ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンは詰めていた息を吐き出した。
 しんと静まり返った夜の自室に、その音は思いのほか響いた。
 背もたれに体を預け、読み終えた本をパタリと閉じる。多くの人々の手に触れた表紙は色褪せていた。
 読み終えたという充足感よりも疲労感のほうが色濃い。
 読み終えたのは、大衆小説というものだ。娯楽の一つであり、今まで星の民の文献や資料、あるいは空の民の歴史書や図鑑ばかりを閲覧してきたサンダルフォンにとっては新鮮であり、そして理解できない内容だった。
 今最も売れているのだという、その本が団員たちの間でも貸し借りされている光景はよく見られていた。きゃあきゃあとこのシーンが素敵だった。このキャラクターが格好いい。この展開は読めなかった。などという感想はサンダルフォンの耳にも盗み聞きするつもりがなくともするりと入り込んでいた。そんなに面白いのだろか。ぽつりと漏らした疑問は独り言であった。けれど、ちゃっかりしっかりと独り言を聞いてしまった団長は善意から提案をした。
「サンダルフォンも読んでみたら?」
 そういった団長はサンダルフォンの「俺には必要ない」という遠慮ではなく心底、本心からの拒否も耳に入らなかったようで、団内の女性陣(一部男性)の中でぐるりぐるりとめぐり巡っていた話題の本の所在は現在、サンダルフォンの手元にあった。
 根が真面目なサンダルフォンの中に読まない、という選択肢はなかった。渋々と手にして自室に籠り黙々と文字を追いかけた。手にしたときは少しだけ、触れる機会のなかった分類の書物とだけあってサンダルフォンの興味を小さく刺激した。もっともその興味の根底にあったのは「あの御方だったら興味深いな、とでも言って触れるのだろか」「あの御方だったらどのように思いながら読まれるのだろうか」という情景がちらりと過っていた。結果としてはサンダルフォンの感性には驚くほど合わない展開の連続と内容で、戦闘や実験とは異なる疲労感でぐったりとする羽目になった。正直なところ数ページ目まで読んだ時点で嫌な予感はしていたのだ。

────なぜ、この内容が流行っているのだろうか。ちっとも分からない。天司、あるいは星晶獣と空の民の感性は異なるのだろうか。だが星晶獣であるローズクイーンはこの本を面白いと評価していたし、ユグドラシルも目をキラキラとさせて、読み聞かせを強請っていた。天司であるハールートやマールートも、面白いと言っていた。ならば男であるからかと考える。メインターゲットは女性であるが読書好きの男性からの評価も上々だった。
 サンダルフォンは首を傾げる。
 単純に、自分に合わないものだったと片付けるのは、なんだか腑に落ちない。なんだか小骨が喉に引っ掛かる。なんだか、もやもやとしておさまりが悪い。
 内容は平たく言えば恋愛小説というものだ。あらすじとしては、身分違いの男と女が主要人物であり傍から見れば両想いであるのに、お互いが、主に主人公である女目線で話が進むのだが、彼女が妙に後ろ向きに前向きで、勘違いをしてすれちがって、良かれと思ったことがすべて裏目に出てしまい、果てには想い人である男性すらも傷つけて、その姿にさらに女性がとる行動がさらに……と負の連鎖を重ねていく過程がひたすらに続く。藻掻けば藻掻くほど。足掻けば足掻くほど。雁字搦めで、二進も三進もいきやしない。もしもあの時と、考えたらきりがない。たら、れば。浮かんで消える。泡沫。描いて消す。夢想。結末としてはある意味ではハッピーエンドであり、だけど、もっと良いエンディングがあったのではないか、これはバッドエンドなのではないか、と、釈然としない、そんな、読み手に任せた終わり方である。
 文章として、読みやすいものだった。娯楽小説を初めて手に取ったサンダルフォンでも、読み切ることができた。ただ読み進めるのが苦痛であった。
 サンダルフォンはハッピーエンド至上主義を掲げているわけではない。
 勿論、万人にとって終わりが良いものであるのならば、それは目指すべきものである。だが、現実として困難である。難題である。殆どの場合は不可能である。幸せはきっと、誰かの悲しみの上にしか成り立たない。表面だけをすくいとって奥底を見ようとしない。深海を見ようとしない。なかったことにする。数千年を閉じ込められて、ぼんやりと、憎しみと悪意を抱えて生きてきたサンダルフォンは世界が優しさだけではないと知っている。優しさで成り立つ世界は、とっくに崩壊をしていた。もしも優しかったのなら、サンダルフォンの隣には、彼がいるはずなのだ。だけど現実として彼はここにいない。彼の御方がいた光り差す場所から飛び立つことを選んだのはサンダルフォン自身だ。憎しみでもなく、復讐でもなく。誰かの所為でもなく、誰かのためではない。サンダルフォンが初めて、踏み出した。

