ピリオド

  • since 12/06/19
 朧気に点在していた意識が集約されていく。自己が確立する。手足が形作られていく。身を包む、優しく暖かな感覚に、サンダルフォンは懐かしさを思い出す。眼を瞑っているのか、開いているのかすら分からない。眩しさで彩られた白が、ただ広がっているだけだった。
 サンダルフォンは包まれながら、かぷかぷと、そういえばそうだった、と懐かしさについ、笑みを零した。

──此処は、繭だ。

 夢を見ているのだと、察する。今までにも、幾度となく、過去を追体験した。中庭での逢瀬で愛しさで堪らなくなって涙を流しながら目を覚ましたこともあれば、カナンでの出来事に呼吸が忘れるほどの慟哭を抑えて目を覚ましたこともある。サンダルフォンの記憶は、優しさと悲しみで満たされている。そして、どれも忘れることはない記憶だった。忘れてはならない記録だった。けれども繭のなかは、記憶の奥底に沈められていた。繭の記憶はサンダルフォンにとって、最古の記憶だった。封じ込めていた、という意識はない。
 災厄の後、ルシフェルの手によりコアに吸収され、強制的な眠りに就かされた時とは異なる心地である。あの当時は、それどころではなかったこともある。寧ろ、その後がサンダルフォンにとっての修羅場であったのだ。もっと自分が早く目を覚ましていればと、後悔で息苦しさを覚えたことも、数えだしたらきりがない。
 このまま漂い続けていたいとすら、思ってしまう心地よさ。痛いことも、苦しいことも繭の中には存在しない。安らぎで満ちている。この世界には傷付けるものが存在しない。絶対的な安心があった。けれども、終わりを知っていた。
 離れがたいほどの温もりの世界にひびが入る。温もりが消失していく。サンダルフォンはその先を知っていた。憶えていた。眩い程の月の光に、細められる蒼穹。あの御方の言葉を、サンダルフォンは忘れることがない。サンダルフォンにとって、唯一無二の存在であり、永遠の光である。サンダルフォンをサンダルフォンたらしめる御方。浮付いた、混濁した意識の中、まだ視界は晴れず、音だけが認識をする。

「悪くはないな」
──は?

 繭から生まれ落ちて、完全に硬化したサンダルフォンを見下ろす蒼穹には、温度が宿されていない。無機質に、研究者然とした視線が、サンダルフォンを見下ろす。
 何が、どうなっているのか。
 思いがけない人物の登場に、サンダルフォンは呆気にとられたものの成程と思い直す。どうやら、記憶の再現ではなくこれは、記憶に基づいた悪夢であるようだった。合点がいく。繭の中で抱いていた安寧は消え失せている。心に広がる絶望感。これを悪夢と言わず何と呼ぶのか。サンダルフォンは当てはまる言葉を知らない。

〇 〇 〇

「何が、どうなっているんだ……」

 ひとりごちながら、サンダルフォンは迷うことなく資料を手に取る。星の民が管理下に置く以前の、空の世界の記録である。今更、何に利用するのかサンダルフォンは疑問を抱くことを許されていない。そもそも、サンダルフォンが疑問を投げかけたところで解答が与えられるわけではない。
 明かりがさしこまない資料室は薄暗く、それでいて物が散乱しているから足の踏み場もない。当初こそ、設置されていた棚に整理されていた資料であったが、今や目を覆いたくなる惨状であった。ぎちぎちに詰め込まれた棚に、それでも入りきらなかった資料が堆く、あちこちに積まれている。星の民──研究者たちが乱雑に押し込めた資料は、それぞれ一級品の価値を持ちながらも、その扱いは散々である。後世の研究者が知れば憤死しかねない扱いであった。
 後世、と考えたサンダルフォンは、つい、胸に溜め込んだ重いものを、長く、吐き出してしまう。とんだ悪夢だと思っていた夢は、どうやら現実であることをサンダルフォンは認めざるを得ない。
 はたまた何かしらの力──いつものように星晶獣の暴走か仕業か、影響かと考えたものの、曲がりなりにも天司長であったサンダルフォンがその力に気づかないわけがない。もっとも、現状、サンダルフォンは天司長ではなかった。そもそも、天司長のスペアとしてのスペックですらないのだ。スペアとして作られていない今の肉体では、とてもではないがルシフェルの天司長の力を譲渡されたところで、オーバーフローを引き起こすことは想像に難くない。
 悪夢であれば、どれほど良かったかとサンダルフォンは項垂れる。その拍子に、嫌でも目に付くのは白い制服だった。軍服にも似たデザイン。鎧は無く、フードのない首元が淋しく感じた。深い色合いの服ばかりを身につけていたからか、何時まで経っても、その姿に見慣れることはない。違和感ばかりで不安になる。
 サンダルフォンは、堂々巡りの思案をしながらも、的確に指示された資料を手に取る。時間に余裕があることを確認したうえで、それでも、やや急いで部屋へ──所長室へと向かう。
 途中、星の民とすれ違う。かつて、恐怖の対象だった。天司とすれ違う。かつて嫉視の対象だった。けれど、誰もかれも、サンダルフォンに怪訝な顔は向けない。どうしてお前がここにいるのだと不審な目を向けない。それどころか、当たり前の存在として受け入れる。研究所で見掛けることが、当たり前の存在であるサンダルフォンを、サンダルフォン自身が、不自然に思っていても、である。

