ピリオド

  • since 12/06/19
 弟が生まれたとき私はこの生き物はなんだろうかと首を傾げた。数日の間、家を空けていた母はスイカを丸ごと飲み込んでしまったかのように膨れ上がっていた腹をそいできたらしい。すっきりとした、かつてのようなスマートな体系に戻り、顔はつやつやとしていた。そして腕にはふにゃふにゃとしたものを抱えていた。警戒を見せる私に母はくすくすと笑ってから、私にその生き物が見えるように近づけた。母の腕の中に居座る奇怪な生き物は甘く、懐かしい、ミルクの香りを発していた。油断をせぬまま、くん、とほやほやとした顔に近づいて、その香りを吸い込めばくすぐったいのか大人しかった姿が嘘のように、きゃっきゃと声を上げる。思わず距離をとってから母を見上げると、はらはらとしながら見守っていたらしい母は、声をあげて笑ったことに緊張が解けたらしい。それから事あるごとに「サンダルフォンのことを守ってあげてね」「サンダルフォンにケガさせちゃダメよ」と耳にたこが出来るのではないかと言うほどに、口酸っぱく言い聞かせてくる。だんだん、どろどろと、嫌な気分になった。つまらない。不愉快であった。サンダルフォンはそんなこと知ったことではないと無関心に、鈍感に、ちゅぱちゅぱと指しゃぶりに勤しんでいたからますます、面白くなかった。母の関心はサンダルフォンに注がれていた。私と遊んでいても、サンダルフォンが愚図ればそちらに向かってしまうし、そもそも、遊ぶ回数がめっきりと減ってしまった。意識は四六時中、サンダルフォンに向けられている。遊び道具を持って母に強請っても「後でね」と言うばっかりだった。結局、後でなんてくることなく、忘れてしまっているから、損ばかりだ。私のことなんて、後回しどころではない。サンダルフォンは弟なのだから慈しみ優しく接しなければならない、ということは、理性では把握し、納得をしているものの、制御できない感情では、サンダルフォンという存在は、母を奪い取っていった憎き敵だった。私の平穏を破壊した侵略者である。排除すべき目の上のたんこぶである。けれど、サンダルフォンに少しでも意地悪をしようとする素振りを見せたものなら、母は眦をきっと釣り上げ、般若のような恐ろしく豹変して見せるから、私はなんでもありませんただ可愛がっているだけです、とサンダルフォンを可愛がる姿を見せるしかないのだ。
 弟にとって私は兄、というよりも玩具に近しい存在であるらしい。兄として私のことを慕っている素振りはちっともない。微塵もない。皆無である。なんせ私が寛いでいる姿を見つけようものなら、遠慮知らずによじよじと背中を昇ってくるのだ。小さなサンダルフォンが圧し掛かってきたところで、重みはないものの、鬱陶しく、しかし、払い退けようものなら母の激怒は必至であるから、なんだそこにいたのかと言わんばかりの素知らぬ姿で立ち上がれば、ころりと転がり落ちた。サンダルフォンといえば、きょとりと何が起こったのか分からない顔をしている。世界が終わったかのように泣き出すかと思えば、けらけらと笑って遊んでいる。何を考えてるのか。さっぱり分からない。理解できない。優しさなんてちっとも見せていないのに、怖がられることはない。挙句にはよたよた拙い歩き方で、私を追いかけてくる。たまったものではないと距離をとっても追いかけっこをしていると思われている。此方は遊んでいるわけではない。助けを求めて母を見遣っても、ただ、にこやかに見守っているから私は仕方なく、つきあってやるしかなくなる。サンダルフォンは力いっぱいに遊びまわると電池が無くなったみたいにぱたりと力尽きる。体力配分が全くできていない、下手なのに、懲りないように、次の日には同じことを繰り返す。呆れながらも私も付き合う。そのうちに、だんだんと、もしくは、お陰か、サンダルフォンは私が面倒を見なければならないと思うようになった。このか細く小さな生き物は私が守らなければならない。それは母から言われたからではない。私が自らの意思で、そうせねばならぬと、変化したのだ。サンダルフォンはといえば私のそんな変化にも気付かぬように今日も今日とて私の後ろをついて回っている。それから体力が尽きて電池が切れると私はその横に寄り添うようになった。サンダルフォンはすやすやと眠っている。母はその姿をにこにことみてからサンダルフォンは抱き上げる。私は立ち上がり、その後ろにとことこと続き、サンダルフォンがベビーベッドに寝かされるのを見守った。

