ピリオド

  • since 12/06/19
 初めての行為を終えたとき、自分は何を思っていたのだろうかと思い出そうとした。けれども、何も思い出せない。事後の気怠さだけを思い出す。喪失感だとか、達成感だとか、満足感だとかは抱くことはなかった。ただ嵐のように過ぎ去って、終わった。
 サンダルフォンにとって処女とか、初体験とかいうものはその程度だった。
 シチュエーションに夢見ることもなければ、相手を描くこともなかった。重要に思っていなかったのだ。そもそも女性としての肉体を得たといっても、中身は成熟どころか燻製した、数千年を生きた記憶と経験を持つ天司のままだった。天司であった時にすら肉体経験はない。けれども知識はあった。団員たちが飲みの席で面白半分に口にするし、人間の営みを見守って来たのだから当然、かまととぶる理由もなく、知っている。ただ自らの身で経験したうえで、サンダルフォンは感傷も感慨深さもなく、ただその程度として受け止めたのだ。寧ろ、組み敷いた人物に対しての驚きでいっぱいだった。そしてその人物が、自身に欲情するのかと仰天し、不思議に思った。

 内臓をかき分けるような感覚。
 境目が曖昧に溶けていくような錯覚。
 言い知れぬ感情がじんわりと渦巻いたような、気がした。

 サンダルフォンは肌寒さで目を覚ました。携帯を手に取る。日付が変わったものの、朝まで遠い時間である。二度寝を決め込むには目が冴えてしまっていた。腹の異物感や、股関節の怠さはあるものの、体のべたつきはない。生憎と、風呂に入った覚えはないから後始末はしてくれたのだろう。
 くぐもった寝息に、サンダルフォンは携帯をオフにする。それから、サイドテーブルの上に静かに置いた。やがてくぐもった寝息が安らかな、静かなものへとなった。サンダルフォンは寝返りを打つと、隣で眠っている男の端正な顔を観察する。
 暗闇に慣れて来た眼でも、うっすらと隈があることが確認できる。研究で忙しいらしいのだから、こんな行為をするよりも休んだらいいのにと思う。そして、そんな心配事を考えている自分に何とも言えない気持になる。

 サンダルフォンの処女を奪い、それからだらだらと関係が続いている幼馴染の男は因縁の男である。
 サンダルフォンが敬愛してやまない御方の仇であり、世界の敵であった──ルシファーである。本当に、生きていると何が起こるのか分からないものだ。なんせ鮫は空を飛ぶし、ゾンビが徘徊する。現代においては古代表現ではあるが事件があったという程度に処理されている、当事者としても説明がつかない出来事を思い出す。

 互いに記憶があると気づいたのは何時からだったのか確認する手段はない。けれど、サンダルフォンはルシファーのことを認識し、記憶と結びついた瞬間からルシファーの側から離れるという選択肢は消えていた。
 ルシファーにとっては理路整然とした帰結のなかで生じる疑問であり、結論を証明するための実験であったとしても、常人からは突拍子もなく面倒で危険でしかない行動ばかりだった。そんなルシファーを野放しに出来なかった。
 ルシフェルがいない現状、自分がストッパーにならなければという責任感があった。今やその背中に羽が無くても、天司でなくても、約束がなくても、サンダルフォンはルシファーを世界に放り出すことなんて、出来なかった。──もっとも、幼馴染という関係から、肉体関係を持つようになるとはサンダルフォンも想像すらできないことであった。矢張り、ルシファーの思考回路は理解できないとサンダルフォンは吐きかけた溜息を呑みこんだ。

 サンダルフォンは眠る横顔を見つめた。整った顔立ちであることは、サンダルフォンも認める。けれど、それだけだった。──好き嫌いは多く、食事にはいつも気を遣う。不健康な生活をしているのだから、せめてバランスの良い食事をしてほしいという善意はサンダルフォンの一方通行だ。細かく刻んだシイタケだとかピーマンだとかを目ざとく見つけて恨みがましい眼で見るのには不満ばかりが募る。まずい、とか美味しくないといった類の文句は言わないが、美味しかったも言われたことはない。まあ、毎度完食はするのだけど。それにいつも連絡が遅い。遅くなるなら連絡をしろと言ってもすぐに忘れる。何度うつらうつらとしながら帰って来るのを待ちぼうけたのか分からない。ポケットに名刺をいれるな、確認をしろといっても未だに忘れているのか、洗い物が悲惨になる。──これは、確認しない自分がわるいのかもしれないが……いや、お互いにいい年なのだしとサンダルフォンは自分に言い聞かせる。思い出せば沸々と不満が湧き上がった。本当に、どうして関係が続いているんだかとサンダルフォンは疑問を抱いてしまう。

