ピリオド

  • since 12/06/19
 サンダルフォンはどうにも、違和感がぬぐえず、馴染むことができない。むしろ、どうして、そのまま受け入れているのだろうかとかつての姿をしる周囲や、当人であるルシフェルを不思議に思ってしまう。サンダルフォン独りがその違和感に、不自然さに、事実に気付いてしまったように、ぽつりと置いてきぼりにされている。
 ルシフェルが新たに得た肉体には天司の証たる羽が備わっていない。当然、でもあった。今のルシフェルは天司ではないし、天司長という立場でもない。ルシフェルがかつて宿していた天司長としての力は、サンダルフォンが引き継ぎ、純白に輝く六枚羽はサンダルフォンの背中にある。サンダルフォンが空の世界における、新たな天司長であった。
 輝かしい六枚羽と極彩色の四枚羽、そして自前の、合わせて十二枚の羽。サンダルフォンの背中に宿る羽の半分以上は譲り受けたものである。
 今や、天司の役割は全て空の世界に返還をしている。約束の場所で、ルシフェルが残した今際の言葉通りに。四大天司からも、異存を唱える声は無かった。役割の無い、一つの命として生きている。生きようとしている。
 悪魔と成り果てたルシファーとの戦いにおいて、サンダルフォンが譲渡された力は四大天司が宿していたものだ。その力を、サンダルフォンはその身に宿している。
 サンダルフォンの中ではすっきりとしない、おさまりの悪い感情が居着いている。
 サンダルフォンは、天司長である。
 それは誰もが認めていることだ。継承された力は空の世界を守るため、堕天司たちとの戦いにおいて揮われた。天司長であることを、四大天司も含めた全ての天司が認めている。天司でなくなったルシフェルからも正式に、天司長として認められている。その座を引き継いだ。
 本当に、これが正しいのだろうか。
 サンダルフォンは、空の世界を守ることに躊躇うことはない。戸惑うことはない。その為に戦うことに、傷つくことに、ちらりとも、二の足を踏む事は無い。それは、天司長だからではない。ルシフェルに託されたからではない。約束をしたからではない。ルシフェルが愛した世界だからではない。かつて憎しみ、壊れてしまえばいいとすら思った世界を、サンダルフォンは己の意思で、守ると決意している。サンダルフォンが生きることを決意した世界。空の世界で生きる命として、サンダルフォンは、世界を守るのだ。
 公正無私ではない、己の欲のままに生きている自分が、天司長の力を継承したままで良いのだろうか。極彩色の羽を背負ったままで良いのだろうかと、憂いが浮かぶ。
 もしも、道を踏み外したら。かつてのような災厄を引き起こしたなら。
 自分は、咎人である。
 ただひとり、ルシフェルが許したとしても、変わらぬ事実である。サンダルフォンの独り善がりで、多くの人々に傷を負わせた。思い出を奪い、無辜の空の民を、深く、傷付けた。
 自分自身が信頼に値しない、信用してはならない存在であると自負している。それは、悲しいけれど、決して揺るがぬサンダルフォンにとっての自己評価だった。何度も、寄せられる期待を裏切り続けてきた。そんな自分に、どうして、誰も彼も、力を託すのだ。裏切ったのに、何度だって、信頼を寄せるのだ。ルシファーとの戦いにおいては、世界の命運をかけた戦いにおいては、最善であったのかもしれない。けれど、その戦いを終えた今となってはルシファーも、そして加担していたベリアルといった堕天司は行方知れずとなっている。そんな時だからこそ、有事に備えるためであるならば、天司長としての力を、極彩色の羽を、本来の持ち主に返還すべきなのではないだろうか。
 加えるならば、十二枚羽として存在すべきはルシフェルこそではないだろうか。
 サンダルフォンは、脳裏に描く。
 十二枚羽を携えるルシフェルの姿を。不敬ながら、不足している二枚羽はサンダルフォン自身の羽で代替する。神々しい御姿。正義の執行者に相応しい。欠けたピースが埋まるように、十二枚羽を背負う御姿を、サンダルフォンは難なく思い描くことができた。むしろ、サンダルフォンにとっては羽のない今の姿こそ、見慣れないものだった。