 秘めたる決意から一六年、今や屈託ない笑みを奥底に潜めて、つんと澄まし顔を張り付けているサンダルフォンだったが、私の背によじ登ることはなくなったものの、私がのんびりとリビングのふわふわとした毛並みのカーペットの上で寛いでいると、その横にぴったりと張り付き凭れ掛かりながら携帯端末を弄るようになった。もちもちとした手足だった頃のように、私の後ろをついて回ることは無くなり、学校であったことや、友人とのことを話してくれなくなったことは、寂しさを覚える。携帯端末を弄るサンダルフォンは私のことを椅子か何かと勘違いしているのではないかと呆れてしまうが、そのまま、うとうと、こててん、と眠りに落ちる姿をみると、彼はまだまだ、私が守らなければならないと、決心は益々、ゆるぎないものへとなっていく。大人びた振る舞いをしているが、私にとってのサンダルフォンは、いつまでたっても守らなければならないか弱い弟である。それに今は私以外にサンダルフォンを守るものはいないのだ。
 よんどころない事情により婚姻関係を結ばず、シングルマザーであることを選んだ母はサンダルフォンが学校に通い始めてから本格的に仕事復帰をした。何時までも休むわけにはいかない。何よりも、働かねば食べることもできない。生きるには下品であるが金銭は不可欠である。何をするにも金は掛かるものだ。母は、サンダルフォンにそっくり引き継がれた負けん気の強さで、妊娠育児休暇のブランクを感じさせることのない働きぶりをみせるや否や、女は家で家事に専念すべき子どもと一緒にいるべきという黴臭く苔の生えた思考の男どもを蹴散らしながら出世街道を爆走突っ走り、今や、新たに設立された海外支部の社内初の女性支部長という地位を得た。母の働きぶりは女性の社会進出や、社内の女性評価に変革を与えたということでマスメディアから注目されており、上役からの期待もあるらしい。母の活躍を喜びながら、サンダルフォンは内心では寂しく思っているのだろうことは私にも伝わってきた。サンダルフォン自身は口にしない。サンダルフォンは大人びた子どもだった。手のかからない子どもだった。サンダルフォンが子どもらしくあったのは極僅かな時期だけだ。それこそ学校に入ってからは悪戯をすることもない、聞き分けの良すぎる子どもになってしまった。そうせざるを得なくしたことを母は罪悪として胸に刻んでいる。母とてサンダルフォンの寂しさに気づいているのだ。そしてサンダルフォンもまた母の愛に気付いているからこそ、母自身を犠牲にすることを望まない。母は自分の活躍が認められて支部を預けられたことを誇りに思っていることもサンダルフォンは察している。本当は、授業参観に来てほしかったのだろう。くしゃくしゃに丸めて捨てられたお知らせを見て、胸が締め付けられた。本当は活躍を見てほしかったのだろう。「みてくれ、一等賞なんだ」そういって運動会のメダルを見せてきたサンダルフォンは誇らし気で、でもどこか、空しそうにしていた。私は兄だ。だから、母にはなれない。サンダルフォンの寂しさに共感できる。寄り添うことはできる。ただそれだけだ。それが、ひどく、悔しい。
