廊下に出る。しんと静まり返っている廊下を進む中で、明かりが漏れる喫茶室をルシオは覗きこんだ。あり得ないとは思いつつも、消し忘れかもしれないと思ったのだ。きい、と木材が軋む音に部屋の中で俯いていた影が顔をあげた。一瞬驚いた顔をした。逡巡。ぱっと、呆れたような笑みを浮かべる。見間違いだったのだろうかと思ってしまったが、ルシオの目には生憎と、はっきりと焼き付けられていた。
「どうした、眠れないのか?」
「ええ。……今夜はどうにも、風が気になってしまって」
「少し荒れているようだからな」
会話が途切れる。サンダルフォンは気まずくなった。手にしていたカップの縁を無意味に触れる。湯気が立ちこめていた珈琲は、カップまでも、気付けば温くなっていた。ぼんやりとし過ぎてしまった。ルシオの気配にすら、気付くことが出来なかった。サンダルフォンは迂闊さに嫌気を覚える。あるいは、それほどまで、ルシオに気を許しているのかと気づかないでいた内心に、それはそれで嫌だなと思った。
日中はわいわいとした賑やかな雰囲気ではないものの、穏やかな気配で満ちた空間である喫茶室がしんとしていた。夜ということも相俟ってか、物淋しい空気が流れていた。もしくは、サンダルフォンがその中心であるように、ルシオには感じられた。
「サンちゃんはどうしたんですか?」
「俺も、そんなところだ」
「そうでしたか。ところで、そちらの珈琲は……」
「これ、は……」
「よろしければいただいてもよろしいでしょうか?」
「これ、は……冷めている、から、新しいものを淹れる。少し、待っていてくれ」
そういって、サンダルフォンは立ち上がる。手にしていた半分ほど飲んでいたカップと、手つかずのまま、淹れられたままのカップを持ち、カウンターに入った。その姿を見ていたルシオは口に仕掛けた言葉を、寸でのところでのみこんだ。
お湯を沸かす傍ら、サンダルフォンは戸棚から珈琲豆の入った瓶を取り出す。ルシオはその様子をカウンター席から眺めていた。
効率性を求めたカウンター内は、少ない手順で、少ない動作で、簡潔に、行動できる。サンダルフォンが、経営修行や経験から得た知識を基に作り出した努力の賜物である。
「お待ちどおさま」
「ありがとうございます。──サンちゃんの淹れてくれた珈琲は格別ですね」
「それはどうも」
ルシオが何度も言うものだから、ルシオのことを知らなければ、くらりとするのだろうなと他人事のようにってしまう程度には、サンダルフォンはすっかりその歯が浮くような台詞に慣れてしまった。
にこにこ顔でルシオは珈琲を飲む。サンダルフォンは放置していた冷めきった珈琲の入ったカップを見下ろし、躊躇いがちに、口にした。淹れてから時間が経っていた。その分だけ味は落ちている。酸味や渋みが強い。改善点がいくつも浮かび上がる。冷めても味の落ちない珈琲は、まだまだ遠い。渋い表情をするサンダルフォンに、ルシオがそういえば、とでも言うように声を掛ける。
「サンちゃんはいつもこの時間まで起きているんですか?」
「今日は、たまたまだ。……珈琲の研究のためにな」
「そうでしたか。私で良ければ付き合いますよ」
「……気持ちだけ、受け取っておくよ」
遠慮せずとも、と口にしようとしたルシオは、噤んでしまった。サンダルフォンがきゅっと唇を引き結び、飲み干したカップを笑うのに失敗したように、歪んだ顔で見下ろす姿を見ると、口にできなかった。同時に、羨ましいという感情が素直にわきあがった。
黙りこくったルシオに、サンダルフォンが顔をあげた。なんせルシオときたら、いつもはこちらの事情なんて無関係だと言わんばかりに、ぺらぺらと喋り続けるというのに、それが急に静かになるのだから、不思議にもなる。どうかしたのかと、ルシオの様子を見れば浮かべる表情は無であった。