〇 〇 〇

 手にした資料をかかえ込み、サンダルフォンは重厚な扉をノックする。部屋の主からの返事を待つ。けれど、声が掛かる前に扉が開いた。来ておられたのか。サンダルフォンは絶望と歓喜が混ぜこぜになって、何ともいえない表情を浮かべてしまったことを自覚した。どうしてここに? と疑問を抱くことはない。研究所所長であり天司にとって創造主である人物を、ただ一人、友と呼ぶことを許されているのだ。

「待っていたよ、サンダルフォン」

 記憶に刻んでいた声よりも、甘い声音に耳朶が溶けそうになる。自分が勘違いしていただけなのか、記憶が薄らいでいるのかと一瞬だけ思ったが、そうではない。サンダルフォンは引き攣りそうになるのを耐えて恭しく礼を取った。
 サンダルフォンの天司として正しい態度に、ルシフェルが淋しくしょぼくれたのを見ていたのは、ハァと重苦しい嘆息を吐き出したルシファーだけだった。
 ルシファーの歎息に、サンダルフォンは一言、ルシフェルに失礼しますと告げて資料を差し出す。その資料がどれも指示していたものだったから、ルシファーは何も言わずに受け取った。

「サンダルフォン、これから少し、良いだろうか?」
「……ルシファー様」

 不安と期待交じりのルシフェルに、サンダルフォンは救いを求めるようにルシファーへと声を掛けた。ルシフェルの立場としては上官になるのだから、命令をすれば良いというのに、態々サンダルフォンに伺いを立てる。そして、直属であるルシファーに声を掛けるのではなく、当事者であるサンダルフォンに声を掛ける姿に、かつてのルシフェルの姿が重なってしまう。ただ一人、サンダルフォンとして、尊重してくれていた御方。……重ねてしまうのが、誰に対してなのかあやふやであるのに、申し訳ない気持ちになったサンダルフォンは、視線をそらした。
 巻き込まれたルシファーは、俺に振るんじゃないと言いたくなるのを耐える。
天司として作っているサンダルフォンには、天司長であるルシフェルを拒絶することが出来ない。自分の設計は完璧なのだと考えることで、どうにか、ルシファーは精神を保つことに成功した。

「……好きにしろ」

 ルシファーが諦めるように吐き捨てるなり、ルシフェルの顔色が明るくなる。にこにこ顔のルシフェルに、ルシファーはとびきり苦い虫を噛んだような渋面になる。自分とそっくり同じ顔が浮かべるにしては、あまりにも気の抜けた顔であった。本人に言ったところでと考えたルシファーは、サンダルフォンに命じる。

「その顔をやめさせろ」
「どの顔ですか?」

 サンダルフォンにとっては見慣れた顔なものだからきょとりとしていた。どの顔を言っているんだろうと不思議そうに言われたルシファーは、やってられるかと退室を命じた。
 所長室から出ると、ルシフェルに連れられて白い回廊を歩く。時折すれ違う研究者や天司から、サンダルフォンとルシフェルが並び歩くことを疑問に思われていない。精々が、また所長からの任務だろうといった程度である。天司長であるルシフェルと、ルシファーの補佐を務めているサンダルフォンが共にいることを疑問に思われていない。都合よく、誤解をされている。とても、ルシフェルからサンダルフォンを誘ったとは思われていない。

〇 〇 〇

 ルシフェルに連れられて進む中で、サンダルフォンは胸騒ぎのような感覚を覚える。つい最近、立入禁止と指定された区域は、記憶にある場所だった。
 人通りが少なくなっていく道を、忘れていない。その区域は、サンダルフォンが唯一、心安らいだ場所だった。
 口の中がカラカラに乾いていく。心が急くのに対して、足取りが重くなり、とうとう、立ち止まった。遅れに気づいたルシフェルが、立ち止まり、振り向いた。どうしたんだい。声を掛けられ、サンダルフォンは当惑に、焦りで、どもりそうになりながら、どうにか口を開いた。