 海外支部に赴任した母がいなくなった家は、閑寂としていた。私とサンダルフォンが生活をしていても、寂寞、殺風景、余所余所しい。慣れ親しんた家の物足りない違和感に気づいたのは、サンダルフォンと二人で暮らし始めて二月が経ったころだった。親不孝にも、最初の二月の間は、母がいなくなったことに慣れず、あっという間に過ぎ去っていった。サンダルフォンもまた、慣れない家事やあちこちへの手続きにと慌ただしくばたばたとしていた。その間、忙殺され、母を恋しく思うところではなかった。母からはサンダルフォンの携帯端末に頻繁に連絡が入る。それはちゃんと食事ととっているか、何か困ったことがないかと気に掛けるものであった。サンダルフォンはその連絡を嬉しそうに見る。
「母さんからメールだ……ほら」
 サンダルフォンがそういって私に端末を見せる。私は携帯端末を覗き込んだ。母は、現地の仕事仲間らしい人々と一緒にピースサインを作って、笑みを浮かべている。画像からも伝わってくるほどのやる気に満ち溢れた姿に、サンダルフォンと二人して笑ってしまった。
「ありがとう、サンダルフォン」
「母さん、元気そうだな」
 サンダルフォンは携帯端末をオフにした。オフにして、暗くなった画面には笑うのに失敗して奇妙な表情になったサンダルフォンが映っている。悄然とした、今にも泣きだしそうで、私はとても、見ていられず、サンダルフォンが凭れ掛かっていたのを承知の上で横に思いきりずれる。サンダルフォンは思いもよらなかったというようにひっくり返って目を白黒とさせた。面白いくらいに、想像通りにひっくり返るものだから少しだけ、本の僅かだが、私は嬉しくなった。サンダルフォンはぱちぱちと目を瞬かせてから、ぷるぷると肩を震わせて、堪らないと言わんばかりに噴き出した。やはり、昔と変わらない。私は嬉しくなってサンダルフォンに圧し掛かる。
「重い重い!」
 笑っているサンダルフォンの抵抗はくすぐったい程度のものだった。けらけらと声を上げ、眦に涙を浮かばせていたサンダルフォンだったが、やがて、はふはふと、笑い疲れて肩で息をしはじめたのでそっと引き下がる。サンダルフォンはふうふうと落ち着かせるように呼吸を整えていた。
「サンダルフォン、そろそろ食事の用意に取り掛からなければ」
「……もうそんな時間か」
「きみは成長期なのだからしっかり摂るべきだ」
「面倒だし、インスタントでも……」
「こら」
 サンダルフォンは渋々というようにインスタントを止めた。インスタントのお手軽さは分かっている。お湯を注ぐだけで後片付けも簡単だ。しかし、どうにもインスタントは体に悪いという印象が強く、あまりとってほしいものではない。本当に忙しいときなら仕方ないとはいえ、私はついつい口を出ししてしまう。

 日中はじゅっと焼けこげるようなアスファルトからの照り返しがあり、日が沈んでもむんとした蒸し暑さが仕舞い忘れたかのように残っている。学校が長期休暇に入り、サンダルフォンは殆ど家に引きこもっている。昼過ぎまでこんこんと眠り、起きてからは冷房の効いたリビングで本を読んだり、課題を解いたり、端末に触れながらうとうとと微睡んだりと、だらけながら過ごしている。今まで注意をしていた母も居らず、すっかり気が緩んでいた。昼日中の辟易とする暑さの中、無意味に外出することを避けた夜の散歩は、休暇中のサンダルフォンにとっての唯一の運動でもあった。サンダルフォンと並びぽてぽてと歩く。等間隔に並び立つ街路灯にはゆらゆらと虫が集っていた。サンダルフォンはちょっと嫌な顔をしてその下を足早に進んでいく。昼の賑わいとは異なる喧騒の公園を迂回する。関わり合いを避けたい人種がたむろしているようだった。
「早く秋が来ないかな」
「ああ、夜の散歩も趣があるがこの暑さには参ってしまう」
 サンダルフォンはじっとりと噴き出た汗を鬱陶しそうに拭った。私も同意を示す。朝や昼とも異なる夜の世界は、異次元のような不思議な様子を展開する。愉快である。しかし、上書きするように体力が削られてはたまったものじゃない。並びとことこと歩く。アーケード商店街は近くに出来たスーパーに客足を取られ、以前のような活気はないものの、昔ながらの店が立ち並んでいる。その店も時間帯故に既にシャッターを降ろし、伽藍としている街並みは気味が悪い。夜中に目を覚まして暗闇に驚いて、わんわんと泣いていた姿を思い出して、サンダルフォンは平気だろうかと、怖がっていないかと、ちらりと見る。
