい。一人暮らしですし、物もあまりないので荷解きも終わりました」
「まじかよ、手伝うつもりだったのに」
「そうだったんですか。なら、荷解きはゆっくりすれば良かったです」

 心底残念そうに口をとがらせる黒子にずいっと、高尾は差し出す。

「ならこれは引っ越し祝い、ってことで」

 休日ということも相俟って、何時もよりは随分とアルコール濃度の高いカクテルが振舞われる。それは黒子が好む甘いものではあるけれど、何時もは明日に響くからと遠ざけているものだった。

「なんかこのまま前の家に帰るんじゃね?」

 高尾が面白半分に言うと黒子はまさかと言い返す。

「そこまで弱くないですよ?」
「いやー習慣って恐ろしいぜ?俺、今でもおは朝の蟹座はチェックしてるし」
「さすが相棒」
「いやーあれは命掛かってるからなあ」


 高尾とそんな会話をしたのが数十分前。ふわふわとした足取りで帰宅した黒子は合わないはずの鍵穴にがちゃがちゃと鍵をつっこんでいた。はっとした時には、あわてて鍵を仕舞おうとするも突然開いたドアに驚き鍵は廊下に真っ逆様だ。

「テツヤ?」
「あかしくん、すい「本物?」

 謝ろうとして遮られる。本物と尋ねられる意味は分からなかったが一応、黒子テツヤであることには違いないので頷く。

「テツヤ、テツヤ」
「わっ」

 赤司に腕を引かれ、部屋へと入ってしまう。勢いに負けて、まるで赤司を押し倒すみたいに玄関に倒れこんだ。

「テツヤ」

 赤司はそれ以外の言葉を忘れたみたいに名前を呼ぶ。ぎゅうぎゅうと背骨が折れてしまうのではないかという位の強さで抱きしめられて黒子はじんわりと汗を滲ませる。

(痛い、し、ちょっと・・・)
「・・・きもちわるい」
「テツヤ?」
「おええええええ」

 腕の力が一瞬だけ弱まったのを見計らい赤司を突き飛ばすと黒子は口を覆いながら、一目散に勝手しったるトイレへと駆け込み、嘔吐する。せり上がってきたもの全て吐き出した。

「テツヤ、大丈夫か」
「・・・すいません」

 吐いて、口をすすぎすっきりとしたところで、自身の痴態を思い出す。トイレからおずおずと出てきた黒子に赤司は市販薬と水を差しだした。受け取りながら、赤司の顔を見るのは恐ろしいし、恥ずかしくて仕方なく黒子は視線を彷徨わせる。赤司が息を大きく吐き出したのを、溜息をつかせてしまったと思いまた落ち込んだ。

(何をしているんでしょうか、ボクは・・・)
「大丈夫なのか」
「はい・・・本当にご迷惑をおかけしました・・・」

 居たたまれず、黒子はすぐに部屋を出ていきたかったけれど赤司の雰囲気はそれを許してくれそうにない。赤司は明らかに不機嫌そうで、空気が重々しく、肌を刺すような刺々しい雰囲気を出していた。黒子は飲み干して空になったグラスを手持ち無沙汰に手にする。
 その雰囲気を破ったのは赤司だった。視線を合わせようとしない黒子に苛立ちながらも平静を装って問いかける。

「何かあったのか」

 黒子は、一刻も早く立ち退きたい一心で早口に答えた。

「いえ、何もありません。本当にすいません、帰りますから」
「お前の家は此処だろう」
「ちがいますよ」
「違わない」

 頑なに譲らない赤司に黒子は思い当たる節があった。

「手紙を置いて行ったんですけど。読んでませんか」

 同居していた折は、遅くなるときは事前に連絡していた。手紙を読んでいないのであれば、赤司にとってはまだ黒子は同居人なのかもしれない。

「読んだよ、でもあんなの、認めない」

 ますます訳が分からない赤司に黒子は戸惑う。何が赤司の癪に障ったのかも分からないし、どうして赤司がここまで怒りを露わにしているのかも、何も分からない。事後報告が拙かったのだろうか。

