ピリオド

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 ぱちりと目が覚めて、体を起こしたルシファーは早々に、くの字の体勢で突っ伏した。
 産まれて二十数年。最古の記憶は小さな幼馴染が転んで呆然としているのを呆れながら見ているところである。つい昨日。それこそ、眠る寸前までは肉体相当の記憶しか宿していなかった。そもそも、それが当然である。
 かつて転んで呆然としていた幼馴染と結婚したのは肌寒さが残る春先のことだった。実家からそこそこに近い家で二人で暮らし始めて数か月。最近のルシファーはといえば、ぼんやりとすることが増えていた。ばたばたとしていたのが落ち着いて、環境変化を認識して疲れが出たのだろうか。どことなく夢見が悪いような気がして、眠りも浅い。疲れが取れない。苛々とするようになって、休んだらと心配する
幼馴染──妻に問題ないと言えば、問題ないわけないだろうと突っかかって来たから、ちょっとした喧嘩になった。結局、決着はつかないで眠った。何かを言おうとした妻に付き合いきれないで、寝室に向かったのだ。まあ、休むには違いないからとせり上がる言葉を呑みこんだ妻の姿をルシファーは知らない。その心算がないにしても、不貞寝に近い眠りに就いて、目覚めてみれば数千年──星の民として研究者としての記憶が宿っていた。あるいは、蘇った。いつまでも寝室で、シーツでうだうだしているわけにもいかない。訝しんだ妻が様子を見に来る。妻。そう考えてルシファーは何とも言えない気持になった。
 性別は異なるものの、その姿形どころか名前すらも因縁深いサンダルフォンである妻。幼い頃は俺という一人称だった。矯正したという今ですら、時折気が抜けると飛び出る一人称。物心ついた時には一番近くにいたものだから、自分の影響か真似だろうかと思っていたのだがもしやと考える。あの頃と変わらない容姿と名前をもつ自分──ルシファーがかつての記憶を有しているのだ。ここにきて全く違う赤の他人であるというのも不自然ではないか。ならばアレはかつて役割を果たすことが出来ない不用品、最高傑作にとっての害悪と評価し、廃棄を考えた存在そのものではないのか、と考えたところで、

「起きてるのか?」

 扉からひょっこりと顔を見せる姿に、らしくもなく、戸惑いを覚えていたルシファーは咄嗟に反応できずにいた。

「やっぱり調子悪いんじゃないのか?」
「今、起きたところだ。調子も悪くない」

 本当に? と語り掛けて来るような視線から逃げるように、寝台から出る。事実、体調はここ数日の中で飛びぬけて良かったのだ。いっそ、産まれて来てから一番のさっぱりとした気持ち。今までの二十数年こそが瘡蓋のように晴れやかですらある。とはいえ、目下の悩みの種はサンダルフォンに向けられていた。
 休みであることが幸運であったのか、不運であったのかルシファーには判断が付きかねた。リビングのダイニングテーブルの椅子に座るとテーブルに置かれている新聞を手に取る。動揺とは裏腹に、肉体は習慣に基づいて行動していた。とはいえ、広げた新聞の内容は頭には入って来ずに、眼が滑る。暫くすると小さな足音が耳朶に触れた。心臓がどっどっと音を立てた気がした。そこまでの変化を覚えた肉体に、ルシファーは沸々と気分の悪さを覚える。元より不遜な性格である。他人──それもよりにもよって、サンダルフォンに対して自分がどうして気を遣わなければならないのか、と八つ当たりの自覚はあった。

「なにか言う事はないのか?」
「……? 母さんから作りすぎたからってジャムのお裾分けを貰ったけど、すぐに食べるのか?」
「ちがう。いや、それは食べる」
「好きだもんな、このジャム」

 おかしそうに言うサンダルフォンがもどかしかった。分かっているのか分かっていないのか。妙なところで鈍いのは幼い頃からだった。しっかりしていると思わせておいて、本人もそのつもりだというのに、どこか抜けている。詰めが甘い。そんなサンダルフォンの面倒を見てきたのはルシファーに他ならない。そして、そんなところを可愛いと思うようになっていた。一時的な気の迷いかと思った。
 周囲にはサンダルフォン以外で年の近い子どもがいなかった。だから、学業を理由に家を出て外に触れた。容姿が良く、有名な教育機関に籍を置いていることもあってルシファーはそれこそミスなんとかに選ばれた美人だとか、アイドルを志望しているだけあって可愛いと評判の女性だとかにアプローチを掛けられた。けれどもルシファーの心はちっとも靡くことはなかった。どうしても比べるのだ。比べた上で、サンダルフォンを選ぶのだ。これはもう仕方がない。どうしようもない。認めざるを得ない。
 卒業して、家に戻ったルシファーを両親は元よりサンダルフォンすらもぎょっとして迎えた。誰もがルシファーは戻ってこないだろうなと思っていたのだ。その思い込みが不快で、そして裏切ってやったと思うと、少しだけ愉快な気持ちになった。
 結婚するという話はぼんやりと持ち上がっていた。年が近いこともあるし、何より子どもが少ない地域だった。もしもルシファーが戻ってこなければ、サンダルフォンは一回り以上年上の男と結婚することになっていた。

「スコーン? トースト? ヨーグルトもあるけど」
「お前は?」
「……太ったからやめとく」

 渋々と理由を口にしたサンダルフォンをルシファーは新聞から顔をあげてみる。ヤカンに火をかける姿は太ったとは思えない。サンダルフォンが顔をあげたので、ルシファーは何でもないように新聞に目を通すふりをした。
 暫くすると芳ばしい香りが部屋に充ちていく。
 だからいよいよルシファーは否定する根拠を失っていく。