「どうかしたか?」
「……いや、もう泣いていないのだなと」
 そういえば、十年以上も過去のことであった。サンダルフォンは暗闇に怯えることはない。夜中に目が覚めても泣くことなんてない。一人でお手洗いにもいける。一人寝も出来る。私がいないからと泣き出すことはない。私の背中を涙や涎、鼻水でびしゃびしゃに汚すこともない。サンダルフォンに関して、どうにも、更新がされない。大きくなったと承知をしていても、私にとってのサンダルフォンは、泣き虫怖がりで、私の後をついてまわる幼子のままである。とてとてとアーケード街の半ばまで進み、出口が見えたところで、見慣れぬ男がふらふらと紙を見ながら歩いていた。身なりの整えられた、近くにはあまり見ない品のよい男だった。男が動くたび、がさごそと大きな紙袋が音を立てる。紙と、顔をあげてシャッターを見てはまた、紙に視線を戻し、歩き進む。迷っているらしい。サンダルフォンもその男に気づき、迷っていることを察したものの、声をかける思いきりがわかないまま、やがて、諦めたみたいに顔を下げて、とぼとぼ歩き出す。私がいいのかい、と意を込めて手を引くと曖昧な顔でしょぼくれる。
「道を尋ねてもいいだろか」
 下を向いていたサンダルフォンは男の声に動転したように「ひゃい!」と間抜けな裏声を上げて茹蛸のように赤面した。声をかけた男は心苦しそうに、申し訳なさそうに眉を下げていた。驚かす心算なんて微塵もなかったのだろう。
「驚かせてしまって、申し訳ない」
「いや……俺こそ、前を見てなかったから……」
 このままでは謝罪合戦が始まってしまうのではないかと言うほどに繰り返される言葉に私も口をはさんでしまう。
「どこに行きたいのだろうか」
 男は目をぱちりとさせてからややあって、紙を広げる。
「ここに行きたいのだが」
「ここなら…………説明するよりも一緒にいったほうが早い、ですね」
 サンダルフォンは逡巡、説明の言葉を考えたのだろう。しかし、難解に入り組んでいる道順に最適な言葉が選べず、説明の仕方が思いつかなかったようだった。自分の言葉でますます迷ってしまったらという悲観的な想像から出たサンダルフォンの言葉に、男はそこまで世話になるわけにはいかないからとやんわりと断るもサンダルフォンは取り合わない。男が、私に向かって困ったような視線を注ぐ。助けてくれ。彼を止めてくれ。込められた言葉を読み取ったものの、私には出来ない。諦めてくれ。サンダルフォンは大人びた振る舞いをするものの根は大人になりきれていない。他人を疑いきれない。稚い。さらにサンダルフォンは頼られれば応えなければと意気込む。その意気込みが空回ることもしばしばであった。三人並びながら歩く。人見知りの嫌いがあるサンダルフォンには珍しく男との会話が続いていた。男からは親しみやすい、なんて雰囲気は私には感じられないがサンダルフォンには惹きつけられるものがあるらしい。ふたりだけで弾む会話にもやもやとしたものを抱く。
「喫茶店だったところですよね。そこ」
「来たことがあるのかい?」
「子どものときに。土曜日の朝に母に連れられて。母は珈琲を飲んでいて、俺はワッフルセットかクリームソーダばっかりを注文をしていました。常連客の大人ばっかりの空間で、一人だけ小さかったけど、その空間にいると大人になったみたいな気分になったんです。懐かしいな」
「きみにとっての思い出の場所なんだね」
「はい。……マスターが御高齢でしたから、閉店することは仕方ないとわかっていても、寂しかったな……。あることが、当たり前みたいに思っていたから。マスターの珈琲を飲めるようになりたかったなって、後悔があります」