「その先は立入禁止区域となっています」
「問題ないよ」
「しかし、許可が降りていません」
「私が出そう。そもそも、禁止区域にしたのは私だからね」

 なんでもないように言うルシフェルにサンダルフォンはぎょっと、目を丸くする。ルシフェルは変わらずに、にこやかだった。言いたいことは山ほどある。どうして許可を出すのか、そもそもなぜ立入禁止区域に指定したのか。けれど、天司長に言われては、サンダルフォンは何も言えなくなる。
 ハールートとマールートの言葉から、中庭が立入禁止区域となっていたことを知った。当時のサンダルフォンは、知りもしないでいた。きっとルシフェル様がいらっしゃるから、天司も、研究者も気を使っているのだろうと、呑気に思っていた程度だった。自分だけが、許されていたなんて傲慢はちっとも、無かったのだ。
 そんな、まさかな。思いながら、こっちにくるといい、と命じられて、サンダルフォンはしずしずと重い足取りで後を追った。
 ほとんど記憶と変わらない区域であるのに、サンダルフォンは見知らぬ場所に迷い込んだ気持で、そわそわとして落ち着かない。区域に入って暫くすると記憶と差異のない庭小屋が目に入る。止まりそうになる脚に意識を向ける。

「君の立場が悪くなると言われた」
「どなたに言われたのですか?」
「友だ。私は、どうにも、君を気に掛け過ぎている、と」
「ルシファー様、ですか? ……それこそ、俺の立場も何も問題ないと思いますし、現状にも問題は生じていませんが……」
「今後は分からないことだ」

 今後も続くのか……。とサンダルフォンは、思ったが表面には億尾にも出すことはなかった。庭小屋へと案内をされる。記憶にあるよりも余所余所しい内部でありながら、見知っているから、そのちぐはぐさに混乱をする。困惑するサンダルフォンはつい、縋るようにルシフェルを見上げた。ルシフェルは不安そうに、サンダルフォンを見ていた。ぱちりと視線が混じる。

「……うん。人目が無ければ問題がないのかと、考えたのだが」
「……そのために用意をしたのですか?」
「気に入ってもらえただろうか?」
「気に入るも、何も…………驚いて、しまいました。天司長様の御心遣い、嬉しく思います」

 戸惑いのままに続けたサンダルフォンであったが、ルシフェルがあからさまに哀しそうにするものだから、そのような顔をさせたくなくて、つい、取り繕うように口にしていた。ルシフェルはそうか、と短く言ったものの表情は穏やかだったから、サンダルフォンはほっと安堵してしまう。

〇 〇 〇

「ここに掛けていてくれ」と案内をされた椅子に座る。ルシフェルは少し用意があるからと席を立っていた。複雑な感情で、サンダルフォンは窓から中庭の様子を見る。暫くすると芳ばしい香りが立ちこめて、サンダルフォンの涙腺を刺激する。暫く、絶えていた香りだった。懐かしさでつんと、胸が疼いた。
 ありえないこと、と言い切れない。殆ど変化のない、時間も曖昧な研究所だからこそ、あの思い出が明確に何時であるとは言い切れない。時期も分からない。こつりと靴音にサンダルフォンはいてもたってもいられず、振り向いて声を掛ける。

「あの、天司長様、この香りはいったい……」

 言いかけた言葉が尻窄む。
 現れたルシフェルはカップを二つ、手にしていた。

「珈琲、という。珈琲の木になった実から作られている飲料で、進化の過程で発見された、副産物のようなものだが……是非、君にもと思って用意をした」

 説明が耳に触れる。同時に、記憶がよみがえる。重なる。これは、ダメだ。サンダルフォンの中で、けたたましい警鐘が鳴り響いた。だというのに身体はサンダルフォンの命令を無視したように、固まって、動きやしない。
 ことりとカップをテーブルに置いたルシフェルは声を掛ける。

「どうぞ、召し上がれ」
「……謹んで、頂きます」

 記憶と重なる現状に、サンダルフォンは息苦しさを覚える。震えそうになる手で取ったカップを口に運び、一口、啜る。ルシファーに作られた肉体で初めて飲んだ珈琲は、記憶通りに、泥水のような苦さだった。渋く、苦いものが口に広がる。それすらも、懐かしいのだから、なんだか、笑いそうになった。