「スコーン、今日までだった」

 選択肢の意味がないなと思った。
 スコーンとジャム、それから珈琲がルシファーの前に用意された。それは一人分だけだった。

「お前は食べたのか?」
「……あんまり食欲ないんだ」
「ダイエットするほどでもないだろ」

 ルシファーが言ってもサンダルフォンはううん、と気のない返事をするだけだった。それにいつもは食事は抜いても珈琲は抜かないほどだというのに、キッチンから出て来て、手にしているカップの中身は白湯だった。人の心配をしている場合かとルシファーは近くで、開いている病院を脳内でリストアップした。
 太ったとか、食欲がないとかルシファーには当然ながら思い当たる節があった。なんせ結婚しているのだから、人並み程度に、営みはある。しかしと考える。今、こうしてルシファーとして、天司を創造した実績と、そしてサンダルフォンを筆頭にして野望を砕かれた記憶を持つ身として、果たしてサンダルフォンを抱くことはできるのだろうか。そして、そもそも──

「お前は俺と結婚して良かったのか?」
「どういう……?」
「ルシフェルがいるだろ」
「どうしてルシフェル様が出て来るんだ……ん!? あつっ!!」

 訝し気だったサンダルフォンは、言葉の意味を理解するなり取り乱す。その拍子に手にしていたカップから白湯が跳ねた。慌てるサンダルフォンにルシファーはやはりなと残念なような、諦めたような気持ちを覚えながら近くの布巾を渡した。

「子どもかお前は。物を手にしているときに何をしているんだ。火傷は?」
「変なこと言い出すから……。大丈夫、なかった」
「そうか」

 ルシファーは安心した気持ちを覚えてしまうからいよいよ遣る瀬無い。身に沁みついた言動であるのか、それともルシファーとして、なのか境目が曖昧だった。

「……お前は、何時から記憶があった」
「いつから……というよりも最初から?」
「……ならば監視のために俺に近付いたのか」
「監視も、近づくも何も隣だったんだからそういうものだろう。それに俺たち以外は年が離れすぎてただろ」

 何を言ってるんだか。とでもいうようなサンダルフォンの言い方に、内心ではカチンとしたものの、確かに言うまでもなく、それはルシファーの認識としても同じだった。むっとしながらも珈琲と共に飲み込む。
 サンダルフォンは残った白湯をちびちびと飲んでいる。その表情はちっとも悪びれた様子はない。

「……結婚した理由が分からない。お前に何のメリットがあった? 俺はもう、終末計画は放棄している。今更なことだ。そんな俺に付き纏うメリットはあるのか?」

 ルシファーが言うなりサンダルフォンは絶句して、やがて仕方なさそうに溜息を吐き出した。

「丁度、飲み終わってて良かったな」

 飲み終わっていなかったら温くなっていたとはいえ、白湯を掛けられていたらしい。

「そんな理由、考えたことも無かったよ」
「天司長が?」
「もう天司長でもないし天司でもない。俺もお前も、ただの人間だろ」

 鼻で笑ってルシファーが煽るように言えばサンダルフォンは何でもないように言ってのける。

「……俺はルシフェルじゃない」
「知ってるよ。だから、どうしてルシフェル様が出て来るんだ」
「お前はルシフェルのことを慕っていた」
「それがどうして恋愛感情に結び付くんだ。慕っているからといって恋にはならない」

 サンダルフォンはうんざりと言った。昔からだった。それこそ特異点にすら勘違いをされていたのだ。確かにサンダルフォンはルシフェルのことを慕っている。だからといって恋人になりたいだなんて思っちゃいない。尊敬して止まない。敬愛してやまない。天司でなくなった身ですら、その想いは変わっちゃいない。

「言い切るものだな。……俺の所為か?」
「所為って……そうだな、お前がいるからかもな」

 ほれみろと言わんばかりのルシファーにサンダルフォンは皮肉に同意した。言っておきながら、ルシファーは胸がじくじくと痛みを覚えた。

「決定的だ。俺がルシフェル様に抱いた感情は絶対に恋愛感情じゃないしなることはない。だってお前で分かったからな。お前で気づいたからな。」

 言い切ると、ふんと鼻息荒くサンダルフォンは立ち上がり乱暴にカップを流しに置いた。サンダルフォンは、腹立たしくて仕方なかった。初めて抱いた感情の総てを否定されたのだ。尊敬や敬愛とも違う、親愛や友愛とも異なる。いつからなのか分からない。理由も分からない。けれども、確かに、その感情をサンダルフォンに植え付けたのはルシファーだというのに、抱かせたのはルシファーだというのに。あんまりじゃないか。もう二度と帰って来ないかもしれないと思いながらも、泣きそうになるのを堪えて見送って、その間一度も帰省することもなければ手紙も無くて、ああさよならなのだと覚悟した。仕方ないと思った。それでも帰って来て、そして結婚することになって、何が何だか理解できない嬉しさて舞い上がっていた。それが地に落とされた。寧ろ奈落である。怒りで目の奥が熱を覚える。泣くのを堪えるように唇をかみしめた。
 言われたルシファーはといえば、言葉を理解する。俺で分かっただとか、気付いただとか。何を示しているのか。都合よく解釈するならば。まさかならば。もしかすると。
 呆然と、脳裏をよぎった言葉には音がついていた。

「……お前、俺の事好きなのか」
「好きじゃなきゃ結婚なんてするわけないだろ!!」

2022/06/20
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