 一度抱いたら満足をするのかと思っていた。性欲が満たされる、なんて野暮で下品な理由ではない。知識欲が満たされるだろう、と思っていたのだ。
 ルシファーに対して薄情だとは思わない。実験のためと言いながらも、夏祭りの屋台で掬い上げた金魚を鯉かと見間違える大きさに育て上げた男である。サンダルフォンは成長を見ていて当初こそすごいと純粋に思っていたものの、巨大水槽が必要な大きさになったあたりで若干の気持ち悪さを感じていた。ルシファーは淡々としていた。愛着はなくとも、責任感はある。これ以上は買えないというレベルに達すると、その頃にはちょっと有名になっていたものだから興味を持っていた学者に引き取らせていた。責任はあっても、愛着はないのだろうなと、あっさりと手放したルシファーにサンダルフォンは空っぽの水槽を見て思った。水槽は暫くすると処分されていた。そしてその責任は、サンダルフォンにはあてはまらることはないと確信していたのだ。
 人間として、決して長いとはいえないものの、生き物としては長く生きた経験から、得た結論である。
 ルシファーは人間の身としての知的好奇心を満たしたかっただけだ。そして、その相手に自分は選ばれたのではなく、都合が良く、当てはまったにすぎない。ルシファーに問い質したことはないものの、あながち的を得た推察であるとサンダルフォンは思っている。

 ルシファーは顔が良い。若くして世界的にも有名な研究者として、注目を浴びている。ルシファー自身は鬱陶しそうにしながらも、相手はより取り見取りであるのだ。ただそういった人物というのは面倒らしい。サンダルフォンはふと思い出す。遠い昔のことだ。騎空艇で、共に旅をしていた何かと無礼な男のことだ。敬愛してやまない御方と、そしてルシファーによく似た風貌の男だ。
 別れは思い出せない。けれども、ながく、共にいたことを朧気な記憶ながら覚えている。良い思い出以上に、迷惑な思い出がよみがえる。修羅場に巻き込まれたり、修羅場を引き寄せたりと、何かと苦労した覚えが妙に鮮明に蘇った。散々に振り回されて、怒ってばかりだった。しかし、今のサンダルフォンはどういうわけだか「懐かしさ」を胸に抱いていた。思い返してみれば、悪くはない──サンダルフォンにとって、対等な友人であったのだ。特異点や蒼の少女、団員たちも大切な仲間であった。けれどもあの男は少しだけ、別のポジションに存在していた。あの男は、いまどこにいるのだろうと考えていると、ふと──「なにを考えている」

 ぎょっと上げかけた悲鳴をサンダルフォンは呑みこんだ。
 眠っていると思っていたルシファーは、サンダルフォンをじっと凝視していた。疚しいことはなにも考えていないというのに、サンダルフォンは罪悪感を覚えて、居心地悪い。
「なにも。関係ないだろ」
 と言うなり、サンダルフォンは逃げるように寝返りを打つとルシファーに背中を向けて、目を閉じた。白い背中を見つめるルシファーがどのような表情をしていたのかなんて、知りもしない。知りたくもない。そもそも起きた時点で部屋を出ていっても良かったのだ。シャワーを浴びるという選択肢があった。けれども、それをするとルシファーが不機嫌になることを知っていた。前科がある。シャワーから上がったサンダルフォンを見るなり、ルシファーは舌打ちをした。不機嫌の理由を聞いても頑なに、説明をしてくれない。本当に理解できないなと思いながら、サンダルフォンはあと何時間寝れるのだろうと無理矢理に眠りに就く。苛立ちを押しこめて、うとうとと微睡むと重い息がうなじに掛かった。



 サンダルフォンの両親も、ルシファーの両親も子どもの不健全な関係を知らない。寧ろ学校を卒業しても一緒にいることを仲が良いのね、と思いながら甘酸っぱさを期待している節がある。
「やめてくれ、そんなんじゃない」とサンダルフォンは口にしたくなった。否定したかった。
「付き合っていることを隠さないでもいいのに」なんて言われたときにはサンダルフォンはどのように誤魔化すべきか悩んだ。
「体だけの関係だ」とは流石のサンダルフォンも言えなかった。
 話題をすり替えながら、切り抜け、参ったサンダルフォンがルシファーに断腸の思いでどのように誤魔化しているのかと聞けば、ルシファーは怪訝にあっけらかんと、「付き合っている」と言ったらしい。
 妥当なのだろうかと、サンダルフォンは思う所はあれども、嘘をつくという申し訳なさを抱きながら、罪悪感を覚えながらもルシファーに合わせた。寧ろルシファーが付き合っている、と言ってしまった手前、異なる理由を用いることは出来なくなっていた。
 結果として、結婚はいつになるのだろうかと時折訊ねられるくらいに、見守られている。その度、サンダルフォンは苦笑して誤魔化している。実際、付き合っていない男女が同棲することは異常だと理解はしていた。けれども、自分たちが付き合っている関係と思われることに、嘘とはいえ公言することにざわざわと鳥肌が立った。