 ルシフェルの新たな肉体は、かつてルシファーによって造られたものと変わらないものであった。爪の形や指先、細められる目じり、触れる温度。全てが、サンダルフォンの記憶にあるルシフェルと相違無い。カリオストロは遺跡から得たレポートのままに造ったに過ぎないと肩を竦めていた。事実、カリオストロが加えた要素としてはサンダルフォンの肋骨という素材だけだ。それ以外はすべて、レポートというレシピのままである。不思議に思うことはある。なぜと疑問を抱くことはある。けれど、ルシフェルがそこにいる。触れられる。共に、生きている。それだけで、満足であったはずなのに。
 ちらりと、その背中に違和を抱いてしまったから。自分の罪を思い出してしまったから。どうにかしなければと、焦る気持ちがサンダルフォンの中で抑えきれない。

   * * *

「天司長としての六枚羽を、ルシフェル様にお返しできないだろうか」
 カリオストロは自慢の愛らしい顔を、苦い虫を噛んだかのように歪めた。
 麗らかな気候の空域に入り、立ち寄った島で、久方ぶりの休日を各々が楽しんでいた。島の散策へ赴くものもいれば島の甘味巡りに勤しむもの、島の歴史に興味を示して図書館に入り浸る者、持ち回りの当番が無い団員たちは、揺れない地面にきゃっきゃっと歓声を上げながら、のびのびと休暇を送っている。そんな中でカリオストロは騎空挺の自室にうず高く積み上げていた本をせっせと崩していた。起きてからぶっ通しで読み続け、こきりと肩を鳴らした頃合いで、くうと腹の虫が鳴いた。窓から見える太陽は頂点で燦々と輝いている。
(誰かいたっけかな)
 立ち上がり記憶を探り、台所事情を一切預かっている青年たちも町へ繰り出していたことを思い出す。しかしまあ、食堂が使えずとも今のグランサイファーには飲食に事欠かない。確認をしたわけでもないが、確信がある。そもそもこの騎空挺内で最も珈琲を淹れる設備が整っている部屋である。
 準備中、と書かれた札も無い部屋を覗けば背を向けているサンダルフォンの姿があった。余程集中しているのか、カリオストロの入室に気付いた素振りはない。喫茶室、というのならドアにベルの一つでもつければ雰囲気が出るのではないかと考えたが、ゆらゆらと揺れ続けている方が多い環境だ。やかましいにも程があるか。カリオストロがこつり、と踵で床を踏みしめると、流石に気付いたようではっとしたように振り向いた。
「昼食を食べ損ねたのか? タマゴサンドしか用意が出来ないが」
「ああ、頼む。それから、そうだな……今日は珈琲牛乳にしてくれ」
「少し待っていろ」
 そう言ってサンダルフォンはすっかり慣れた手つきでトーストを用意しながら、同時に珈琲牛乳の準備をしている。そして丁寧に盛り付けされて提供されたタマゴサンドと、絶妙な甘さとそれでいて珈琲の風味が残った珈琲牛乳をカリオストロが胃袋に収めてほっと一息ついた頃合いに、冒頭に至った。
 まごまごと、何か言いたげにしているサンダルフォンはタイミングを見計らっていたようだった。そのタイミングも良いのだか、悪いのだか。天司、という生き物は感情を理解できないのだろうかと呆れながら、カリオストロは慨嘆の吐息を漏らした。
 団長やルリアたちが席を外していたのは幸いの一言に尽きる。彼らはこの部屋に入り浸っているといっても過言はない。いない方が珍しいと言う程に、カウンター席を陣取って、ニコニコとしながら、珈琲を淹れているサンダルフォンとルシフェルを見ているのだ。そんな彼らは今日は街へと繰り出している。
 サンダルフォンとて彼らを蔑ろにしている訳ではない。