 サンダルフォンはしみじみと、噛みしめるように語る。男は微笑ましそうに柔らかな視線を注いでいた。サンダルフォンはすっかり、男に心を許している。警戒心なんてすっかり忘れ去っている。だから私がしっかりとしなければならない。ともあれ、私の杞憂のまま、男は不審な動きをすることもなく目的のサンダルフォンの思い出の跡地に辿り着いた。そこは確かに言葉では説明しづらい場所にある。アーケード街から一本入り込み、細い道が続き、ぽつぽつと表以上に古い店が立ち並ぶなか、骨組みが見えるほど、仕舞い忘れたのか雨風に晒され元の有様が分からぬほどにぼろぼろになったシェードの下、シャッターが下りた一軒だった。サンダルフォンはきらきらとした思い出の姿と見比べてから、不思議そうに首を傾げた。
「……こんなに小さな店だったかな」
「幼いきみにとっては大きかったんだろうね」
 サンダルフォンは、肩透かしを食らいながら、腑に落ちていない。男は紙袋の中から鍵を取り出す。それからサンダルフォンに悪戯っぽい顔で、「すこし待っていてくれないか」といってから、シャッター前でしゃがみこんだ。シャッターもまたシェードと同じく雨風に晒されさび付いているのか、男が鍵を差し込んでもなかなか開錠されないようだった。サンダルフォンは所在なく男を見守る。男は中々あかないシャッターに苦戦していた。がしゃん!! と、勢いよくシャッターが開いたのは男自身も思いもよらなかったらしい。夜中のしんと静まり返っていた空間を裂いた音に、肩をびくりと震わせていた。サンダルフォンも飛び跳ねた心臓を抑えている。振り返った男は困った顔をしていた。サンダルフォンは困った顔で、笑い返した。シャッターに守られていたからか、玄関口の扉の鍵はすんなりと開いた。男はほっとしてから、振り返りサンダルフォンを手招いた。サンダルフォンはひょこひょこ躊躇いなくついていくから私は呆れてその手を引いた。サンダルフォンは、私が拒否することを思いもしなかったというようだった。私を見てきょとりとしている。当然のことだ。さっき会った、名前も知らぬ男の懐になんて飛び込ませるわけにはいかない。だというのに、サンダルフォンは大丈夫だと笑うだけでちっとも真剣に聞き入れてはくれない。私は嘆息を漏らした。兄心というものを、からっきしも理解してくれない。しぶしぶ、男の後に続き店の中に入る。足を踏み出すたびに砂埃がたち、こんこんと咳をこぼす。電気は止まっているらしく携帯端末の灯りと、暗闇に慣れてきた目で見渡す限りの店内は、テーブルやイスは撤去され伽藍としていた。ただカウンター周りはそのままであるから、かろじて、かつては飲食店だったということは分かる。
「あの、」
「なんだい?」
「ここに何か用事があるんですよね」
 いざ店に踏み入れてからサンダルフォンは、はたと怖気づいたように男に問いかける。そこには触れていいことだろうかという気遣いと、それから、何か犯罪に加担したのではないかという不安が合わさっていた。今更すぎやしないか。男はといえば、うんといってから紙袋から懐中電灯を取り出した。用意が周到なことだ。
「祖父から……元々のマスターから引き継いだんだ。本当ならもっと早くに取り掛かりたかったんだが、仕事の引継ぎに時間を取られてしまった」
 予想外の理由にサンダルフォンは目を丸くしている。男が、サンダルフォンの知る喫茶店のマスターの孫だということや、店を引き継いだということに混乱をしている。
「それに祖父から合格を貰うのに時間が掛かってしまった」
「合格?」
「うん……。珈琲に関しては自信があったつもりだったが祖父を納得させるには骨が折れた。こんなものを売り物にする気かと何度も叱られたな。仕事の引継ぎよりも時間が掛かった」
 男は思い出したのか、乾いた笑みをこぼした。随分とスパルタに、扱きあげられたようだった。サンダルフォンの記憶の中のマスターは、クリームソーダのチェリーをおまけしてくれる朗らかな人柄だったから中々一致しない。ただ男に向かって別人ではないかとも言えず「マスター、お元気そうですね」としか言えずにいた。男は力なく笑った。