 特別に仲が良いわけではないが、一般的な頻度として母親とは連絡を取り合っている。体調はどうだから始まり世間話が続き、ご近所の誰それの話になった当たりに毎度のように、喧嘩はしてないか、と手探りで此方の様子を窺ってくる。サンダルフォンはまたか、と思いながらも「してないよ」と応える。
 そもそも喧嘩、というものをしたことはない。
 ルシファーが勝手に機嫌が悪くなって、そのうち治っている。逆も然りだ。お互いに、相手の機嫌を取ることはしない。放置。長い付き合いのなかで、それがベストだということを学んだ。
 なにかあったんだろうなと思いながら、サンダルフォンは家事をしたりテレビを見たりと過ごしている。逆に、ルシファーもサンダルフォンの機嫌が悪いときは書斎にこもっている。
 気づいたら、サンダルフォンはなぜ機嫌が悪かったのか思い出せないし、ルシファーも納得をしたのか、いつもの調子になっている。いつまで、ずるずると続くのか分からない。変化は怖い。なんだかんだと、ルシファーとの関係はサンダルフォンの当たり前になっていた。たまに険悪になりながらも、居て当たり前。行為をせずとも、子どものときのように一緒に眠ることもある。兄弟なのだろうか。一人っ子のサンダルフォンには理解できない関係性である。ルシファーが弟でも、兄でも、嫌だなと思いながら食事の用意を始める。

 今日はカレーだ。
 最初は肉じゃがにしようとしていたのだが、材料を見たルシファーが「カレーか」と少しだけ嬉しそうに言うものだから、カレーになった。
 かつてカフェ経営で培っていた料理スキルは持ち越していた。けれども当時と味付けが異なる。サンダルフォンは数年をかけ、納得するまでに費やした時間はものの数回で塗り替えられ、すっかりルシファー好みになってしまった。
 牛筋肉がとろとろで具が大きく、少しだけ辛いカレーに、マスタードが抜かれたサンドイッチ、逆に、ルシファーの舌も珈琲を学んでいるのでサンダルフォンは文句はない。試しにいつものブレンドを変えてみたらルシファーは気づいたので、サンダルフォンは嬉しいくらいになった。



 ルシファーが一人暮らしを始めると知ったとき、サンダルフォンはこの関係も終わるなと思っていた。だというのに、関係が続いてるのは一重にルシファーの生活能力が壊滅的であったからだ。
 炊事洗濯清掃、何一つとして出来ない。ゴミの分別もあやふやで、薄力粉と強力粉の区別もない。出来ないのか、しないのか、不明瞭であるが、ならば家事代行サービスを頼めと言っても、自らのテリトリーを犯されることが不快でならないと頑なで、仕方なくサンダルフォンが都合が良い日に家事をするようになっていた。甘やかしているという自覚はあったが、見捨てることができない程度、ルシファーという存在はサンダルフォンの中に入り込んでいた。
 月に1度程度の頻度が、月に数回になり、週末だけになり、数日という間隔になり、泊まる頻度が増え、サンダルフォンが借りている部屋に帰る頻度が減るという逆転が起こっていた。その頃になると、「いっそ住めばいいだろ」と見かねたように言われた。「それもそうだな」とサンダルフォンも思ったから、引っ越した。たった1日見ない間に溜まる洗濯物や、サンダルフォンが使いやすいに整理したキッチンを荒らされることに、ストレスがたまったのだ。
 サンダルフォンの中では同居、あるいはルームシェアであるのだが、世間一般では同棲と言われる形に落ち着いた。
 タイミングは、良かったのだろう。なんせ引っ越しを終えて、職場から遠くなったなと通勤をしたとき、サンダルフォンの勤め先が夜逃げした。小さな町工場であった。工場はしんと静まっていた。二階の事務所の扉に張り付けられた紙を見て、サンダルフォンは呆然と立ち尽くした。その話をルシファーにすれば、珍しく笑っていた。まあ、笑うしかないなとサンダルフォンは温い珈琲を飲みながら思ったものだ。

