ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンは、天司どころか、星の民すら見かけることがない中庭を疑問に思わない。初めて、ルシフェルに連れられた時から、天司も、星の民も、見掛けたことがなかったからである。あまり、知られていない場所なのだろう。その程度にしか思っていない。実際には、ルシフェルが私情だけで立入禁止区域に指定したことを、知らない。その過程があるからこそ、サンダルフォンの特別扱いを、最高傑作を害している、惑わしているとルシファーが気がかりにしていることを、ルシフェルは興味を持っていない。
 珈琲を口にしながら、他愛もない話をする。といっても、サンダルフォンは移動を制限されている上に、接することが可能な対象も限られているから、出来る話といえば、あり余る時間を費やしている珈琲の研究成果ばかりだった。一方でルシフェルもサンダルフォンに話す内容を厳選していた。無意識で、サンダルフォンは綺麗なままであってほしい、という願いから、この話題は傷つけるだろう、この話題は不快になるだろう、と選んでしまい、話すことは少なかった。だからほとんど、サンダルフォンの話に耳を傾けるばかりだった。
 サンダルフォンは、俺ばかり話していて詰まらなくはないだろうか。と不安を幾度も覚えていても、ルシフェルはサンダルフォンがころころと表情を変えながら、言葉を選びながら、口にする話が、たとえ知っていたことであっても、愛しくて仕方なかった。
 中庭で、サンダルフォンと向き合っているルシフェルの表情は、天司長にはあるまじき、穏やかさが浮かべられていた。サンダルフォンにとっては見慣れた表情であるが──創造主であるルシファーや、殆ど同時期に作られたベリアルが見れば、お前そんな顔が出来たのかと驚くことが必至であった。
 だからこそ、その日、ルシフェルが中庭に姿を見せてから、珈琲を口にしてからも、顔を強張らせているものだから、サンダルフォンは、不安でたまらなくなった。──とうとう、役割は無かったのだろうか、廃棄されるのだろうか。と、ルシフェルといるときだけは考えないようにしていた恐怖が顔を覗かせる。
 どうにか普段通りを心掛けていたサンダルフォンの心が折れると、沈黙が続いた。ややあってから、ルシフェルは意を決したように、口を開いた。

「試したいことがあるのだが、協力をしてもらっても、良いだろうか」

 サンダルフォンは少しどこか、かなり、驚いた。驚き過ぎて、返事が出来なかった。妙な間を空けてから、サンダルフォンは、協力、という言葉の魅力を噛みしめ、声がひっくり返りそうなほどの喜びを抑え込んで、試したいことの中身も知らないままに、俺で良ければと口にした。逡巡、ルシフェルの表情に喜びが浮かび上がる。ありがとう、と口にしたルシフェルにサンダルフォンは顔が赤らむのを感じた。
 珈琲を淹れて、美味しいと褒められたとき以上の喜びに、サンダルフォンは声を詰まらせてしまう。
 役立つことが出来る。期待から、興奮から、手が汗ばんだ。

「俺は何をすれば良いのでしょうか」
「……そうだな」

 ルシフェルは考え込む。空の民の行為は傍からは簡単に見えた。知識としても有している。しかし、いざとなるとどうにも、勝手が分からない。思案に耽るルシフェルに、サンダルフォンは不安が半分と、ルシフェル様が考え込むほどに大変なことに協力できる嬉しさ、あるいは、協力に選ばれた喜びが、また湧き上がっていた。
 ルシフェルは数個のパターンを描き、数度脳内でシミュレーションする。これが最も良いだろうと、ひとつのパターンを採用した。

「そのままで」

 サンダルフォンに命じて立ち上がる。サンダルフォンは、きょとりとしたものの、はい、と首肯して、さして崩れていない居住まいを正した。こつりとルシフェルの足音が耳朶を響かせる。
 座ったままのサンダルフォンの横に移動したルシフェルは、手を伸ばす。ルシフェルの手は、冷たかった。サンダルフォンが、緊張と興奮で、熱を持っていた所為もある。サンダルフォンは息を忘れた。ふっと、ルシフェルが苦笑を漏らした。強張ることはないよ、と声を掛けられたサンダルフォンは、ぎこちなく、体を弛緩させようとした。

「こちらを向いて」

 言われたままに、ルシフェルの方を向いて、見上げる。それから、見つめ合うとやがて、ルシフェルが近づいた。睫毛の数も分かる距離になった顔に、サンダルフォンは不敬が過ぎると飛び退きそうになるのを堪える。逡巡、唇が触れた。僅か、数秒のことであった。ふにと柔らかな感触を覚える。
 サンダルフォンはぱちくりと目を瞬かせ、ルシフェルの動向を見守った。ルシフェルはふむ、といった様子で考え込み、状況を把握しかねているサンダルフォンを見詰めて安心させるように、笑みを向けた。サンダルフォンは、矢張り、意味が分からずに、困惑混じりの笑みを返した。

「もう一度良いだろうか」
「はい」

 唇が触れる。
 宣言されたものの、どのような心持になればよいのかサンダルフォンは分からなかった。先ほどより、長く、その分だけ、サンダルフォンは視線をさ迷わせる。正面から、ルシフェルの視線と向き合うことは、どうにも、出来なかった。
 唇が離れる。
 サンダルフォンは薄くなった酸素を補おうと、呼吸を繰り返した。その様子を見て、ルシフェルは再び、考え込む。何を間違っているのだろうかと考えていた。唇には、サンダルフォンのふにふにと、柔らかな唇の感覚だけが残っている。
 サンダルフォンの肉体に関して、ルシフェルが知らないことはない。設計に関して、注がれた材料に関して、すべて、把握している。だというのに、唇に触れた柔らかさは、未知の感触であった。

