「どうかされましたか?」サンダルフォンが問いかける。
「いいや、なにも」そういって、ルシフェルは微笑んだ。
毎度のやり取りである。そのやり取りを繰り返すたびに、サンダルフォンはむず痒い気持ちを覚えた。
ルシフェルから向けられる感情に気づかないほど、鈍くはない。烏滸がましくも、傲慢と言われても、サンダルフォンはルシフェルから大切にされていると、自覚していた。事実、ルシフェルから言葉を賜ったのだ。だから、きっとサンダルフォンの思い過ごしでも、勘違いでもなく、ルシフェルに大切にされている。愛されているのだ。求められている。──だからこそ、居心地が悪い。
嬉しくない、訳ではない。その感情はサンダルフォンが求めていたものだ。強請っていたものだ。望んでいたものだ。だというのに、いざ与えられると戸惑い、困惑を覚え、逃げ出してしまう。そんな自分に嫌気が差す。情けなさで、儘ならなさで、胸が張り裂けそうになる。
応えなければならない。その想いが、嫌な訳ではない。不快な訳ではない。ただ、二千年を生きて来た中で、すっかり諦めていたものだったから、手放してしまっていたから、わからないのだ。
ルシフェルは何も言わない。サンダルフォンの戸惑いすらお見通しであるように、ただ微笑み、変わらぬ愛を注ぐだけだった。寧ろ、すべてがサンダルフォンに注がれている。世界を守るという立場、それまでどうにか天司長という立場が枷となっていたものが、解き放たれていた。サンダルフォンが気恥ずかしいと感じる程度の愛情は、実のところ団員がうっかり巻き込まれようものならば気が触れそうになる濃度のものである。こういう所で、ああそういえばサンダルフォンって天司なんだなあ、なんていう、到る方面の天司に対する風評被害が起こっていた。生真面目なミカエルは、元上司であるルシフェルが関わることであるから強く言えないものの、眉をしかめて妾たちをひとくくりにするなと零すものである。創造主であるルシファーが見れば卒倒する光景であるのだ。
仕込み作業が終わってしまったサンダルフォンは、どうしようと少しだけ手持ち無沙汰で手をさ迷わせる。無意味にフライパンをしっかりと洗ったり、ナプキンを確認したりとするものの、するべきことはなにもない。
「珈琲を淹れようと思うのだが……」
その言い方や、タイミングはずるいなとサンダルフォンは思ってしまう。
「ご相伴してもよろしいでしょうか?」
「勿論だとも」
サンダルフォンの見知った微笑みは、サンダルフォンしか知らないことを誰も知らない。
揃いのカップは骨董市で見つけたものだった。使い事はないだろうと思っていたのに手に取って、購入していた。白の陶器で、ありふれた形をしている。喫茶室で使うこともなく、自室でときおり、ひっそりと眺めていたそのカップが、並び珈琲が注がれていた。
ルシフェルの淹れる珈琲は、サンダルフォンが最も好むものだった。初めて飲んだときには泥水かと思ったというのに、何時からか好ましいものになっていた。サンダルフォンがどれだけ研究をしても、手順を真似ても、この味にはならない。何が違うのだろうかと不思議でならない。
「何か特別な手順を踏んでいるのですか?」
「何だと思う?」
ルシフェルが愉快そうに質問を質問で返す。サンダルフォンは幾つかの手順を口にするものの、ルシフェルは笑って首を振る。
サンダルフォンは考え込みながら、カップを手に取り、一口、二口と味わう。
忘れることのなかった味わいが口に広がる。
ルシフェルはその様子を嬉し気に見詰めてから、同じ様に珈琲を口にした。
不意に、視線が交わる。ぱちりと交わった視線に、サンダルフォンは不敬と承知しながらも、むずむずと、いたたまれなさを覚えて、視線をカップの水面に向けた。
サンダルフォンは、知っている。ルシフェルは決して狭量ではない。サンダルフォンが拙くとも、想いを言葉にすれば喜ぶ。けれども、サンダルフォンにはその勇気が出せない。踏み出せない。
優しい蒼穹に見つめられると、言葉は喉元で引っ掛かってしまって、口にするのは有耶無耶で無意味な話題だった。ルシフェルはサンダルフォンの想いを承知の上で、無意味な話題に耳を傾けた。