 彼らはことを大事にするスペシャリストである。彼らにその気はない。悪気なんて、悪意なんて、一欠けらも無い。善意の塊のような性質である。だからこそ性質が悪い。付け加えるまでもなく、カリオストロはそんな彼らが嫌いではない。団員たちとて、そんな彼らが危なっかしくて放っておけないし、そんな彼らに救われている。サンダルフォンもその一人である。そしてこのサンダルフォンが加わるとややこしさが倍増する。普段は冷静で斜に構えて俯瞰している、ストッパーのような存在である。それがいざ自分が台風の目になると途端にポンコツになるのである。決して莫迦ではないし阿呆でもないのに、頭が回らなくなる。
 立ち止まることをしらず一人で抱え込んできた天司はここにきてやっと「頼る」ことを覚えた。それは褒めるべき進化であり、成長なのだ。だけど惜しむべきはその内容である。視野が狭すぎる。少し、考えれば分かる結論に辿り着けない。気付くことが出来ない。そんなことあるはずがないと選択肢にも挙がることがない。拗らせてきた二千年を変化させるには未だ、至っていない。
 カリオストロはガリガリとお気に入りのブロンドが乱れることも忘れて掻き毟る。
「出来ないこともない。あの器なら、六枚羽……天司長の力に耐えうるだけの容量もあるだろうさ」
 カリオストロは事実を告げた。出来ない、なんて偽ることはカリオストロの矜持が許さない。自らを天才錬金術師と自負しているカリオストロには許せない。千年以上をかけて築き上げ、聳え立ち、頂上すら見えないプライドの山が許さない。星の民に出来たことを出来ないのかと勝手に期待を寄せた挙句に落胆する姿が不愉快に他ならない。
 肉体の造り手たるカリオストロの太鼓判にサンダルフォンの顔が、希望を見出したように明るく、輝く。いつも浮かべているような、人を小ばかに見下した顔から程遠い、稚さが浮かび上がる。その様子に、カリオストロは呆れもしない。
 突っ走る嫌いがある。その所為で散々に苦い思いをしただろうことはすっぽりと都合よく忘れているのかとカリオストロは仕方なく、引き留める。もしも留めなければ小さな風船はやがて目も当てられぬほどに大きく膨れ上がってちくりとぷっすりと突っつけばあれやこれやとあらゆる物を巻き込んで大爆発を起こすことになる。カリオストロとてそんな爆発に巻き込まれたくない。
「だがルシフェルのやつは了承しないだろうな」
 サンダルフォンは、腑に落ちないようだった。納得しきれない、不服そうに、眉をひそめている。カリオストロは説明する気力が湧かぬほど、呆れかえる。呆れも過ぎれば、怒りも湧かないのだったと改めて思い知らされる。
 ルシフェルも、サンダルフォンも、どうしてこうも鈍感なのだろうか。天司とは、そのように造られているのだろうか。だとしたら、救いようがないにも程がある。これほどまでに悲しい生き物も存在しない。
 ルシフェルは自分の感情に気付いていない、こともないのだろう。彼はあれで感情豊かである。ただ極端に言葉が少ない。僅かな言葉に膨大に詰め込められた意思を汲み取るのは至難の業である。そしてサンダルフォンは勘違いが酷いに尽きる。あまりに低い自己評価。卑屈になりがちで、言葉をそのままに受け止める。愚直なまでの生真面目さは生き辛く損ばかりだろう。言うなれば、彼らは人間関係を円滑にするために必要なツールであるコミュニケーションが不得意である。尤も、かつてであれば、天司長を頂点として役割を果たすために存在を定義されていた天司にとっては不要であったのかもしれないと、カリオストロは思案する。円滑な関係を築くことがなくても、役割に支障はなく、そして天司長であるルシフェルが絶対の存在として、完結している。天司長を中心にして、天司長を支えるパーツとして稼働するように造られている。だからコミュニケーション能力が著しく不得手であるのだろうかと考えたところで、グランサイファーに頻繁に顔を出しているガブリエルたちを思い出す。彼らとは常識の差異はあれども、コミュニケーションという面において不足は無かった。言葉の文脈や、その場の状況によって正しく理解がされる。だから、きっと、これは新旧天司長である彼らの悲しき欠陥なのだろうと、結論に至る。