 二人だけの中庭がいつしか冷徹な監獄のように感じた。血が凍えるような、身が竦むような、断頭台にも思えた。唯一といってもいい。研究所のなかで、サンダルフォンが心安らげる場所だった。中庭で、あの人を待ち続けることが唯一、サンダルフォンに許された穏やかな時間だった。それが、苦痛となった。どこにも安寧なんてない。心穏やかになんて、いられない。
 役に立ちたいと口にした願いは砕けて散った。天司としての役割なんて、サンダルフォンの存在理由なんて、無かった。無意味な命。無価値な存在。愛玩にすらなれない。サンダルフォンを満たしていた、サンダルフォンを形作っていた想いは、ひび割れた隙間からぽろぽろと零れていった。
 珈琲なんて嫌いだ。花なんて嫌いだ。光なんて嫌いだ。あなたなんて、嫌いだ。
「サンダルフォン、変わりはなかっただろうか」
 鮮明に声は蘇る。浮かべた表情を、瞼の裏に思い浮かべることができる。今ならわかる。憐みではなかった。あの人にとってサンダルフォンは可哀そうな存在ではなくて、本心から、慈しんで呉れていた。
 だというのに。
 濁った視界、憎悪に汚染された思考は、何もかもを悪意に変換した。
 嘆息をこぼす。何時だって自分を正当化する、理由を探す。そんな自分に、嫌気がさす。わかっている。今なら、理解できてしまう。
 あの人は寄り添って呉れようとした。違う。サンダルフォンに、いつだって手を差し伸べていた。サンダルフォンはいつだってその手に、手を伸ばして良かったのだ。何時だって許されていた。苦しかったとき、その手を取ればよかった。寂しかったとき、その手に縋ればよかった。助けてください。そう言えば、あの人は、きっとその手を振りほどくことなんてしなかった。だけど、出来なかった。伸ばした手が空を切ったならと考えると、どうしようもなくなってしまう。ぱきりと薄氷が割れてしまう。サンダルフォンにとっての世界が壊れてしまう。恐ろしかった。
 結局、サンダルフォンは信じられなかった。信じ切ることができなかった。裏切られたのではない。裏切ったのだ。サンダルフォンが、裏切った。今なら、認めることができる。最初の裏切りは、サンダルフォンだった。