 翌日から散歩のルートが変わった。一つ、立ち寄る場所が増えた。サンダルフォンは道すがら、蒸し暑さに溶けないかと心配しながらコンビニで買ったアイスを片手に歩いていた。ここ二週間、毎日のように訪れるから店員に顔を覚えられている。一本入り込んだ道は街路灯がちかちかと点滅をしていて気味が悪い。彼に対しては、私もここ数日触れ合って警戒心が解けていた。喫茶店のシャッターは開いていた。摺りガラスと勘違いしていた窓は、磨かれ、透明であった。カーテンからはちらちらと灯りが漏れている。サンダルフォンはこんこんと閉められていた玄関をノックした。顔を覗かせたルシフェルはうっすらと汗をかき、首にはタオルを掛けている。作業を中断したのか、軍手を片手にまとめて持っていた。サンダルフォンの姿を見て眉を八の字に下げる。
「また来たのかい? こんな時間に」
「こんばんは、ルシフェルさん。昼は暑いじゃないですか」
「……こんばんは。夜は危ないだろう?」
「大丈夫ですよ。な」
 何が「な」なのかと言いたいものだ。こんなときばっかり頼りにされるてもな、と私は苦く思うが、満更でもない。頼られて悪い気にならない、というところは私たちがよく似ているところでもあるだろう。ルシフェルはサンダルフォンの呑気な様子に歎息を零した。そんなルシフェルを気にも留めず「差し入れです」と言いながらサンダルフォンはずいとルシフェルにコンビニの袋を押し付ける。ルシフェルは思わずと、手にしてしまった。
「俺も食べたいから、ついでになっちゃいましたけど」
 こうでも言わないと受け取ってもらえないのだ。ルシフェルも無碍に出来ないものだから「まだ散らかっているけど」と言ってから私たちを招いた。店内は謙遜ではなく、散らかっていた。ビニールシートが広げられ工具が並べられている。しかし、埃っぽさはない。呼吸がしやすい。鼻はむずむずしない。喉が痒くなるような息苦しさもない。ただむんとした暑さは変わらない。業者はこの暑さの中、修理や設置にあちこち引っ張りだこで、空調機を設置するのは夏の終わりになるのだという。とはいえ夏の終わりも何時になるのか分からないものだ。暦では秋であっても、まだまだ、真夏日と変わらない気温であることは決して、珍しくはない。開店日はまだ先だからと言ってルシフェルはのんびりとしている。しかし、この暑さの中での作業となれば、いつ倒れても不思議ではない。申し訳程度の熱中症対策にと回している扇風機一つで乗り切れる酷暑ではない。ニュース番組では連日、高齢者が熱中症で亡くなった、或いは倒れて救急搬送されたという報道がされているのだ。サンダルフォンがこの改装中の喫茶店に通いだしたのはルシフェルの様子を確認するためでもあるらしい。理由付けの一つである。
「俺も手伝いますよ」
「差し入れ迄貰ってるんだ。申し訳ないよ。それにケガをするような作業もあるから。本当なら、こんな時間にくるのも危ないし、私は帰さないといけないのだからね」
「ルシフェルさんて……真面目ですね。学生時代は委員長とか生徒会とかしてました?」
「よくわかったね」
「やっぱり」
 サンダルフォンは得意面々に悪戯が成功したみたいに笑った。
 カウンター周りはつい三日前に完成したばかりだった。つやつやに塗りなおされたカウンターテーブルはルシフェル会心の出来だという。いっそ買いなおした方が早いのではないかと私もサンダルフォンも思ったがルシフェルは壊れてはいないのだから、勿体ないだろうと手間を惜しむことはなかった。ルシフェルのその様子は先代のマスターを思い起こし、やはり親族なのだと、改めて噛みしめる。
 コンビニの袋から取り出されたコーンカップアイスは無事に冷たいまま形を保っていた。ルシフェルは包装を取り除くのを手間取っていた。サンダルフォンはそっと自分が開封したアイスを差し出す。
「難しいな」
「今までどうやって生きてきたんですか?」
 ルシフェルはぼんやりと笑った。