 サンダルフォンが聞けば憤慨するような結論であるが否定はさせないつもりである。抑々、その結論を口に出すつもりは毛頭に無い。
「そんなに気になるならルシフェルに聞けばいいじゃねえか。ルシフェルの了承があればオレ様も協力してやっても良いぜ」
 もっとも、そんな未来は訪れることもない夢物語である。サンダルフォンは渋々といったように分かったと、一先ずは納得を示した。カリオストロは全くと息を吐き出して、近々厄介事が転がり込んでくるのではないかという気配に辟易とする。誰に聞いたところで、誰もが、サンダルフォンの提案に呆れるだろう。空の民も天司も、星晶獣も関係がない。だというのに、サンダルフォンは気付かない。この鈍感さには、ルシフェルも苦労しているのだろうと、少しだけ、カリオストロは憐れみの情を抱いた。

   * * *

 カリオストロの言葉を繰り返した。なぜ、了承をするわけがないと言い切ったのだろうか。まるで、尊いあの御方の考えを理解しているかのようだった。確信をしているようだった。サンダルフォンは、自分こそが彼の理解者だなんて、烏滸がましいことを考えているわけではない。ただ、純粋なまでに、なぜあんなにもはっきりきっぱりと、考える素振りも見せずに答えたのだろうかと不思議に思うのだ。それが腑に落ちず、いうなれば、不満であるのだ。
 サンダルフォンが天司長の力をルシフェルに返還をしたところで、変わることはなにもない。あるがままに、戻るだけのことだ。
「ルシフェル様、すこし、よろしいでしょうか」
「うん、大丈夫だよ」
 一人ではたどり着けない正解に、一人では納得できないカリオストロの結論に、サンダルフォンはルシフェルに声を掛けた。
 補給のために立ち寄った島を発ってから、数日が経つ。騎空挺の浮遊感に、未だ慣れていないサンダルフォンは乗り物酔いでダウンをしていた。ぐったりと顔を青白くさせて、伏せるサンダルフォンに、ルシフェルはそわそわと戸惑いながら、不安そうにしながら、甲斐甲斐しく世話をしていた。さっぱりとした冷たい飲み物を用意して、吐瀉物の始末も嫌な顔一つ見せずに片付ける献身であった。サンダルフォンは、ルシフェル様の御手を煩わせてしまったと自己嫌悪でいっぱいになるしかなかった。いよいよ、六枚羽をお返ししなくてはと意固地になっていく。カリオストロの言葉も頭から抜け落ちる。みっともない、情けない姿を晒したことが、ルシフェルにとっても天司長の力を継承させたままであることに不安を抱いたのではないかと、豊かな想像力が訴えかける。
 乗り物酔いも落ち着いて、動き回れるようになると、いてもたってもいられなくなった。
 青空の下。広い甲板。張られたロープに、はためく洗濯物。そして、永遠の光。チグハグな組み合わせだと、サンダルフォンには未だ見慣れない光景が広がる。ただ、ルシフェルが空の民の生活を楽しんでいることだけは伝わる。
 サンダルフォンは、信じてやまない。ルシフェルは了承をする。そうだねと、首肯する。決めつけていた。むしろ、断られる理由が無いのである。そう、思っていた。だが、
「その力はきみのものだよ、サンダルフォン。言っただろう? 天司長、と」
サンダルフォンの提案に、言葉に、ルシフェルは困惑をした素振りを見せてから、宥めるように言葉を掛けて、首を振った。
「ですが、」
 サンダルフォンとて、はいそうですねと引き下がることは出来ない。縋りつくサンダルフォンに、ルシフェルは愈々と淋しげな表情を浮かべる。淋しい顔を、困った顔を、させたい訳ではない。ただ、サンダルフォンは、喜んでほしくて、あるいは、正しい姿であると、信じていたから。サンダルフォンは何かを言おうとして、ルシフェルを見上げて、開きかけた口を、それから所在なく、閉ざして、しょぼくれる。後悔に押しつぶされそうになって俯くサンダルフォンの温かな鳶色の髪をルシフェルはそっと撫でる。幼い子どもを相手取るように、宥めて、誤魔化すような行動であるがルシフェルにその意図はない。サンダルフォンの悲しむ顔を見たくないのである。憂いを払いたいための行為である。