「僕のこと嫌いになったの」
「嫌いになんか、なりませんよ。だって君は大切な友人ですから」

 自分で言っておきながら「大切な友人」だなんてよく言えたものだと、思った。そんなの全部言い訳で、強がり以外の何物でもない。

「・・・嘘つき」
「本当ですよ」
「僕のこと、好きだろ」

 赤司はすべて分かっているように地雷を踏んでいく。素面であれば「何を言っているんですか」「はいはい。好きですよ」なんて軽く流せるのにアルコールも入り正常な思考が出来ない脳は躊躇いなく思いついたままの言葉を吐き出す。

「・・・ええ、もちろん。友人ですから」
「ちがう!」
「ちがいません!ボクがキミを好きなのは友人だからです!」
「やっぱり、僕のこと、嫌いになったんじゃないか!」
「だからっ!・・・すいません、帰ります」
「待てっ!!」

 売り言葉に買い言葉。今時の小学生でもしないようなバカバカしい言葉の応酬。ぐらりと脳が揺れるような頭痛に見舞われて、夜中に他人の家に押し入って何をしているんだと改めて冷静になる。
 グラスをテーブルに置いた黒子が玄関へと向かおうとするのを腕を掴んで引き留める。酒も入り、また吐いたばかりとあって黒子の抵抗は弱弱しいものだ。すぐに赤司の腕に収まった。

「離してくださいっ」

 足掻く黒子の手が、赤司の頬にあたった。パシンッと大きな音を立てたそれに黒子は顔を青くさせて、暴れていたのが嘘のように固まる。
 爪が当たったのか、赤くなった部位から血がにじんでいた。

「ご、ごめん、ごめんなさい」

 震える声で謝っても、赤司の手はぎりぎりと黒子の腕を掴んだままだ。その痛みはすっかり黒子の許容範囲を超えて今は何も感じず、ぴりぴりと手が痺れるだけだった。

「もう、ダメなんです」

 黒子が吐露すれば腕を掴む力は緩んだ。それでも、掴んだままだ。

「ただの同居人でしかないボクが口を挟んだってどうしようもないことしょう?辛く、無い訳じゃないです。どうしてボクは男なんだろう、女の子だったら良かったのにって考えます。でも、どうしようもないことじゃないですか。ボクは男で、君も男で。そうじゃなきゃ、ボクはキミに見つけてもらえなかった!」

 溜め込んで、胸にしまい続けてきた前後の意味もないその言葉は黒子の本心だった。男と女であれば万が一の可能性があったのかもしれない。でもそれは黒子テツヤではないのだ。

「忘れたいのに!諦めたいのに!」

 あふれ出るように、涙が止まらない。

「すきになんて、ならなければよかった」

 全部吐き出して、体の力が抜けた。ああ倒れてしまうと他人事のように思ったところで、腕を掴んでいた手が腰を支えていた。視界が黒く塗りつぶされる。

「ごめんなさい、わすれてください。ぜんぶ、よっぱらいのざれごとです」
「テツヤの、本心だろう」
「ちがいます、ぜんぶ、でたらめなんです。ぼくも、ぜんぶ、わすれますから」

 疲れもあってか、黒子はぼんやりと朧気な意識で言う。舌足らずな口で紡ぐ言葉も詰まりながらだった。

「忘れるなんて、言わなくていいんだよ」


 優しい夢を見た。


 布が擦れるような、衣擦れの音で黒子は目が覚めた。

「うっ」

 ずきずきと頭の中で親指ほどの小さな生き物がトランポリンでもしているかのような頭痛に呻き、沈んだ。

「テツヤ?起こした?」
「・・・いえ」

 どうして赤司くんがいるのだろうか。起き抜けと二日酔いの頭痛でぼーっとする頭で考えていると自分の痴態を思い出した。

(高尾くんの言ったままになっているじゃないですか!)

 それよりも事態は悪化している。

(これって、ベッドですよ、ね・・・)

 黒子の記憶は赤司と口論をしたあたりで既にぼんやりと霞がかったものとなっている。どうして、赤司のベッドで眠っているのか分からない。背筋を冷たいものが這う。ぶるりと震えたところで、違和感に気付く。

「あ、れ」
(全裸、だと・・・)

 自分は酔っぱらって脱ぐというような悪癖も、寝相が悪くて脱ぐということもない。踏切の甲高いカンカン、というような危険な音が脳をかけた。その拍子にズキリと痛んだ頭に何かを思い出そうとしたところで、赤司に声を掛けられる。

