ピリオド

  • since 12/06/19
 不破大黒には婚約者がいる。あるいはいた。今も、婚約者という肩書きのままであるのか把握していないほどの認識である。なんせ名前も覚えておらず容姿もぼんやりとしている。大黒の優秀な頭脳は、婚約者となった存在を覚えるに値する存在ではないと判断し、その記憶領域から排除したのだ。
 だがしかし、大黒が優秀を越えて天才が過ぎるために排除された婚約者であるがけして無能ではない。寧ろ、大黒の相手として問題ない頭脳と容姿であったのだ。生憎と大黒にそれを口にすればにべもなく「あの程度で?」と口にすることは想像に難くない。そもそも美醜にしても興味関心はない。
 やがて、大黒は扱いに困り果てた家の目を掻い潜って郊外のド田舎で好き勝手にしている。それこそ大黒の性質を身をもって知っている家のものは何も口出ししない。出来ない。あわよくばと与えた婚約者が、大黒にとっての足かせになることもなければ、気がかりになることもなかった。すっかり、その存在を忘れていたというのに思い出したのは、連絡があったからだ。

──失踪したという。

 大黒とよく似ている、それこそ双子ではにかと言われるほどに瓜二つな親戚。大黒が唯一、認めている存在。それが、失踪したという。

──誘拐ではないのか。俺に連絡するのではなく警察に通報しろ

 婚約者が宛がわれるような家系である。親戚も、相応の家系であった。なぜ態々自分に連絡をしてきたのか。大黒はうっすらと脳裏に過った推理に、まさかなと思いながら通話口の相手に言った。

──大黒さまの婚約者もご一緒だという書置きが……。

 それはもはや駆け落ちだろう。
 大黒は頭痛を覚えた。
 確かに、アレは大黒の婚約者を妙に気に掛けていた。何が気に入ったのか大黒にはさっぱり理解できなかった。それこそ、大黒は彼を自分と同等、ほとんど同一の存在として認識しているほどに、思考回路は全く同じだった。結論に至る過程に若干の差異がある程度。彼は、大黒と同じく無駄を排除する。最短にして最高の効率性を求める。合理主義者。
 そんなアレが妙に、あの女にだけは、気を遣っていた。張り詰めた空気もなく、大黒ですら滅多に見ることがない、否、見た事が無かったようなにこにこ顔で接しているものだから、いやでも察してしまった。しかしながら、婚約に関してだとか扱いについてだとかを大黒に詰るようなこともなかった。アイツは何がしたいんだかと大黒は自身の勘違い、思い込みだろうかと、それまで同一であった存在の考えが理解できないことへの苛立ちと不快感を覚えた。
 大黒が婚約者と顔を合わせたのが片手で数える程度であるのに対して、アレは頻繁にどころか、それこそほとんど毎週末、長期の休みであれば毎日のように、出向いていると報告があった。気があるのだろうと大黒ですら察する。しかし大黒が彼を詰ることもなければ、婚約者を咎めることもなかった。行動を一切取らなかった。なんせ面倒であったのだ。そもそもの話しが、婚約者を宛がわれたこと自体が事後承諾で大黒には不服であったし、意思すらなかった。
 大黒には婚約者という存在は不必要であったし、求めてもいなかった。
 婚約者は顔を合わせる前から大黒にとって不快な存在でしかなかったのだ。
 だから、その存在について、認識しようとも、理解しようとも思わないでいた。それでも、婚約を解消しなかったのは、解消したところで次の候補がいることは理解していたからだ。また用意されることは簡単に予測できたからに過ぎない。ならば精々、これを隠れ蓑にしておこうかと、渋々と、利用して、婚約者には精々その役割を果たせというのが、大黒なりの妥協点であった。
 そんな大黒に対して婚約者もまた何の行動もせずに、それでいて婚約者ではない大黒の親戚筋の男の行動を、拒絶しない。最早疑いようがない。そういう関係なのかと思えば、特別な行為はなく、珈琲を飲んで喋るだけの関係だという。そんな関係性を長年築いていた。それが、全ての過程を飛び越えての、駆け落ちである。
 大黒はまさかの駆け落ちに驚きは覚えたものの、裏切られたという怒りや悲しみは微塵も沸き上がらなかった。婚約者に対しては、そもそも、裏切られたと思う程の信頼も信用も置いていない。彼に対しても、意味合いは異なるものの、周囲が危惧するような婚約者を奪われたという怒りは皆無である。
 なにか言おうとしていた通話を無理矢理、切る。大黒が呆れとうんざりとした気持ちで溜息を吐き出した。鬱陶しそうな表情に、明彦は、待ってましたといわんばかりに、堰を切ったかのように、声を掛けた。