「どうだろうか?」
「とても、美味しいです」
「……そうか」

 サンダルフォンの言葉、にルシフェルが極まり一瞬、言葉に詰まったことを、サンダルフォンに気づく余裕は、とてもではないが、無かった。サンダルフォンが口いっぱいに広がる苦味に、どうして慣れたのか疑問が浮かび、そしてその度にあああの御方に喜んで欲しくてたまらなかったのだ、同じ気持ちになりたかったのだ、美味しいと、本当に、思いたくて仕方なかったのだということを、思い出す。

「気に入ってくれただろうか?」
「はい。とても」
「良かった。なら、また、淹れるときには君を招待しよう。楽しみにしていてほしい」

 目の前のルシフェルは、サンダルフォンを作った存在ではない。けれども、どうしたってルシフェルであることを痛感してしまい、サンダルフォンは目の奥が熱を持ったのを感じて、不細工な笑みを、どうにか、浮かべて誤魔化した。

〇 〇 〇

 それからというもの、殆ど毎日のように、ルシフェルが研究所に顔を見せるようになった。そしてその度、サンダルフォンを誘い、中庭へと向かう。サンダルフォンの中には多少なりとも、嬉しいという気持ちはあった。その気持ちを、無かったことには出来ない。無視をすることは、出来ない。けれども同時に、不可解でもあったのだ。日に日に、その不可解さは、抱いた疑問は、体験した未来を明瞭にさせているような気がしてならない。──やはり、と至る思考にサンダルフォンは、ルシファーに意見を口にした。

「俺を、処分するべきです」

 ルシファーにサンダルフォンから声を掛けることは珍しいことだった。意見をよろしいでしょうかと強張った顔で言われたルシファーは、その意見に驚きで、何も言えなかった。サンダルフォンはそのまま、続けた。

「どうにも、思い上がりではなく、天司長……、ルシフェル様にとって、俺は害でしかありません」
「……唆されたか? それとも、それがお前の意見か」
「俺の、意見です」

 ルシファーにじっと見詰められるも、サンダルフォンは視線を逸らすことはない。ただ、その先を促された。

「有難いことに、ルシフェル様には良くして貰っていて、気に入られているとは思うのですが……理由が不明なのです」
──だって、自分はルシフェル様に作っていただいたサンダルフォンではない。

 サンダルフォンは目を伏せた。
 果たして自分はルシフェルが大切にしてくれていたサンダルフォンであるのか、自信がない。疑っているわけではない。けれど、今のサンダルフォンの身はルシファーに作られたものだった。サンダルフォンの出自に、ルシフェルは関与しない。サンダルフォンの創造主は、ルシフェルではない。であるならば、なぜ、ルシフェルがサンダルフォンを気に掛けるのか。疑問を抱いてしまう。
 ルシフェルの言葉を信じている。今際の言葉を、別れの言葉を裏切るつもりはない。けれども、ルシフェルが言葉をかけたサンダルフォンは果たして今の自分と云えるのか──。ルシフェルとの思い出もない。ルシフェルへの憎悪を抱くこともない。天司長と、麾下という関係でしかない。そんな自分が、なぜ、ルシフェルに気に掛けられているのか。サンダルフォンには理解が出来なかった。何よりも、気に入られたことを受け入れたとして、その果てに、かつてのような、最悪の結末を迎えるのではないかという不安ばかりがサンダルフォンを臆病にさせた。未来が選べるのなら、変えることができるならば、サンダルフォンはルシフェルが天司長として、そして、やがて、役割に縛られることのない、ただの命として生きることを望む。
 ルシファーは戸惑い交じりに悲し気な顔をするサンダルフォンを見て、どうしてこうも自己肯定感が低いのか不思議でならない。よく言えば謙遜が過ぎるのだろうが、過ぎれば鬱陶しいにも程がある。ルシファーにとっても、どうしてルシフェルがあれほどまでにサンダルフォンを気に入っているのか、好意を抱いているのか疑問は抱くものの、知能に制限を掛けていない作品でもあるうえに、進化を司るという性質上芽生えた感情なのだろうと、役割に支障はきたしていないこともあって看過していた。──少なからずルシファーの業務を妨害しているとはいえ、である。
 まったく以て他人事ながら、アイツも報われんな。とひとりごちた。当然、サンダルフォンを処分する意見は聞いただけ、である。聞き入れるとは一言も口にしていない。ルシファーとて、補佐としてサンダルフォンの能力は、認めている。なんせサンダルフォンの役割は、作られた意図はルシファーのスペックの拡張である。その思考回路には、ルシファーの意識が根底にあるのだから、ルシファーが不快になる行動をとることはない。そして、ルシファーの将来の計画に、サンダルフォンは欠かせない。ルシファーの肉体のスペアであることを、サンダルフォンも、ルシフェルも、知らない。

Title:エナメル
2022/05/02
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