「まだ酒は残っているか」
「ええ・・・ご迷惑をおかけしたようで。あの、ボクどうして、ここに?」

 きょとん、とでも擬音が付きそうなほどに赤司が年らしからぬ顔をする。黒子も大概に「童顔」と言われるけれども赤司だって十分な「童顔」だと思うのだ。

「覚えてないのか」
「え?」
「・・・いや、気にしなくていい。しじみ汁を作ってあるから飲んで休め」

 赤司はそれ以上何も言うことは無いとでも言うように扉を閉めた。黒子としてはどうして裸になっているのかということや、ベッドで眠っている理由を知りたかったのだけれどそんなことを吹き飛ぶ爆弾を置いて行った。

「・・・ぼくはいったい、なにをした・・・?」

 ズキズキと痛む頭は思い出すなと言っているのか、思い出そうとしているのか、もう何が何だか分からない。二日酔いでむかむかとする内臓を労わりながら起き上る。

「あ、服・・・」

 どうしたものかと思ったところで畳まれてある服を見つけた。アルコールやタバコの匂いもしない、柔軟剤の香りがするそれにますます疑問符が頭上に現れる。

(・・・タバコやアルコールの臭いがする人間をそのまま寝かせたくないんでしょうね。うん。それに、ソファで寝かせるよりベッドで寝かせるほうが始末が容易だったんです。ええ、そうです。きっと!)

 自己完結したところで服に手を伸ばす。下着を履こうと足元を見て、血の気が引く。

(虫刺され、です。それか、引っ越したばかりですし、アレルギーで荒れてるのかもしれません)

 着替えを終えるだけでも疲れてぐったりとした。のろのろと部屋を出ると新聞を読む赤司がダイニングテーブルの席についていた。たった数日振りの姿だというのに何か月も何年も前のことのように思われる。
 視線に赤司が気づいたらしく、新聞が畳まれる。

「服、ありがとうございました」
「いいよ。今用意するから」

 用意をしてあると言われてしまえば黒子も強気に、帰ると言い切れず席へとついた。ダイニングテーブルから見るキッチンは新鮮だ。そのキッチンに赤司が居るのだから、なんだか不思議だ。
 白い陶器のそれは黒子がつい先日買い換えておいたスープカップだった。見知らぬ場所に来てしまったみたいだなと、自分のしたことだと内心で嘲笑しながら、ありがたく頂く。

「おいしいです」
「良かった」

 赤司が嬉しそうに、嫌味なく笑うものだからつられて黒子も笑った。

(やっぱり、ボクの選択は間違ってない)

 赤司は何だって出来てしまうのだと改めて思った。
 時計をちらりと見ると未だ黒子も赤司も出社するには十分な時間がある。タクシーでも使って新居に戻れば、シャワーを浴びられるかもしれない。

「そろそろお暇します」
「僕はただの友人と気紛れで6年間も暮らすことなんてしないよ」

 その言葉に思うことはあっても表面に出すことは無い。

「本当に迷惑をかけてしまって、すいません」
「テツヤが僕を好きだってこと知っていたよ」
「また落ち着いたらお詫びをしますね」
「僕がテツヤを好きっていったら、どうするの」

 無視をしようとしても、その言葉に崩れる。わなわなと泣き出してしまいそうな顔を内頬の肉を噛んでごまかした。

「そういう冗談は、言わないほうがいいですよ」

 赤司は何も言わずに立ち上がると既に食べ終えたスープカップをシンクへと持って行った。






 黒子が出て行った部屋は伽藍としていた。

「テツヤは相変わらず、馬鹿だな」

 何度同じことを繰り返したら気が済むのか。それでも馬鹿な子ほど可愛いとでもいうのか、赤司にとっての黒子は誰よりも愛らしい存在だ。

「縋り付いてくれれば、優しくしたのに」

 携帯を取り出して、レコーダーアプリを起動させる。

『ん・・・あっあっ』

 艶めかしい喘ぎ声が静かな部屋に響く。

『あっ・・・なっ、なかに出してっ・・・』

 昨夜の黒子の痴態を思い出して、赤司はくつりと笑う。

『すきっ・・・すき・・・あかしくん』

 どろどろになりながら、足を絡める黒子にもっと早く手を出せばよかったと何度も思った。けれども黒子の体を考慮すれば自制してきた。それを全て台無しにしたのは黒子自身だ。

「もう、優しくなんてしてやれないなあ」

 歪んだ笑みが浮かんで、消えた。

2013/03/03
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