「働くのか?」
「当然だろ」

 サンダルフォンが持ち帰った求人情報誌を見るなり、ルシファーは眉を寄せた。何を当然のことを、とサンダルフォンは思った。ルシファーがサンダルフォンの手元から、求人情報誌を抜き取り、パラリと見る。幾つか印がつけられていた。接客業だった。ルシファーは不快そうな顔をする。サンダルフォンは悪いことをしている訳でもないのに、ちょっとだけ、気まずい気持になった。何を言うでも、言われるでもなく、情報誌が手元に返される。
 機嫌が悪いわけではないにしても、何かを考え込んでいるらしいルシファーを邪魔しない程度に、サンダルフォンは幾つかの求人誌を見比べた。貯金には余裕があるし、束の間の休暇、というつもりで数週間はのんびりと過ごしていた。今まで挑戦しなかった凝った料理を作ったり、部屋の片づけをしたりとそろそろ就職活動を始めるかと思った矢先、ルシファーに声を掛けられた。

「研究所で働け」

 なんて言われて意味が分からなくても仕方ない。なぜ通じないんだと言わんばかりに眉を寄せたルシファーに話を聞く。なんでもかんでも自己完結するなと言いたくなるのをぐっと堪える。聞いて、納得はしないものの、理解はした。
 ルシファーの勤める研究所には食堂はあるものの、昼しか開くことはない。けれども研究職についているものは実験だとか会議だとかで、食堂が開いている時間に間に合わないものも多くいるという。ならば持ってくるなり、食べに出かけるなりと思えども、研究所は奥まった土地に位置しているため近隣に飲食の出来る施設はない。かといって食堂をフルオープンするにしても食堂で働く人員はパートタイマーであり就労時間は契約縛られている。ならばいっそ、新たにカフェスペースを設置するという話が採用されそのスタッフ探しをしているのだという。なんだか出来過ぎてるなとサンダルフォンは胡乱に思った。

「カフェ、か……」
「経営していたんだろ。今なら好き勝手できるぞ」
「ルシファーじゃあるまいし」

 否定する言葉は何も言わなかった。自覚はあるらしい。
 ルシファーの勤める研究所であることに違いはない。正確には、ルシファーが所長を務める研究所であった。最高責任者はルシファーである。また、研究所所長なのかとサンダルフォンはいやな記憶が呼び起こされた。ルシファーは何も言わない。



 関係者とラミネートされた吊り下げ名札を付けて研究所に入った。
 何の研究をしているのか、について知らされていない。知るつもりもなかった。研究所という場所は忌まわしい思い出が多かった。良い思い出も──中庭での安らぎの時間であったり、珈琲を通じた語り合いであったりと、ありはするものの、気まずい思い出に帰結するから、思い出したくない。
 極力考えないようにしながら、カフェについて関係者と打ち合わせをする。

 カフェ、といっても何もできていない状態であった。敷地内のどこそこに位置させるといった程度だ。確かに好き勝手出来る状態ではある。とてもではないが、口にはしないものの、サンダルフォンは思い上がり、勘違いだろうと言い聞かせるも何から何まで都合が良いような気がしてならないでいた。
 厨房スペースや飲食スペース、メニュー内容や価格設定、業者との契約や食堂との連携についてなど、どうするつもりだったのだろうかとサンダルフォンは思った。何も決まっていなかったのだ。ひとまずは、食堂のメニューはいつも余るというから、余った分はそのままカフェでの提供という形に落ち着いた。席数に関してもカフェの面積を考えて割り出す。業者に関してはメニューが決まり次第、であった。あとは軽食メニューであるが、ルシファーは既製品で良いだろとの一点張りである。何のための厨房スペースなのかとサンダルフォンは頭を抱える。既製品は確かに管理も楽である。けれども折角なのだから、とサンダルフォンは思うのだ。
 進まない話合いから帰宅したものの、やはり不機嫌なルシファーにサンダルフォンはやれやれと思いながらも食事の支度をする。事前に作り置きしておいたハンバーグとスープを温める。サラダの用意をしていると、ルシファーが嫌そうな顔をしていた。それを出すのかと言わんばかりである。顔に書いてある。決して、嫌がらせではない。バランスを考えた食生活を考えると、致し方ないのである。
 そういえば、ルシファーと一緒に朝から出かけて、夕方に帰って来たのだと当たり前のように思い出す。学生時代以来のことだ。学生時代から、付き合っているのかと言われたものだ。否定をし続けたというのに、いつの間にか付き合っていることになっていた。苦い記憶だ。やっかみ。嫉妬。つまるところ、ルシファーに好意を抱いていた人間からの嫌がらせ。付き合ってないと宣言しているのにどうして巻き込まれるんだと頭を抱えた日々であった。当時も深刻に考えてはいなかったが、今思い出すと自分には何の非もないよなと少々の怒りが生まれた。閑話休題。

 温めなおした夕食を食卓に運ぶ。ルシファーが一人で暮らしていた頃には無かったテーブルは、サンダルフォンが一人暮らしをしていたときに使っていたものだ。大は小を兼ねると思い大きめのものを購入したつもりであったが、一人で使うには大きすぎて二人で使うには少々手狭である。買い換えようかと話ているものの、困った状況に陥ったことはないために優先順位は低い。