「あの優等生くんが? ファーさんの婚約者ちゃん、とんでもねぇ悪女になったもんだね」

 明彦は実のところ、婚約者ちゃんと呼ぶ少女を遠目ながら見た事がある。どれどれと、テレビで話題になっているパンダを見るような感覚で、ちょっと出かけたついでに見に行った。
 可愛らしい、それこそ箱入り娘の名に相応しく大事に育てられすぎて、疑うことを知らないような、ちょっと傷つけただけでも瀕死になってしまいそうな、箱入りのお子様であった。そんな相手に悪いことを教えるのが明彦のささやかな性癖であり趣味でもあるのだが、生憎と、流石に敬愛、いっそ崇拝に等しい感情を抱く大黒の、名ばかりとはいえ、婚約者に手を出す無謀さは持ちえていなかった。大黒が手を出していたなら、話しは別で、興味本位で、ワンチャン、あったかもしれない。そして優等生君。明彦にとっては一方的な天敵である。

「俺には関係がないことだ」
「ファーさんの婚約者だろう?」
「明日には……いや、あと一時間もしないうちにアイツの婚約者になっている」

 くだらん。とだけ口にした大黒に、明彦はそういうもんなのかと詰まらない気持になる。
 事実。それから一時間もしない、大黒の予想よりも早く、三十分後には当事者からの連絡があった。親戚の集まりにも顔を出さなくなった大黒は数年ぶりに会話をする。そして通話機越しとはいえ、数年ぶりに聞く声は自身と全く同じであったから、大黒はおくびにも出さないものの、気味の悪さを感じた。明彦は面白そうに、ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべて眺めている。

「話しはいっているだろうか」
「ああ、お前らしくはない行動をとったものだな」
「……自分でも、そう思っているし、反省はしている。迷惑をかけている」
「俺の知った事ではない。どうせ合意なのだろう」

 なら、当事者同士のことだ。その心算で口にした。しかしながら、相手は何も言ってこない。
 黙りこくった相手に、初めて大黒は予想を大きく、裏切られた。あるいは予測を越えていた。

「アレはどうしている」
「今は、落ち着いて、眠っている」
「手は出したのか」
「──……っ、」

 二の句を告げることが出来ないのだろう、息を呑んだ声に、大黒は頭痛を覚える。それなりの、計画性があっての行動なのだろうと、思っていた。しかし、話しを聞けば何の計画性も目的も、ない。それどころか、相手の意思も何もない無理矢理な行動であるようだった。それは流石に犯罪である。自身の不良行為を棚に上げて大黒は眉間に皺を寄せた。
 ややあってから、強張った声。

「一線は、越えていない」

 聞いておきながら、言われると妙なダメージを喰らう。潔癖ではないものの、身内のそういったことは、知りたくはないものだった。
 零れた溜息は、呆れなのか疲れからなのか、大黒にも区別が出来ない。
 大黒は、二人がどこにいるのか、ぼんやりとではあるが見当がついていた。家の者が把握しきれず、それでいて、学生二人が隠れられている。相手も、大黒が居場所に関して、特定されることを認識しながら、連絡を取って来たのだ。それもリスクの高い通話という手段で。それが、大黒には理解できなかった。

「なぜ、電話をかけて来た」
「彼女は君の、婚約者だから」
「その冷静さはあるんだな」

 呆れ混じりに大黒は言った。電話越しに、相手がたじろいでいるような気配があった。

「彼女は、君が──婚約者がいる限り、応えてはくれない。私は、彼女に、嫌われたくない」
「そんなこと、直接本人に言え。俺は知らんし、そもそも、興味がない」

 要領を得ない言葉に、ますます苛立ちが募る。嫌われたくない、というのに意思を無視した行動の矛盾。無理強いの時点で嫌われるには十分な要素になるだろう。無計画さも含めると、気付いていない可能性が高い。全く忌々しいと大黒は不快になる。自分と同等と認めた存在が、たかが感情如きでその知能を低下させる。不愉快でならない。
 俺を巻き込むな。と言って鬱陶し気に通話を切った大黒に、いやそれは無理じゃない? と思ったものの、明彦は口にはしなかった。会話内容はわからないが、なんせ婚約者で、そしていわば略奪された側であるのだ。巻き込むも何も渦中である。一般的に言えば、惨めな立場になるのだが、しかし、口にしない。なんせ空気が読めるので。普段はあえて、読まないが。



 プツリと切られた通話に、どうしようもないほどの、虚しさを覚える。大黒の言葉は全て正しかった。大黒に言ったところで、意味は無いのだ。そもそも、彼がこの婚約に対して悪感情を抱いていることは理解している。だからこそ、自分の行動は黙認されていたのだ。
 ざざんと波の音。海猫の鳴き声。家のある都市から然程、距離は離れていないものの、時季外れの海辺の町は静かだった。小さな宿で過ごす三日目の夕方になると、物珍しさや高揚感はなく、じわじわと不安が押し寄せる。
 先走った感情の果ての、無計画な行動だった。巻き込んだ彼女や、大黒、そして家の者たちへの申し訳なさを感じる。それでも、一欠けらも後悔がない、厚かましい自身への呆れを覚える。
 切られた受話器を、そっと置いた。