 ルシフェルはサンダルフォンに呆れているわけでもない、怒っているわけでもない。ただ、その提案を受け容れることは、あり得ない。
「六枚羽が無い私には、価値がないだろうか?」
「そんなことはありません!! 貴方の価値は、天司長だからでも、六枚羽だからでもありません!! あなたはあなたです!」
 サンダルフォンの否定に、くすぐったい気持ちになる。どうしてこの子はこんなにも、優しい存在なのだろうか。どうしてこんなにも、安寧を与えてくれるのだろうか。目の前のサンダルフォンが、たまらなく、大切な存在であると、ルシフェルに、何度目なのか数えきれないほどの確信をさせる。
「なら、この話は終わりだよ。洗濯物があと少しで干し終わるから、珈琲を淹れよう」
「…………はい」
 慈愛の込められた瞳が細められ、嫋やかに切り上げられると、サンダルフォンはそれ以上追及することも、それ以上の言葉を紡ぐことも許されず、頷くしかない。青空をごうごうと飛んでいる騎空挺。広い甲板を幾枚ものシーツが、はためている。輝くプラチナブロンドを風に遊ばせて、白いシャツを着ているルシフェルは、白い海のなかに埋もれているようだった。サンダルフォンはとぼとぼとその光景から遠ざかり、室内へと戻った。青空の下と比べると薄暗い部屋。知らず、溜めこんでいた息を吐き出した。

   * * *

 ルシフェルにとって力の譲渡については終わった話である。にこやかに、笑みを浮かべて珈琲を共にする。ぽつぽつととりとめない話をする。共に、生きていられる。それだけで満足であった。天司長の力について名残惜しむ気持ちは微塵も無いのである。ルシフェルはサンダルフォンに天司長の力を託したことを、サンダルフォンが天司長となったことを、誇りに思うのだ。だが、それはルシフェルの満足である。サンダルフォンは納得をしていない。サンダルフォン自身にその意図もなく意識もしていないが、ルシフェルの決定に不満を抱いている。
悶々と日々を過ごしていた。燻るように、苛む声が浮かんで、溢れそうになる。だけどぶつける相手はいない。ルシフェルには否定をされている。何度も口にして、あのような淋しい横顔を見るのはサンダルフォンの心が居た堪れない。
「珈琲をお願いできるかしら」
「いつものブレンドで良いのか?」
「ええ、ミカちゃんも同じもので良いわよね」
 ミカエルはガブリエルに言われるがまま、うむと首肯した。
 ガブリエルと、彼女に無理矢理に連れてこられたようなミカエル。彼女たちがグランサイファーに顔を見せることは珍しいことではなかった。団員たちがそわそわと慌てることもなくなって久しい。「また来たのね、いらっしゃい」という程度で、すっかり、日常に溶け込んでいる。ルシフェルにしたって「私が言うことでもないが、ゆっくりしていくと良い」なんて迎えるのだ。ミカエルは畏まって応じるのだが、元々大らかな性格であるらしいガブリエルは「また来ちゃいました」なんて軽く挨拶をしている。サンダルフォンも、ミカエルも、時折彼女の神経はどうなっているのだろうと考えてしまう。
空の民の生活に昔から接していたガブリエルは、今の、役割を返還した生に順応している。一方で、空の民たちと線引きをして粛々と役割に徹していたミカエルには戸惑いと、躊躇いがあった。ガブリエルはミカエルにそっと、飲食然り、空の民の営みや文化について触れさせようとしている。
「ルシフェル様はどうなさったの?」
「今日は休息日だ。部屋で本を読んでらっしゃる」
 分厚い本を抱えたルシフェルの姿を思い出す。君も読んでみるかい? そう言ったルシフェルにサンダルフォンはちょっとだけ迷ってから、遠慮しておきますと首を振った。かつて、であるならば考えられないことだった。ルシフェルから与えられるものは、なんであれ、受け入れようとした。サンダルフォンの言葉に、ルシフェルはそうかと言って、少しだけ笑みを浮かべた。