「……軽食メニューは何を出すつもりなんだ」

 食事をしながら、ルシファーに問われる。サンダルフォンは口に入れていたハンバーグを呑みこむ。ウスターソースとケチャップを混ぜたソースはサンダルフォンが持ちこんだ数少ない家庭の味であり、ルシファーも何も言わないからすっかり根付いている。

「たぶん、カレーとサンドイッチ……あとはパスタ系だろうな。それと珈琲」

 サンダルフォンが思い出しているのは、気が遠くなる程の昔に開いていた喫茶店である。騎空艇の喫茶室から始まり、各地で経営修行を詰み、各地の喫茶店を巡って辿り着いたサンダルフォンの夢の形である。結果として、サンダルフォンが力を注ぎたいのは珈琲なのだから軽食は少なくて良いよねという形で落ちついた。とはいえ、サンダルフォンは料理は苦手ではなかったから、お得意様相手にはちょっとだけサービスという形で作ったりしたものである。

「今の味覚で再現出来るか分からないが……」

 珈琲研究に較べたら僅かであれども、それでも長い時間をかけて研究に研究と、調理を繰り返して辿り着いた誰もが好む味、というのは今の時代に通用するのか不明だ。サンダルフォンがぽつりと、心配事を呟けばルシファーはきょとりとしていた。その表情に気づかずに、サンダルフォンは続ける。ルシファーに相談するというよりも自身の思考を整理するために言葉を口にしていた。

「作るにしてもルシファー用の味付けに慣れてるからな。材料費や廃棄を考えると既製品のほうが良いかもしれない」

 ルシファーは何も言わないでいた。黙々と不機嫌そうに、食事を続けている。聞いてきたのはそちらのくせにと思いながら、サンダルフォンも食事を続ける。矢張り、ルシファーの機嫌に関して、何がきっかけになるのか、分からない。その夜、久しぶりに体を重ねた。そういう雰囲気だったろうかと思ったが、毎回雰囲気なんて関係ないことを思い出した。
 結局、あれほど反対していたというのに次の打ち合わせ時には厨房で作るという流れになっていたのだから、サンダルフォンは呆気にとらられる。前回の打ち合わせは一体何だったのかと思いながらも、打ち合わせを進める。
 サンダルフォンの心配は杞憂でしかなかった。量の配分は間違えていない。野菜が少し大きめになってしまったり、味が少し、物足りないくらいに感じるものの、昔に作った味の再現である。
 試作をしたものはルシファーには物足りないだろうに、許可が出される。ならば家でも此れで良いのかとさりげなく、用意してみれば、むっと不機嫌にいつもと違うとぼそりと言うのだ。完食はしているが不満そうであった。何がダメなんだかと思いながらも、ルシファー用の味付けにする。サンダルフォンの舌も、それにすっかり慣れていた。ちなみにいえば、試作メニューはどれも好評であった。



 3か月ほどの打ち合わせと工事を経て、カフェスペースが完成した。営業開始してからはおっかなびっくりといった形で、数人しか訪れることはなかったが段々と人が入るようになった。昼食メニューだけでなく、カフェメニューの注文も多い。あとは珈琲の売れ行きが良い。サンダルフォンの一押しなので、素直に喜んだ。
 ルシファーがカフェを利用することはない。昼食にお弁当を渡している。気づくと携帯食料だったりゼリー飲料を手にする。ならば、とサンダルフォンも自分用のお弁当を用意するため、二人分程度に違いはない。
 利用者の少ない昼食の時間に、パートスタッフと交代で食事休憩を取る。食堂の補助という形で設立されたため、昼食の時間は利用者が少ないのだ。

「いつみても美味しそうですね」
「……ありがとうございます」

 声をかけられる。カフェがオープンしてから常連、と言って良い頻度で利用する研究者だ。人懐こいと云えば聞こえは良いが、サンダルフォンは距離感が近く、あまり得意ではない。

「俺にも作って下さい」

 軽々しく言うなと思いながら、サンダルフォンは曖昧な返事をして、食べ終えるとバックヤードへと戻った。休憩のはずが、どっと疲れる。気遣わし気なパートスタッフに平気だと言って、家から持ってきている珈琲を淹れたボトルに口付けた。




 とある日に、サンダルフォンは失敗した。昼食の時間、いつものように弁当箱を開けてみれば、二段とも、おかずだったのだ。そんなことあるかと思いながら、ということはルシファーは二段ともご飯ということかとちょっとだけ面白い気持になる。否。笑ってはいられない。幸いなことに敷地内にいる。連絡をすればいいか、気付くだろうか、なんて考えながら携帯を取り出したサンダルフォンは携帯に連絡が入っていたことに気づいた。ルシファーである。やってしまったなと思いながら開けば文面はない。添付のごはんが詰められた弁当箱が並んだ画像が物語っている。