「あの、」

 声を掛けられて、肩を震わせた。何時から、起きていたのだろうかと驚く。
 彼女はきまり悪そうな顔で、体を起こしていた。
 小さな宿にスイートルームなんてものはない。取った一室は、畳張りの部屋に押し入れがあり、そこから布団をセルフサービスで敷くというものだった。慣れない環境下でのストレスから、体調を崩した彼女は朝から眠っていた。自分はその看病をしていた。そして、彼女の限界を感じて、告解するような、自首と変わらぬ気持で、断罪を求めるように、大黒に電話していた。

「……起こしてしまったか」
「いえ。起きていました」
「そうか。体調はどうだろう、食欲は?」
「すこしだけ、お腹がすきました」
「粥か、うどんがないか頼んでみる」

 情けなく、逃げるように立ち上がろうとすれば、細い指先がシャツの袖を掴んでいた。半端な姿勢のままで、彼女を見る。

「あの、憐みでは、ないですか」
「……なぜ?」

 彼女の言葉に座りなおす。それから、シャツを掴んでいた指先を解き、手に触れた。彼女の手は、細く、小さく、そして、冷たかった。温まればと思い、手を握った。

「……あの人の、婚約者であることを、可哀想だと、思っているのでは、ないですか。あなたは、とても、優しいから」

 くしゃりと、顔が歪んだ。
 大黒の性質を、理解しているつもりではあるが、擁護することは出来ない。一般的に、大黒の言動は婚約者に向けるものではなかった。無関心だったとしても、その態度で、彼女は傷つき、そして大黒の反応から、彼女は婚約者に相応しくないのではと周囲に槍玉に挙げられる。ますます、傷つくばかりの彼女に、手を差し伸べたのは、純粋な優しさではなかった。思いやりではなかった。醜悪な、エゴイズムだった。
 私に大黒を責める資格はなかった。
 彼が素知らぬふりをしていることに、彼女の弱さにつけ込んでいるのに、そんな私を、彼女は、優しいという。

「……可哀想だと、思っている」
「あぁ──……」

 細く彼女が喘いだ。眦に涙が浮かぶ。

「私に、執着されて、無理矢理に連れ去られて、体調を崩している。そんな、きみが、哀れでならない」

 彼女は目を丸くした。その拍子に、ほろりと、眦に浮かんだ涙が流れた。鱗のようだと、思った。

「やはり、あなたは、優しい」
「優しくなんて、あるものか。本当に優しければ、きみを、守っている」
「いつも、守ってくれています」
「どこがだ──……大黒を咎めることもしなかった私が、きみの状況を伝えなかった私が、優しいものか」

 彼女があまりにも、純真に言うものだから、ますます、自分の醜い部分が浮き彫りになる。嫌われたくないと、必死に取り繕っていた仮面がほろほろと崩れる。惨めでならない。
 私の行為は、すべて下心がある。彼女によく見られたい。彼女に必要とされたい。そんな、欲望が根底にある。
 私の吐き出した言葉に彼女はといえば、

「きっと、あなたが口にしてもあの人は変わらない。だって、あの人は私を婚約者として認めていない。あなたも、知っているんでしょう」
「それでも、きみは、彼の婚約者だ」
「だったら、どうして、連れ出したんですか?」

 彼女の言葉は厭になるほどに鋭利だった。私の心を削いでいく。心がむき出しにされる。本音を隠せない。きっと、その本音は隠しきれていなかったけれど。誰が見てもあからさまだったそれを、私は上手に隠せていた気になっていただけだった。
 参って、しまう。
 降参だった。

「君のことが、好きだから。それ以外に、理由はないよ。好きな人が、自分以外と共にいるなんて、正気でいられないことだ」

 ああ、言ってしまったと思った。気付いていたのだろう。惨いことをする。残酷だ。泣きたいのを耐えるように、彼女を見た。彼女はぎょっとしている。私の勘違いではないだろう、驚いていた。なぜ、驚く必要がある。あそこまで、踏みこんでいて、どうして、初めて知ったとでもいうような表情を、浮かべるのか。

「……好き?」

 首肯する。あそこまで口にしておいて、否定なんて出来やしない。もはや羞恥はなかった。隠すべきという考えもなかった。
 彼女は、戸惑いを浮かべて、おろおろとする。
 その仕草が稚く感じて、思わず和んでしまう。それから、彼女は意を決したように、私の目を見ておそるおそると口を開いた。

「嬉しいです、とても……あなたに、憧れていたから。でも、これは、恋といえるのか、しらない。恋なんて、わからない」
「それは……」

 そうそう、都合よくはいかないものだと妙な可笑しさが込み上がった。すべて、彼女に甘えただけの、私の自己満足だった。

「でも、あなたと過ごす日々は、何よりも、喜びだった。愛しいと、思えます。その日々を失いたく、ないのです」

 それはきっと、私と同じ気持ちなのだろうと思った。
 明日の朝、私たちは、宿を出る。
 何があっても、彼女は守ろうと、私は固く、決意する。
 細い指が、私の手を弱々しく、握り返した。
 彼女の手は、ほんのりと、暖かくなっていた。

Title:エナメル
2022/08/08
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