 癪なことだが。腹立たしいことだが。憤然とすることだが。
 堕天司が言っていたように。
 あの人の心には、だれが寄り添っていたのだろう。あの人の悲しみと苦しみを、誰が分かち合うのだろか。それは、自分ではなかったのだろうか。サンダルフォンはそんなことを、つい、考えた。思い上がり。自惚れ。自意識過剰。恥知らず。厚顔無恥。
 役割のための天司ではなくて、天司長のための天司としてではなく、サンダルフォンとして生まれ落ちた命に、もしも意味があるのなら。それは、あの人のためでありたい。
 結局のところ。
 サンダルフォンは求めてしまう。頭から、髪の毛一本手足の先っぽまで、サンダルフォンはルシフェルを求めて止まないのだ。もっと早く気付けてい「たら」
 いつか来る日に問いかけようか。問いは、願いなのだというけれど、浅ましくも、そうであってほしいと、笑われるかもしれないけれど、それでも問いかけたい。
「あなたの隣にいてもいいでしょうか」
 馬鹿らしい問いかけだ。
 あの人は、どんな顔をするのだろう。呆れてしまうだろうか。そんな顔は、見たことは無いけれど。同じ顔であるルシファーはよく浮かべていた。呆れよりも、もっと残酷な、興味を失った眼。認識から除外される。そんな目を、よく浮かべていた。研究所においてサンダルフォンに注がれる視線は、いつだってそういうものだった。
「きみは何も心配をすることはないよ」
 あの人は守ろうとしてくれたのだろうか。
 サンダルフォンの心に重くのしかかってきた言葉だった。心配もさせてくれない。尤もあの人が手をこまねくような事態をサンダルフォンが解決できるはずもないから、仕方ないと諦めていた。だけど、本当に、その言葉のままなら。だとしたら、不器用にもほどがあるじゃないか。自分のことを棚に上げて、思うことじゃない。
(足りなかった言葉を口にしよう)
(言いたかった言葉を伝えよう)
 微睡んでいたのだろう。ぼんやりとカーテンの隙間からうっすらと光が差し込む。朝が来たのだ。冷気に体が冷える。椅子に座ったままだからだろう、体のあちこちが軋んだ。放り出していた本の表紙を撫でる。
「似ているな、キミと俺は」
 物語の人物に、似ているもなにも無いかと呆れ、自嘲するような薄笑いを浮かべた。泣くのを誤魔化すような、笑うことに失敗したような不細工な笑いだった。

「え、サンダルフォンに貸したの!?」
 昼食の時間帯だけあって、食堂は込み合い、賑わっていた。だから彼女が驚嘆に上げた声も喧騒の一つとして溶け込んでいた。団長はきょとりとする。
「ダメだったかな」
「ダメもなにも……団長、読んでないの!?」
「読んだよ! 面白かったから、サンダルフォンにも貸したんだけど……あ!もしかして次に貸す人いた!?」
 それなら悪いことをしてしまったと慌てる団長に、いやいやそうじゃないだろと突っ込んでしまう。
「それは大丈夫だけど……え、読んだうえで貸したの……? サンダルフォンのことそんなに嫌いだったっけ……」
「嫌いなわけないじゃん! むしろすっごい頼りにしてるんだけど!」
「だったら貸さないでしょ……」
あの内容はすれ違いの悲恋だ。少なくとも彼女は物悲しいエンディングだったと思った。それに偶然だと分かっているが、登場人物の背景はルシフェルとサンダルフォンに酷似している。ルシフェルについて、あまり知る由はないが、話を聞く限り、サンダルフォンに対してだけの特別扱いが過ぎるじゃないか。サンダルフォンもそれに気付かないし。だからそれとなく、団員達はちょっとだけ空気を読んで、決して仲間外れというわけではなく、サンダルフォンにこの本の話題は振らないでいた。サンダルフォン自身も恋愛小説に興味を抱かなかったようでそんな小説も流行っているのだなと言うだけだった。だからまさか本人の手に渡っていたとは思わなかった。それも団長がごり押したとなったら。サンダルフォンは律儀だ。きっと、読み終えるだろう。
「あー……だってあの内容って、その……サンダルフォンとルシフェルみたいじゃない?」
「そうかなあ?」
「本当に読んだ?」
 団長がむっと顔をしかめた。
「読んだって! 読んだうえで、面白かったから貸したんだよ。サンダルフォンとルシフェルはこれからハッピーエンドになるんだから。別でしょ」
「まあ、そう、かしらねえ……」
 あまりにもポジティブ。前向きすぎる思考回路だ。楽観的ともいえる。この話は終わり!と言わんばかりの団長は、もぐもぐと昼食を頬張っている。
「おい、読み終えたぞ」
 噂をすれば。
「どうだった?」
「……俺には合わなかった」
 ぶすくれた顔をしているサンダルフォンの目元はよくよく見ればうっすらと赤く、腫れぼったい。
「そっか」
 からかうこともなく団長は本を受け取った。

title:うばら
2019/12/31
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