「おかずだけですか?」

 怪訝に声を掛けてきたのはいつもの常連客だった。相変わらずのしつこさで連絡先や弁当を強請って来る。慣れて来たとはいえ、あまり愉快な気持にはならない。休憩時間を変えても、じんわりとすり合わせて来るのは、気味の悪さを感じる。パートスタッフからは何か事件に巻き込まれる前に上に報告するべきではと言われているものの、今の時点で害はないために放置されている。
 常連客はじろじろと弁当を見ている。

「入れ間違えたんだ」

 常連客は動揺して、何かを言おうと口を開いた瞬間に、声が重なる。

「携帯を見てないのか」
「今見たところだ」

 サンダルフォン以外、見ていないというようにルシファーが声を掛けた。びくりと震えたのは常連客の男である。勤めているのだから、当然知らないはずがない。とはいえ、ルシファーが営業を開始したカフェスペースを訪れることは初めてのことだった。見知らぬ男の登場に、それも店長と親し気な様子に、いざとなれば! と構えていたパートスタッフが色めき立つ。そっと覗くが二人の世界、というような状況である。いっそ常連客の男が哀れなほどである。二人にしか分からない会話の応酬。その言葉を察するに、同棲していることが読み取れる。
 ごはんだけの弁当箱を二つ持っている姿はシュールであった。此処で食べるのかとサンダルフォンが訊けば戻るのは面倒臭いだろという。それもそうだなとサンダルフォンは二つ返事である。
 素っ気ないながらも、飾り気のない言葉に二人が親密であることが否が応でも伝わってくる。情けないやら悔しいやら恥ずかしいやら感情があふれ出した常連客の男が立ち去っても二人は会話を辞めない。すっかり、頭から抜け落ちていたのだ。
 昼休憩を終えたルシファーはついでだからと、珈琲を注文して自身の部屋へと帰っていった。

「付き合ってる人いたんですね!」
「ただの幼馴染だ」
「そうなんですか?」

 パートスタッフは、とてもそれだけの関係には見えなかったけどなと思いながらも食堂の締まる時間が近づいたことに気づく。早めに休憩に入らなければ抜けにくくなってしまうと、慌てた。
 それからというもの、ルシファーは度々カフェスペースに訪れるようになった。といっても珈琲を注文するだけだ。元々はルシファーの職場なのだと頭では理解しつつも、見慣れない光景だった。
──家にいても、職場にもルシファーがいる。
 それが、不快でもなく、当たり前に思っている自分がいることにサンダルフォンは衝撃を受ける。戸惑いを覚える。困惑に至る。

 そもそも、幼馴染でしかない。それが肉体関係を持って、ずるずると続いた。どうして自分はルシファーと一緒にいるのだろうと、分からなくなる。二回目、行為に及んだ時、サンダルフォンは拒絶することができた。なのに、しなかった。しよう、と思わなかった。嫌じゃなかった? 違う──嫌がって、ルシファーに見捨てられることが嫌だったのだ。
 考えたくないと思っていても、今までのルシファーの隣にいる理由がすべて、ただの言い訳でしかない、正当化するための建前でしかないと、サンダルフォン自身が正しく理解してしまっていた。息苦しさを覚える。



 出来上がったカレーは、カフェで出しているものより辛くて、野菜がごろごろして、すこしだけどろりとしている。ルシファーが好むカレーである。IHの電気を消した。ぐつぐつと煮詰めたカレーを前に、サンダルフォンは気持が塞がる。
 認めるには、あと一歩が踏み出せない。踏み出したくない。自覚をすれば、後戻りが出来なくなる。今ならば、まだ間に合うのではないか。この関係を断ち切ることができるのではない。ビジネスパートナーでも、幼馴染でも、なんでもいいから、名前のある関係に落ち着くべきだった。どうして自分は重要な選択肢を、いつも間違えるのだろう。思い込むのだろう。そもそもとして、サンダルフォンもルシファーも、ただの人間でしかなかった。天司の責任も何も、無くなっているのだ。ただの思い込み。被害妄想。顔が羞恥に赤らむのを感じた。いたたまれなさにもんどり打ちたくなる。発露できない感情を閉じ込めるように、しゃがみこみひざに顔をうずめた。

「きえたい」

 それでも、認めたくはないのだ。サンダルフォンにとっての、最後の一線である。

 カフェスペースの出勤はシフト体制である。そのため、ルシファーと休みがすれ違うことが多々あった。今日が休みで良かったとサンダルフォンは心底、思っていた。逆に言えば、ルシファーがいれば、あるいは仕事をしていればこんなことに気づくこともなかったかもしれないともいえる。結果論に過ぎない。今日でなくてもいずれは気づくことになっていたかもしれない。あるいは、知らないふりをし続けることができたかもしれないのだ。
 ガチャリと鍵が開錠された。サンダルフォンは何でもなく振る舞う。