 ルシフェルは知識を得ることを好む。あるいは、知識を通して空の民が発展していく、進化していく様を喜んでいる。今の彼に役割は無い。だから、ルシフェルという個の性質であるらしい。滅びゆく定めであるはずだった空の民。ルシフェルによって守られていた空の民が、自らの力で生き抜こうとする姿を、その成長を、ルシフェルは尊く、美しいものと感じている。
「……そうか」
「何か用事があったのか?」
「いや、ただ……あの御方がお前の傍にいない、ということが不思議でな」
「……そうだろうか。偶然だろう」
 グランサイファーに設けられた喫茶室はサンダルフォンが始めたものであったが、今は二人で営んでいる。だから、共にいる姿を見掛けることが多いだけに過ぎない。ガブリエルは苦い笑いを浮かべて、ミカエルは呆れ気味に湯気が立ち込めるカップを手に取った。
 その様子をぼんやりと眺めていたサンダルフォンだったが、ふと、思いついてしまった。もしかしたら、彼女たちなら理解を示してくれるのではないか。同意を得られるのではないか。ルシフェル様を、説得、してくれるのではないか――。
「……妾たちに、何か言いたいことがあるのか」
 じっと、あまりにも熱心に見つめていたのだろう。ミカエルがちょっとだけ不愉快な様子を見せる。ガブリエルがミカちゃん、と咎めるがサンダルフォンは気に留めない。
「ああ、君たちに関係があることだと思う――

   * * *

──きみたちからも、あの御方を説得してくれないだろうか」
 サンダルフォンの言葉に、考えていたことに、愚直なまでの敬愛に、ガブリエルはあらあらと眉を八の字にして、ミカエルはむっと眦を吊り上げ険しい顔を見せた。矢張り、彼女たちもあの御方の考えは理解できないのだなとサンダルフォンは身勝手な、親近感を抱く。彼女たちも、同じ気持ちなのだとちらりとも疑うことなく思い込んでいる。矢張り、俺は間違っていない。天司長の力は、あの御方にこそ、六枚羽は、あの御方にこそふさわしいのだ。ふふふと得意な気持ちになっていたサンダルフォンに、ひやりと冷たい汗が背筋を伝う。
「……妾たちは、お前を、ルシフェルさまの代理として認めたのではない」
 ミカエルが何かを抑えるように、粛々と、淡々と言葉を発する。サンダルフォンは固まって、その言葉を聞き入っていた。
「ルシフェルさまが託したから、認めたのではない。お前だから、天司長として認めたのだ。お前だからこそ……かつて破壊しようとした空の世界を、自らの意思で護ろうとしたお前だからこそ、妾たちも、羽を託したのだ。妾如きが、あの御方の思慮に触れようとは思わぬ。だが、ルシフェルさまも同じことだろう。お前だから、だ。だというのに……」
 怒りはあまりにも度が過ぎると嘆きになるようだった。険しい顔をしていたミカエルが、ふっと、どうにもならない様を嘆くように、呆れたように、項垂れる。サンダルフォンは、その姿に、戸惑う。彼らから託された想いを、サンダルフォンは知っている。託された羽の重みを知っている。ないがしろにしたつもりは微塵もない。疎ましいと軽んじたことはない。彼らの想いから逃げ出したいと思ったことすら一度とてない。
 だけど、それでも、どうしたって。
「俺は、そんなつもりは、」
「ええ、わかっているわ。あなたはただ、ルシフェル様の為と思ったのでしょう? でも、私も、ミカちゃんと同じ気持ち。きっと、ウリエルやラファエルだって、同じことを言うわ。何を考えてるんだ、馬鹿野郎!! って」
 くすりと笑うガブリエルに、サンダルフォンはちょっとだけ顔色を悪くさせる。
 ラファエルはむっとしながら否定をするのだろう。ウリエルはまだそんなことを言ってやがるのか!! とバカみたいに大声で叫ぶのだろうと、想像に難くない。
「だが、元々はルシフェル様の御力で、いつまでも俺が……」
「くどいぞ」
 ギッと鋭い眼光に、サンダルフォンは口を閉ざした。しゅん、と肩を落とすサンダルフォンに、ふん、と鼻を鳴らしたミカエルは珈琲を啜って眉間に皺を寄せたので、ガブリエルはそっとシュガーポットを寄せた。

