ピリオド

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 じりじりと陽ざしが照り付ける。ルリアは額に浮かび上がった汗を拭い、甲板を見回した。手にしているのは騎空団結成当時から大切に使われ続けている洗濯籠である。長い旅路を、苦楽を共にしてきた大事な仲間である。まだ壊れる素振りのない丈夫な洗濯籠の中にはまだ数枚、洗ったばかりのシーツが残っていた。早く干さないと、と焦りながら何処に掛けようかと空いているスペースを探す。丁度ぽっかりと空いたスペースによいしょとシーツを掛ける。パンと叩いてシワを伸ばせば爽やかな石鹸の香りがそよいだ。それから、甲板を見渡して、ぼんやりと立っているルシフェルに気が付いた。その横顔は、所在なく、困っている様子に見える。何かわからないことがあるのだろうかと、駆け寄り、声を掛ける。ちらりとルシフェルはルリアに視線を下げた。
「与えられた洗濯物は干し終えている」
「そうだったんですね。終わったあとの籠は、洗濯室に置いておけば大丈夫ですよ」
 にこにこと笑うルリアに対して、ルシフェルは分かったとだけ答える。その表情に晴れた様子はなく、安堵は浮かばない。ルリアはどうしたのだろう、洗濯当番の仕事が分からないわけじゃないのかなと思いながらルシフェルを見る。ルシフェルの視線はルリアにはない。
「……あのような表情を浮かべることができたのだな」
 ぽつりともらされた言葉に、ルリアはルシフェルを見詰める。目を細める横顔は寂しさが滲み出ている。ルシフェルの視線の先にはサンダルフォンがいた。隣には、団長とビィの姿がある。何を話しているのか、までは聞き取れない。サンダルフォンは意地悪な顔でにんまりと笑って、団長はたじろいだ様子で、ビィはぷんぷんと怒っているようだった。
 ルリアにとってだけではない。グランサイファーでは、ありふれた、見慣れた光景である。
 共闘を持ち掛けた当初は、私室で過ごしていたサンダルフォンも、騎空艇に同乗するからにはと殆ど無理矢理に依頼に連れ出されたり、団長たちが事件に首を突っ込むなかで巻き込まれたりするうちに、確かな信頼関係を築いていた。天司でも、天司長でも、災厄の邪神でもない。騎空艇の乗っているのは、ちょっとだけ意地悪で素直じゃなくて珈琲を淹れることがとっても上手な優しくて頼れる仲間である。
 今となっては私室に籠ることはないが、依頼が無ければ喫茶室に籠りがちなサンダルフォンに休みをとることも大事だと説き伏せて、喫茶室には不定期な休みが設けられた。一日中突っ立っているわけでもないし忙しい訳でもないんだが、と言うサンダルフォンに口を尖らせて休みの大切を説き、やれやれと不承、不服、納得はしきれていないままに設けられた休みが今日であるようだった。
 実際のところはと言えば、団長やビィ、ルリアの我がままであるのだ。
 喫茶室のサンダルフォンはマスターとして忙しい様子だった。客がいなくても、ルシフェルと共に珈琲の研究をしている姿を見ると、声を掛けることは憚られた。声を掛けたところで、サンダルフォンは嫌がることもなく「君たちに珈琲の味は分かるのか?」とちくりとした嫌味を口にしながら、すっかり手慣れたそれぞれの好みに合わせた珈琲を淹れてくれるのだろうと想像が出来た。ルシフェルも邪険に扱うことはないだろう。わかっていても、二人の時間を邪魔することは出来なかった。とはいえ、団長にとっても、ビィにとっても、ルリアにとってもサンダルフォンは大切な仲間であり、そして友人であるのだ。勿論、サンダルフォンに無理をさせたくないという気持ちはある。ただ、その根底には少なからず友人を奪われたという小さなやきもちと自分たちだってサンダルフォンと一緒にいたいのだという意地があるだけである。
 天気の良い日が続き、気候も安定している。洗濯日和で、何枚ものシーツやタオルが甲板で風にそよがれている。ルリアの長い髪もまた、風にするりと撫でられる。ビィがサンダルフォンを揶揄ったらしい。むっとしたサンダルフォンが口を尖らせて言い返している。団長は、まあまあと宥めている様子だった。
