ピリオド

  • since 12/06/19
 麗らかな日差しが降り注いでいる中庭とは正反対な薄暗い研究棟。所長室を出てから歩き進めて、立ち止まる。肌寒さを覚える一角で、ベリアルは頭をがりがりとかく。所長補佐という立場を感じさせない雑な振舞いには彼の動揺があった。その傍らには簡素な、検査着に身を包んだ天司が控えている。
 つい先ほど、創造主直々に面倒を見ておけと言い渡された天司である。
「さて……どうしたものかね」
 弱音、というよりも戸惑いというべき言葉が知らず、こぼれ出ていた。
 傍らの天司はその言葉に応えることなくぼんやりとしている。
 なんて、つまらないのだろうとベリアルは悪戯心が湧き上がるものの、ルシファーを思い出してそれを抑え込んだ。
「…………ハァ。なあ、キミ。名前は?」
「……名前?」
「そ、個体名称。あるだろ?」
 ベリアルの問いかけに天司はやっと反応をみせたが、じっとベリアルを見つめるだけでそれ以上の反応はなかった。
「あー……そう、じゃあいいよ。ついてきな、きみの行動範囲だが……」
 名前すら与えていないのにどうやって世話をみろというのかと、創造主に対して説明を求めたくなったもののきっと何も答えてはくれないのだろうということは火を見るより明らかであった。寧ろ鼻で嗤われればよいくらいで、それをお前が知って何の意味があると言われれば怒らせてしまったか、という程度。大方、無視である。
 所長補佐を務めるベリアルが、ルシファーに呼び出されることは決して珍しいことではない。寧ろあり触れた光景であった。誰も気に留めない。ベリアルとて疑問を抱くことはない。彼の計画に携わる駒の一つであると自負している。けれども、
「子守りなんて柄じゃないのはわかってるだろうに」
 ちょっとぐらいの愚痴は勘弁してほしいものだ。
 ぽつりと零れでてしまう。
 所長室で頭に叩き込めと言われて確認をした傍らの天司のスペックはおそろしく、高いものである。なんせ、あの天司長のスペアであるのだから。殆ど同時期に作られたベリアルすらその最高出力を知ることもない天司長。創造主にとっての最高傑作。幾度となく彼の戦闘を間近で見る機会はあったものの、限界であるはずがない。未知数である。そのスペアとなると、求められる容量も大きいのだろう。そして、それに耐えられる既存の天司は、自分も含めていない。それに、悔しいだとか妬ましいだとかいう些末な感情は抱かない。そのように「作られている」に過ぎない。だからこそ、新規に作り出すほうが手間が省けるのだろう。それまでは理解している。だがなぜ自分が面倒をみなければならないのか。
「きみは自分の役割を理解しているのか?」
「天司長の稼働不能事態における際の代替機」
 淡々と言葉を紡ぐ天司は、ルシファー直々のお手製だ。昨今の量産型として作られている天司とは違う。感情の制限もなにもされていないと、確認をしているのだが、やり取りを通じて無機質な、それこそ人形のようなものに、一方的に話しかけているような嫌悪感を抱いた。
 ルシファーも時期を見て廃棄すると言っていたなと、思い出す。その言葉に対しても恐怖や絶望を抱いていない様子であってそれは、面白みのかけらもなかった。