「おかえり」

 声を掛けた。
 帰って来たルシファーはいつも以上に不機嫌な顔をしていた。サンダルフォンは知らないふりをする。カレーを前にすると少しだけ、機嫌が良さそうになっていた。子どもみたいだと思いながら口にしない。きっと、不機嫌になるから。
 ぎゅっと眉を寄せた気難しい顔をする。そんな顔しか見た事が無い。あるいは馬鹿にしたみたいな顔。それから、何かを耐えた顔。考えると虚しくなる。これだから、嫌なのだ。想うことは酷く疲れる。想うだけでいい、と言えるほどサンダルフォンは無欲ではない。寧ろ貪欲である。貪欲であるからこそ、いけないのだ。求めるたびに、失敗をする。後悔をする。だというのに、求めて止まない。

「体調が悪いのか?」

 珍しく気を使われた。サンダルフォンはなんでもと言って以前は辛すぎると思っていたカレーが舌に馴染んでいるから、遣り切れなくなった。
 ルシファーはサンダルフォンの言葉を微塵たりとも信じていない様子だったが、口を割る気がないということも察して、眉を寄せて食事を続けた。重ぐるしい食事を終えたルシファーは何か言いたげであったものの、何も言わずに書斎へと行ってしまった。
 片づけを終えて、洗濯をする。その前にポケットの確認だ。

(どうして毎回チェックしてもたまにすり抜けがあるんだろうな)

 ルシファーのシャツを手に取ったサンダルフォンは、気付いてしまった。甘い香りだ。ルシファーの香水ではない。見知らぬ香り。自分に嫉妬する権利はないのに、気分が悪くなる。初めてのことではない。今までだってあったことだ。研究者として、今では所長という立場を知っているからこそ、ルシファーは人に会う機会が多い。それだけだ。それだけなのか、なんて疑っている自分の狭量というのか、欲深さに、疲れる。厄介だ。どうにか気分を落ち着けないとと、サンダルフォンは見知らぬふりをして洗濯機に突っ込んでいった。
 言い聞かせる。好意があることを認めたとして、無意味だ。ルシファーのサンダルフォンに対する認識に変化はない。不用品ではなくとも、そのような認識を向けられる対象ではない。精々が幼馴染、あるいは家政婦か……都合の良い肉人形である。考えると虚しくなる。良い調子だ。その調子で、諦めるんだと自分に言い聞かせる。

「……本当にどうした」
「なんでもない」

 洗濯機を前にしてしゃがみ込んでいるサンダルフォンに、ルシファーが怪訝そうに声を掛ける。

「…………足をぶつけただけだ」

 咄嗟の言い訳はサンダルフォンも口にしておきながら、情けないものだった。

「間抜け」
「うるさい」
「見せてみろ」
「もう痛くないから平気」
「素人判断をするな」
「平気だって言ってるだろ」

 そもそもぶつけてないし。なんて内心で思いながらルシファーの横を通り抜けようとしたサンダルフォンを、ルシファーが引き留める。腕を掴まれたサンダルフォンは、驚いてしまう。その力の強さだとか、手の大きさだとか、ルシファーを見上げていることに対して、認識とのズレが生じていた。記憶の中と違うのだ。サンダルフォンがあまりにも驚くものだから、ルシファーもつられるように、目を丸くする。

「……なんともないよ」

 サンダルフォンは微苦笑を浮かべる。なんともないはずがない。物心ついた時からの付き合いでサンダルフォンの性格を熟知しているルシファーは溜息を一つ吐き出すだけだ。サンダルフォンのことだから、何も言わない。いつだってサンダルフォンは自らの感情を曝け出すことはない。静かに、秘め隠す。素直なくせに、何を考えているのか分からない。なぜ拒絶をしないのか、共にいるのか、期待してもよいのか、分からないままだった。サンダルフォンの口からはルシファー以外の名前は出ない。特異点の名前も、蒼の少女も、そして、ルシフェルの名前すら出さない。サンダルフォンなりの配慮であるのかすら、ルシファーには読み取ることができない。
 サンダルフォンはルシファーの指をそっと解くとリビングへと向かって言った。暫くしてから、洗濯機に注水される音がして、ごうごうと廻りだす。ルシファーはサンダルフォンを掴んでいた手をなんと無しに見た。