眉目秀麗なだけあって、その表情が抜け落ちると無機物感が増す。得体の知れなさを覚えてしまう。不本意であるが、すこしだけサンダルフォンは恐ろしさすら、感じた。もっとも、だからこそ安心をする。なんせサンダルフォンが知る、ルシオとよく似ているルシフェルからは抱いたことのない感情であったのだ。
意を決して、声を掛ける。
「どうかしたのか」
「羨ましいなと、思っただけです」
「…………?」
羨ましいと思われる要素をがサンダルフォンは分からなかった。この場において、喫茶室において、サンダルフォンにおいて、ルシオが羨ましがるような要素は何一つとして、サンダルフォンは浮かばなかった。その様子に、ルシオが微苦笑を浮かべて、珈琲を啜った。味わってから、迷いがちに、やがて、懺悔するように口を開く。
「サンちゃんに想われるルシフェルさんが、羨ましいのでしょう」
その言葉は他人事であった。何を言っているんだか、と疑問を浮かべるサンダルフォンを置いてけぼりにして、ルシオは一人で納得をする。得心をする。理解をする。途端に、やる背なさを抱く。羨望を自覚したところで、解決策はなかったのだ。ならば、気付かなければ良かったとすら思ってしまう。勝負にもなりはしない。敗北である。惨めさだけがじわじわとルシオに降り注ぐ。
珈琲は飲みほしてしまい、空になったカップをカウンターテーブルに置いた。
「君だって想われているだろう。町を歩けば取り囲まれているじゃないか」
「そうではないのです。私は、ただの私を見てくれる誰かが、それは、きっと、サンちゃんが、いいのです」
「それこそ、何を言ってるんだか……」
はぁと歎息を零したサンダルフォンは、自身の眉間に皺が寄っていることが分かった。
サンダルフォンがルシフェルに向ける敬愛を勝手に推し測られた不快感、自分を愛することが当たり前と言わんばかりのルシオの言葉、サンダルフォンは気分が悪くなるのを感じた。
「その珈琲にアルコールは入ってないぞ」
「酷いです、酔ってません」
「なお性質が悪い」
切り捨てるサンダルフォンにルシオはしょぼくれた顔を浮かべる。その顔がサンダルフォンは苦手だった。ちくちくと良心が痛む。悪いことをしている気持ちになって、居た堪れない。ちっとも、悪くはないのにと言い訳みたいに言い聞かせる自分が惨めに思えた。何度も、身に覚えのある感情に、サンダルフォンは、諦める。妙な意地を捨てる。
「きみは存外、阿呆なんだな」
「ひどいです」
「だって、そうだろう。お前とルシフェル様はちがう。そもそも、おまえが言ったことだろう」
「わかっています」
「いいや。分かっていない」
「そこまで言わなくても良いじゃないですか……」
ルシオは項垂れる。打ちひしがれる。悄然とカップを見つめた。
陶器のカップはサンダルフォンがこつこつと買い揃えた拘りの一品である。珈琲の種類に合わせて、飲み口や深さ、厚みが異なっている。このカップはアウギュステで買ったものだったと記憶していた。アウギュステは、良い記憶ばかりだった。なのに、今は苦しい。
「君が今更、ルシフェル様のように振舞ったとしても、俺は君を慕うことはないし、ルシフェル様への想いを向けることはない。何より、ルシフェル様とはこのようなふざけた会話はしないだろうし、ルシフェル様とではなくても、こんな接し方はしない」
サンダルフォンにとっては当たり前のことだった。接すれば、接する程にルシオはルシフェルとは異なる。それどころか、どうして自分はあの御方とルシオを重ねていたんだろうと、それこそ不敬だったと項垂れることもあった。すべてをお見通しであるかのように振舞いながら、何も言わずに、厄介事を持ちこむ。手のかかる男である。
耳朶を震わせる言葉に破顔したルシオに、サンダルフォンは──やっぱりルシフェル様とは違うんじゃないかと内心でごちて、まだ残っていた珈琲を飲み干した。