「……すまないが、もう一度、付き合ってくれないか」
「…………はい」

 サンダルフォンには、ルシフェルからの頼みを断ることは出来ない。ルシフェルに、その意図はなくとも命令に等しい。加えて、もしも断わって失望されたらと不安があった。意味も、理由も不明な行為をサンダルフォンは粛々と受け入れる。3度目の行為にしてやっと、ルシフェルの唇が薄いことに気づいた。その程度の、余裕は産まれていた。とはいえ、気恥ずかしさは消えない。触れることは当然ながら、触れられることすら、恐れ多い。
 三度目はそれまでよりも、随分と長く、唇が触れる。
 サンダルフォンは息苦しさを覚えた。気づけば握っていた掌に、汗がにじんだ。ずきずきと頭の奥が痛みを発する。触れている唇の感覚が曖昧になる。どうにか耐えようと瞼を閉じる。何があっても、ルシフェルを否定することは、拒絶することは、サンダルフォンには出来なかった。
 ルシフェルはサンダルフォンの様子に気付いていながらも、行為を中断することは出来なかった。あと少しだけ、と、柔らかな唇を求めるうちに、サンダルフォンがぐらりと倒れかかり、はっとなる。逡巡、頭を支えて、どうにか、サンダルフォンが倒れることを防いだ。どっと、汗が噴き出る。
 サンダルフォンの顔は青白く、意識はなかった。酸素不足で倒れたことを、ルシフェルは察して、自身の過ちに気づいてしまった。ルシフェルとしては、ここまでするつもりは無かったのだ。ただ、あと少し、もう少しと、続けて、結果的に、サンダルフォンに無理を強いていた。
 ぐったりとするサンダルフォンの背中と膝裏に腕を差し込み抱える。意識の無いサンダルフォンはルシフェルに身を任せるしかない。サンダルフォンの頭が肩に凭れ掛かる。自分の所為で招いてしまった状況だというのに、申し訳なさとは裏腹に、自身の腕の中にあるサンダルフォンの存在に、ルシフェルは場違いな感動を覚えた。
 いつまでもこの腕の中に抱いていたい。そんな、自分勝手な願いを押しこめたルシフェルは、仕方なく、サンダルフォンの部屋へと移動した。──天司に関してならば、ルシファーを頼るべきだと思いながらも、サンダルフォンのルシファーに対する態度を考えると避けるべきだと判断をした。天司の構造に関して創造主とだけあって信用はあれども、サンダルフォンに対する信頼を、ルシフェルはルシファーに持ち合わせていなかった。信用して、サンダルフォンを任せてそのまま廃棄、ということも想像できてしまうのがルシファーのサンダルフォンに対する扱いであるのだ。
 移動する最中、すれ違った麾下や、研究所に務める星の民からは、ぎょっとした視線が注がれたりだとか、二度見をされたりだとか、ちょっとした騒ぎとなったものの、ルシフェルは無関心だった。後になって報告を受けたルシファーが頭を抱え、その直属の部下であるベリアルが腹を抱えて笑うだけの、ちょっとした騒動を引き起こした本人であるルシフェルは、サンダルフォンの部屋に辿り着き、その部屋の寝台にサンダルフォンを降ろした。暫く、その寝顔を見つめる。顔色に血の気が戻っており、呼吸も穏やかだった。瞼がひくひくと痙攣すると、ぼんやりとした赤い目が覗いた。やがて状況を把握したように、目が見開かれると勢いよく体を起こそうとするサンダルフォンをルシフェルが制する。サンダルフォンはルシフェルに言われたものだから、おずおずと横たわったまま、ベッドサイドのルシフェルを見上げた。
 ルシフェルは後悔を覚えた。傷つけてしまったという状況を、今更になって突きつけられた。

「すまなかった、サンダルフォン」
「謝らないでください。ルシフェル様は悪くないんですから。謝る必要なんてありません」
「いや、私が無理を言った所為だ」
「ルシフェル様の所為ではありません!! ……貴方の期待に応えられなかった俺の所為です」

 サンダルフォンは口にして、途方もない、消え入りたくなる悲しみでいっぱいになった。折角、役に立てると思ったのに。その後悔で、口惜しさと情けなさで瞼の裏が熱を覚える。

「……お役に立てず、申し訳ありません」

 消え入りそうになる声がルシフェルの耳朶に触れた。サンダルフォンは泣くのをぐっと堪えて、ルシフェルを見上げる。潤んだ瞳に見つめられたルシフェルは、触れたいという願いを、理性で押さえつける。触れたら、きっと、繰り返してしまうことを冷静に、理解していた。

「そんなことはない」
「ありがとう、ございます」

 ルシフェルの事実を、サンダルフォンは悲しげに、慰めとして受け取った。その姿を見下ろすルシフェルは、どうして、傷付けてしまうのだろうと、どうにもならない無力さを痛感した。だというのに、再び、その柔らかな唇に触れたいと願っていた。

Title:エナメル
2022/04/18
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