 元々ルシファーが一人で住んでいた家に転がり込んだ形だった。サンダルフォン自身の荷物も少ない。幼い頃から過ごしている所為で、隣で眠っていても今更気になることはない。今までだって不機嫌なルシファーの隣で眠ったことは数えきれないほどにある。だというのに、サンダルフォンはつまらない。正体不明の罪悪感を抱えたまま、目が覚めていた。眠れない。隣のルシファーの存在を意識してしまう。寝なければならないのに。眠ることを諦めたサンダルフォンはベッドから静かに出る。携帯端末を手に、部屋を出た。

 リビングのひやりとした空気に触れると眠気が飛んだ。
 すき間なく閉じられたカーテンの外側は闇夜に包まれている。高層ビルが建ち並ぶ街で、空の遠さは見なくともすっかり想像出来るようになっていた。触れられそうな近さの星も月も、遠い。
 ホットミルクでも飲むかとキッチンに立つ。冷蔵庫から取り出した牛乳を少し迷ってから、ミルクパンに注ぎIHに掛ける。沸騰をしてから、マグカップに淹れて、はちみつを二杯淹れてかき混ぜた。行儀が悪いなと思いながら立ったまま口をつける。幼い頃、眠れないサンダルフォンに母親が作ってくれた味である。体の内側からじんわりと温まっていく。
 ミルクパンを洗うと、マグカップを手にダイニングテーブルの椅子に腰かけた。
 ホットミルクに息を吹きかけ冷まし、一口飲む。携帯を手に取ると、ブラウザを開いた。検索ボックスに大まかな住所と賃貸、と入力する。幾つか候補が表示される。今の職場環境、主に給料面で言えば前職よりもはるかに良いため家賃を多めに設定すれば、候補が絞られた。前の家も気に入っていたが幾つか開いた家はオートロックであったり、管理人が駐在していたりと設備が豊富だった。即決でも何でもないし、引っ越しに関してもちらっと考えただけであったというのにいざ賃貸情報を見るとひとりで暮らすことを考える。

 一瞬だけ、ちらりと勿体ないと思った。けれども望み薄──それどころか、はたして女として、人間として認識されているのか分からない相手からの好意なんて期待できないなと、否定してしまう。長年培われたルシファーに対するある種の信頼であったのだ。
 温くなったミルクは、はちみつの甘さが濃く、サンダルフォンはぐいと飲み干す。
 体があたたまるとそれまで感じていなかった眠気を感じた。少し、目を閉じるだけだ。サンダルフォンはぬるま湯のような微睡みに身を委ねていた。体感としては数分程度だった。微睡みから浮上させられる。バタン、なんて乱暴な音に肩を飛び跳ねさせ、眼がさめる。まだぼんやりとしていると、慌ただしい足音と共にルシファーが扉を壊しかねない勢いで、開けて入って来る。思わずサンダルフォンの眠気も飛んだ。

 今更、惨めな勘違いをしたくはない。だというのに、サンダルフォン自身でも制御できない傲慢で厚かましく、自分にとって都合よく解釈して切り取る脳内補正によって、期待してしまう。自分を──サンダルフォンを、探して、慌てて、見つけてほっとした。そんな行動をするルシファーなんて、あり得ないと言い聞かせながらも、嬉しいなんて、思う自分は確かに其処にいたのだ。
 不機嫌そうに、眉間に皺を寄せたルシファーだったが、呆然としながらも、戸惑っているサンダルフォンの姿に、合点がいった。自らの心の内に戸惑っているサンダルフォンを尻目に、座っているそのすぐ隣で見下ろす。

──恋、なんて生ぬるいものではないのだろう。
──愛、なんて美しいものではないのだろう。

 サンダルフォンは、ルシファーを見上げて、唇をぎゅっと噛む。その姿にルシファーはくつくつと笑った。
 サンダルフォンは悔しくてたまらない。なのに、投げ出すことは出来ない。つくづく、我が事ながら嫌になってしまう。

「今さら、気付いたのか」
「しらない」

 ルシファーが揶揄うように言う。サンダルフォンは、それどころではない。ここにきて、嬉しさよりも、ずっと、口惜しさが湧き出ていた。ルシファーは全て承知の上で、サンダルフォンは十数年かけて、無自覚だった感情をやっと理解したというのに、今の今まで、自覚しながら何も言わないでいたのだ。なんてひどい、ひとでなしめとサンダルフォンは悪態を吐く。

「抱きしめるぞ」
「聞くな莫迦!」

 サンダルフォンの返事なんて聞くつもりもないルシファーは、サンダルフォンをすっぽりと抱きしめる。サンダルフォンは嬉しいやら腹立たしいやらでいっぱいになって、ルシファーの胸に顔をうずめた。破裂しそうな心臓の脈動は、ルシファーのものなのか、サンダルフォンのものなのか、分からなかった。
 場違いに、設定したアラームが鳴り響いた。
 いつもの朝が、輝いているように感じた。

Title:約30の嘘
2022/01/28
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