 ルシフェルの知るサンダルフォンは、感情豊かであった。研究所で与えられた部屋をルシフェルがただいまと訪ねれば、おかりなさいと喜色に頬を赤らめて駆け寄る。その姿に何度、心が温かなもので満たされたのか。とても、数えることは出来ない。待ち望まれる歓喜。戻る場所があるという至福。研究所に戻るとき、サンダルフォンに出迎えられるとき、ルシフェルは生きた心地を覚える。名残惜しみながら、中庭の逢瀬を終えて、いってくるよと声を掛ければいってらっしゃいませと寂しさを抑え込んだ、心配をさせまいとする笑みを浮かべて見送るいじらしい姿に、きゅうと胸が締め付けられた。天司長として課せられた義務ではなく、ルシフェルの意思としてサンダルフォンと共に過ごしたいと願い、共に過ごすことは、掛け替えのない安らぎであった。代わりの無い、唯一無二の時間であり、存在であったのだ。中庭に留まりたい、この時間が永遠に続けばいいのにとらしくもない願望を、つい胸中に抱くほどであった。
「私は、知らなかった」
 知っているつもりであった。
 それは、サンダルフォンを造ったという絶対的な自負による、エゴイズムでしかなかった。
 ルシフェルはサンダルフォンの苦悩を理解出来なかった。サンダルフォンが心を閉ざした理由を、叛乱に加わった理由を、ルシフェルはサンダルフォンの口から憎しみと恨みと共に吐き出されるまで、辿り着くことが出来なかった。サンダルフォンが叛乱に加わったことを、ルシフェルは自身への裏切りだと思っていない。ただ、その道を辿らせたことに後悔を覚える。それすら、サンダルフォンが求めるものではない。
 知ったつもりでいただけだ。自惚れであった。私こそがサンダルフォンの理解者であるのだという、思い上がりであった。何も分かっていなかった。故に、守るつもりでいたサンダルフォンを誰より傷つけたのはルシフェル自身であるのだ。
「私が、みたことのない表情だ」
 視線の先でサンダルフォンが仕方ないというように笑っていた。困った様子で、大人びた顔で笑っている。ルリアには、見慣れた笑みである。だけど、ルシフェルにとっては見慣れない見たことのなかった表情である。
 サンダルフォンは名前を呼ばれる。かつて、ルシフェルしか呼ぶことのなかった名前を呼ばれて、応えている。
 サンダルフォンは珈琲を淹れる。かつて、ルシフェルだけの特権であった珈琲を振舞い、笑っている。
 ルシフェルの望んだ姿であった。サンダルフォンが穏やかに過ごせることはルシフェルの願いであった。だというのに、胸はずしりと重く、喉はぎゅうぎゅう苦しい。はくはくと呼吸もままならない。気付かざるを得なくなる。サンダルフォンの世界が広がることは喜ぶべきことであるというのに、素直に良いことだと思えない、醜い自分がいる。薄暗い感情がルシフェルの胸を支配する。独り占めをしたい。誰にも見せたくない。届かぬ場所に行くのではないかと言う臆病がルシフェルを竦ませる。感じたことのない、抱いたことのない感情に戸惑い、対処が分からない。果ての場所で、サンダルフォンを見送ったときに抱いた寂しさを超える、苦しいものに心が軋む。
 ルシフェルはふと見下ろせば、ルリアは困った様子で項垂れていた。
「……すまない。八つ当たりをした」
「八つ当たり、ですか?」
「ああ。きみたちが羨ましいと思った」
 ルシフェルは静かに目を細めて、サンダルフォンに視線を戻した。その横顔を見詰めてからルリアは、八つ当たり……と口にしてからふふふと笑う。どうしたのだろうかと視線を向けるルシフェルに、ルリアは得意げに口にする。
「ならこれから、知っていけばいいじゃないですか」
 ルリアは声を張り上げた。
 驚いたのかルシフェルが、きょとりとルリアを見る。
「これからたくさん、一緒にいられるんですから」
「そう、だな」
「はい!!」
 それでもルシフェルの寂しさは晴れることはないようだから、ルリアは仕方ないと秘密を打ち明ける。誰にも言うつもりはなくて、ルリアだけの宝物であった。誰にも内緒であった。ルリアのとっておきである。でもルシフェルさんなら仕方ないなと思ってしまうのだ。
「サンダルフォンさんが、ルシフェルさんの前でしている顔は、私たちには絶対に、向けられないんです。ルシフェルさんだけの特別なんですよ?」