 一般常識が無いわけではない。金銭感覚が狂っているわけでもない。しかし言動の端々から私たちは、ルシフェルは上級階級に所属しているのだと察していた。ルシフェル自身は驕っている態度や偉ぶることもない。喫茶店に関しても暇を持て余した金持ちのお遊びと言うわけではない。幼い頃から祖父に憧れていつか自分の店を持ちたいと夢に見ていたのだという。そのために経営資金を自ら稼ぐために齷齪と働いていくうち、才覚を発揮するや、部下がつき、数々のプロジェクトに関わり果てには役職まで与えられてしまい退職をしようにもずるずると引き止められ夜逃げ同然に喫茶店経営に辿り着いたという話には大変でしたねと言うしかなかった。
「遣り甲斐はあったが、私の夢は喫茶店で自分の淹れた珈琲を飲んでもらうことだから」
「夢をかなえたんですから、すごいです」
「まだ叶えてないよ」
 まだ店は開いていない。
「今日も飲んでいかないのかい?」
「はい。開店日にいちばんに飲ませてください」
「わかったよ」
「約束ですよ」
 サンダルフォンが力強く約束を取り付ける。ルシフェルはわかっているともと言って柔和に笑って見せた。その手はアイスが垂れてべっとりと汚れていた。ルシフェルはちょっとぽんこつなのではないかと薄々、思いつつあった。不意に、雨のにおいがした。途端、ぽたりと雨粒の音が聞こえてからばしゃばしゃと叩きつけるような雨脚に一瞬で切り替わる。かと思えばピシャリと音が鳴り、室内はちかちかと点滅したのちに真っ暗闇になる。
「うわっ」
「大丈夫。ただの停電だ。雷が落ちたようだね」
「……びっくりした」
「ゲリラ豪雨というものかな。電気回りも整備してもらうべきか……」
 動転したサンダルフォンに対して、ルシフェルは冷静だった。平然としている姿に、サンダルフォンも落ち着きを取り戻しつつある。窓の外は塗りつぶされたような豪雨で分からない。雨宿りも兼ねてもう少しだけ、世話にならざるを得ない。ルシフェルとて、この豪雨の中サンダルフォンを帰らせるような鬼畜ではない。ぴしゃりと二度目の雷鳴にひゃっとサンダルフォンが悲鳴を上げる。
「……すみません、あまり、得意じゃないんです」
「得意な人間なんていないだろう。私も特別に好ましいとは思わない」
「でも、ルシフェルさんは冷静ですよね。悲鳴なんてあげてないじゃないですか」
「きみにはみっともない姿を見せたくないからね」
「大人だからですか?」
 うん、まあね。そういったルシフェルに私は内心で意気地なしめと罵りつつ、若干の同情を寄せていた。私ですら察しており、内心ではつい応援をしてしまうルシフェルの好意をサンダルフォンは気遣いとして受け止めている。そしてサンダルフォン自身もルシフェルを憎からず思っている。本人すら気付いていないが兄である私はお見通しである。なんせ十数年変えずにいた散歩道のルートを変えるほどである。最初は確かに喫茶店の様子が気になっているようであったのだが、今はルシフェルという個人が気になって仕方ないのだ。ルシフェルはそれに気づいていない。じれったいったらない。見ているだけでもやもやとする。
 ルシフェルについて、私はサンダルフォンを任せるに相応しいと一応は、認めている。しかし。
 カウンター席に並び座る二人の間に入り込めば、ふたりはきょとりた様子でそれから、サンダルフォンは、
「どうした? お前もびっくりしたのか?」
 わしゃわしゃと私を撫でる。私はちらりとルシフェルを見上げる。ルシフェルは参ったと困り顔で笑っていた。
 私はメタトロン。
 もはや兄と呼ぶには若作りが過ぎる老犬である。サンダルフォンの足に頭を乗せる。老いても、自慢の白い毛並みを撫でまわす、サンダルフォンの手にうっとりと目を細めた。ちかちかと、やがて復旧した明かりにサンダルフォンがほっと、笑みをこぼした。

2019/10/26
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