   * * *

「きみは、どう思う?」
 サンダルフォンは団長に声を掛けた。喫茶室のすっかり団長専用となっているカウンター席の端っこで、砂糖とミルクたっぷりの珈琲牛乳を飲んでいた団長は、口の中に反して苦いものを噛んだみたいに、くしゃりと顔を歪めた。それから、ちょっとだけ言葉を探したようにしてから、真っすぐにサンダルフォンを見つめる。サンダルフォンはその目が好ましくもあり、苦手でもあった。今は少しだけ、おそろしくすら、ある。
「羽を返して、力を返してどうするの?」
「どうするも、なにも……ない。元々はあの御方の力だ。本来の力の主がいるというのに、いつまでも俺が宿し続ける道理がない」
「そうかなあ」
「どういう意味だ」
 サンダルフォンは苛々としてしまう。誰も彼も抽象的で何故ダメなのかを言わない。考えろと言わんばかりである。考えた結果が力を返すことなのだ。
 本当に、てんで分からないというサンダルフォンに、団長は、二千年以上を生きていても、空の世界を旅してきても、サンダルフォンはまだまだ子どもなんだなっと少しだけ年上風を吹かせたくなる。
「あのね、サンダルフォンの羽は、想いの結晶なんだよ」
 サンダルフォンは目を真ん丸にしている。
「ルシフェルは勿論、ミカエルたちも、みんな。天司だけじゃない。サンダルフォンのことを知っている空の民、一緒に戦ってきた団員たち、みんなの想いが込められているんだから。サンダルフォンの羽は、サンダルフォンの生きた、努力の証なんだよ」
 空の世界の、世界のどこにも居場所がないと孤独に嘆いていたサンダルフォン。復讐と絶望のなかで、懸命にもがいて、約束を果たすために我武者羅に生きてきたサンダルフォンは美しく寂しい生き物だった。災厄だった。空の世界の、脅威であった。だけどそれでも、サンダルフォンは自分が傷つくことを厭わずに、憎んでいた世界を約束のために、贖罪のために、天司長故に、そして、サンダルフォン自身が、守ると決意したのだ。そんな、サンダルフォンだから、想いを託したのだ。
 サンダルフォンは、背中が重く感じた。同時に、暖かくて、愛しくて、誇らしくすら、思うのだ。
「だから、ルシフェルも受け取らないんじゃない?」
 団長はにっこりと、歯を見せて笑った。
「っきみは、よくも、恥ずかしいことを口にできるな!?」
 照れ隠しの嫌味だということは分かっている。
「って思うんだけど、どうかな。ルシフェル」
「ルシフェル様!?」
 サンダルフォンが慌てふためく姿に団長はしてやった、みたいな顔をしてにまにまと笑う。それからずずず、と行儀わるく珈琲牛乳を啜った。サンダルフォンは、がっくしと、項垂れる。顔は、耳は、羞恥に染まっていた。
「声を掛けてください……」
「話し込んでいる様子だったから、声を掛けるのは悪いと思ってね。それで、きみの気持ちに変化はあっただろうか」
 サンダルフォンは、言いよどむ。自分から言い出したことだ。だというのに、団長の言葉で、ミカエルの言葉が、カリオストロの言葉がやっと、理解を出来た。サンダルフォンの胸に響いた。自分自身に呆れてしまう。自分はなんて、幸福なのだろうか。こんなにも想われていた。理解を、されていた。
「……意地が、悪くなりましたね」
 ルシフェルが、くしゃりとサンダルフォンの鳶色の髪を宥めるような手つきで掻き乱す。顔は微笑を浮かべたままで、サンダルフォンは不貞腐れた顔をしながら不満を装いながら、その手を振り払うなんてしない。すっかり見せつけられた団長は小さく、ごちそうさまと言って飲み終えた珈琲牛乳の前で手を合わせて、そっと静かに喫茶室を後にする。廊下ですれ違う、これから喫茶室に行こうとする団員に今は行かない方がいいよ、なんてお節介をやきながら。

2019/11/29
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