 ずるいです、とぷっくりと頬を膨らませてルリアは怒った顔をしてみせる。
 本当はちっとも、怒ってない。
「……ちょっとだけ、寂しいなって思う気持ちもあるんです。私たちだってサンダルフォンさんが大好きだから」
 言いながら、得意な気分だった。
 ルリアは、サンダルフォンがルシフェルの前でだけ浮かべる顔が好きだ。幸せに満ちていて、思わず溢れてしまったというように笑う姿をどうして嫌いになれるのか。見ているだけで幸せになってしまう姿をどうして憎むことができるのか。つられてにこにことしてしまう。
 大切な人を傷つけられたことは忘れていない。けれど、同時に彼の寂しさを知って、嘆きを知っている。共感は出来なかったけれど、理解は出来てしまう。今では大切な仲間で、ルリアが傷つけば慌てて、怒って、心配をしてくれる。そんな人がやっと、笑っていられる場所。安息の場所。それは世界中のどこを探しても見つけることが出来ない。ただ一人の横にしか存在しない。
「そう、なのだろうか」
 まだ納得がし切れていないような、信じ切れないというようなルシフェルにルリアはしょうがない、と言わんばかりに、ならば見せるしかないと声を掛ける。
「見ていて下さいね……サンダルフォンさーん!!」
 制止をする隙も無く、ルリアがサンダルフォンを呼んだ。団長たちと話をしていたサンダルフォンが顔を上げる。掛けられた声に視線を向けて、どうかしたのかと訝しんだ様子を見せてから不意に、ルシフェルと視線があえば、見慣れた、
「ね?」
 どうですかと言わんばかりに、ルリアは自信たっぷりに、ルシフェルを見上げる。
 団長たちに断りを入れてからサンダルフォンが駆け寄る。団長とビィは顔を見合わせて仕方ないと言わんばかりに笑っている。
 ああ、そんな待ってくれとルシフェルは逸る気持ちを抑えたいのに期待は膨らんでいく。
「ルシフェルさま、なにかあったのですか?」
 小首を傾げるサンダルフォンに、なんでもないよと答える。怪しんで、不可解に首をかしげている姿も、なにもかもが、ルシフェルの心を満たす。
 変わらないものがあるのだと、知っていたつもりであった。
 何よりも、ルシフェルがサンダルフォンへと抱く想いは変わらない。不変の想い。永遠の願い。サンダルフォンが世界から憎まれても、ただ一人サンダルフォンを望み続ける。同じなのだ。サンダルフォンも、変わらない。果ての場所で交わした言葉を忘れたことはない。魂に刻まれた言葉は、ルシフェルの静かな孤独に寄り添い続けていた。
 ルシフェルがサンダルフォンを想うことも、サンダルフォンがルシフェルを想うことにも、違いはない。
 ルシフェルは、サンダルフォンを安寧と想い、慈しみ続けた。叛乱の中に姿を見せても、パンデモニウムに封じても、空の世界を壊そうとしても変わらなかった。なぜだろうかと考えたこともない。その問い掛けは無意味だった。分かりきっていることであった。ただ、サンダルフォンであるから。それだけである。サンダルフォンも変わらない。研究所で孤独に苛まれても、役割が無いことに嘆いたときでも、叛乱に加わりパンデモニウムに幽閉をされても、それでも、ルシフェルを求め続けた。必要としてほしくて、認めてほしかった。誰でもない、ただ一人、ルシフェルに求め続けた。
 向けられた感情に、浮かべる表情に、ルシフェルは零れ出しそうな喜びを飲み込んだ。
「洗濯物を干し終えたから、珈琲をどうかとを話していた。よかったら、団長たちも誘ってみんなで。サンダルフォンは、今日は休日だからね、私に淹れさせてほしい」
 サンダルフォンが目を瞬かせる。ルシフェルは、何か可笑しなことを口にしただろうかと少しだけ不安に思った。それから、良いですねとにこにこと喜ぶ姿にほっとする。ちらりと目くばせをすればルリアもにこにことしていた。
 サンダルフォンは団長たちに声を掛けてきますねと言って駆けて行ってしまった。青い空の下に、パタパタと風にそよがれるシーツの中で、サンダルフォンの声がよく響いた。

2020/04/18
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