 ルシフェルは滅多なことがない限り、研究所に帰還をすることはない。非合理的であるとルシフェル自身が結論付けたからだ。報告であるならば、伝令の役割を持つ天司がいる。ゆえに、自ら赴くことはない。とはいえ、ルシフェルとて命令を下されれば帰還せざるを得ない。数多の天司を率いる天司長であると同時に、ルシフェル自身も作り出された存在であり、創造主の言葉に逆らうという発想はなかった。同時に創造主であり、友と呼ぶことを許された存在に対して信頼もあったのだ。彼は無駄を嫌う。彼は合理的だ。その言葉に従っているに過ぎない。
 ルシフェルの精神は凪いでいる。焦がれることはない。虚しさを抱くことはない。情熱に奮うこともなければ怒りに身を任せることもない。常に、一定である。面白みがないと言われても、悲しむことはない。それでいいと酷薄に詰られても、不快に思うことはない。天司長であるからだ。ルシフェルとて、感情はある。美しいものを見た時には感動を覚える。未知との出会いには興奮を覚える。それが、他者から見れば皆無と思われるような小ささ変化であっても、確かに感情はある。そして、その起爆となるものが空の世界において稀少であるに過ぎない。
 呼び出した本人であるルシファーは不在であった。
 研究所内で事故が起きたということで、呼び出されたらしい。最高責任者とだけあって不始末を含めてルシファーの責務である。ルシフェルに待機を言付かってきたというベリアルの傍らには、ルシフェルの覚えに無い天司が控えていた。天司長として天司を率いるルシフェルの見知らぬ天司であった。
「彼は?」
「ああ、コイツか? まあ、気にしないでくれ……と言っても無理な話か。今のところの役割は俺の補佐ってところだ」
「そうか」
 他の天司に比べると華奢で小柄な出で立ちである。ふわふわとしたとび色の髪は、触れれば柔らかいのだろか。ザクロのような目はどこか、無機質に想うが、きっと輝けば美しいのだろう──。
「きみの名前は?」
「ないよ」
 ルシフェルの問いかけに応えたのはベリアルであった。ルシフェルは怪訝そうにベリアルに視線を向ける。
「そもそも正規の天司じゃない。ああ、べつにこいつ自身が脅威ってわけじゃない。ただ不確定要素が多く不確かな存在ってだけだ。いつ壊れるか分からないからね。名前をつけたところで無意味<ナンセンス>だろう?」
 何かが込みあがる不快感を覚える。しかし、それの名前をルシフェルは知らない。理解できない、名前の分からない不快感を飲み込む。
「きみはそれでいいのか」
 話を振られると思ってもいなかったというように、彼はわずかに驚いた顔をしてから視線をさ迷わせる。ベリアルに視線を送り、やがて、口を開いた。
「ベリアルの言葉は合理的ではないでしょうか」
 なので、名前は不必要かと……。言外に含ませた意味を察して、ルシフェルは胸の奥底に鉛が沈んでいくような重苦しさを覚えた。ベリアルはといえば、だろうと言わんばかりに笑っている。ルシフェルの発案こそが異端であるかのようだった。当人すら不必要と感じている。必要性を抱かない。なにを、疑問にいだくことがある。
「ちょっと遅いな……。様子をみてくるよ、お前は茶でも入れておいてくれ。入れ違いになるかもしれないからな」
 わかったと首肯する天司を残してベリアルは部屋を後にする。
 部屋に残されたルシフェルは気まずさ、というのだろうものを、初めて感じる。
「紅茶でしたら、ご用意出来ますが」
 断ろうとした。
 ルシフェルは飲食に特別な興味はなく、抑々天司にとって飲食は娯楽程度の位置づけだ。必要なものではない。しかし、なぜか口から出たのは
「お願いしても、良いだろうか」
「承知しました」
 彼が設置された簡易キッチンへと消えていった。ルシフェルは自身の言動に首をかしげる。考えたものと反対の言葉であった。意思に反する言動である。今まで、稼働して以来、初めての現象に、戸惑いを覚える。だが、今更になって不必要とも言い出せない。ルシフェルは戸惑う。

「名前がないと、不便ではないだろうか?」
「……不便に感じたことはありません」
 逡巡、決して長いとはいえない稼働期間を思い返すも、名前がないということに対して煩わしさだとか、便利が悪いだとか思ったことはなかった。おい、だとかお前、キミと呼びかけられるだけで事足りる。文脈を考えれば誰のことを指しているのかは明らかだ。ましてや存在を周知されているわけではない。天司長のスペアという役割すら、知りうるのは、創造主であるルシファー、その側近であるベリアルだけだ。同じ建物内ですれ違う研究者すら気に掛けることのない末端だ。
 しつこく食い下がる天司長を別として、不思議でならない。
 なぜ、名前という記号に拘るのだろうか。
 役割と用途を把握している身としては、どれだけ考えても、役割を全うする未来は考えられない。つまるところ、自身の存在価値を役割のない不用品と位置付けている。今は補佐官の補佐、あるいは所長第二補佐という役割紛いを与えられているが、それもいつ不用となるか分からない。末路は廃棄以外にないだろう。
 自身のスペックについては客観的に把握している。ルシファーが脅威となる危険性が高い存在を放置するとは思えない。そのくせ、手元に置くには持てあますのだから面倒ったらないだろう。念入りに、廃棄をされるに違いない。そんな存在に、未来の廃棄物になぜ、わざわざ固有名称を与えようとするのか、意図を探ろうとするも全く想像もできない。抑々探ろうとする材料が少ない。
「なんと呼べばいいだろか?」
「お好きなようにおよびください。ベリアルやルシファー様は「おい」や「きみ」と呼びかけます」
「それは名前ではないだろう?」
 ほとほと、困り果てる。
 いっそスペアとでもおよびください、と言えればどれだけ簡単だろうか。しかし、ベリアルの様子を見るに、天司長はその役割や存在について知らされていない。口にしてはならないことであるようだった。
「私が名付けてもよいだろうか」
 稼働して数か月。ルシファーやベリアルは名前というものに興味がないようだった。そもそも、スペアという存在についてすら関心がないように感じ取っていた。廃棄も近いのだろう。名前なんて所詮は記号だ。形もない。頑なであればそれこそ天司長の不興を買う。
 首肯した。
「そうだな、少し……待ってくれ……」
 別に今名付けなくても良いのですがと口にしようとしたが、真剣に考える天司長を前にすると口を噤んでしまった。所在なく立ち尽くす。はやく、ルシファーさま戻ってこないかなと扉の外に意識を向けていた。

 考える。脳内に思い浮かび、過る候補。どれも、どこか、違和感を覚える。名前を呼びたい。彼の名前を口にしたい。呼びかけ、彼が応える。名前。彼にふさわしい、彼を表す言葉。彼のための音。
(難しいものだな……)
 自分から言い出したというのにルシフェルは良い名前を思いつかないでいる。
 なぜ、彼にこれほどまでに執着をしているのか。ルシフェルは疑問に抱かない。傍からみれば天司長の錯乱を疑われかねない言動をこの数時間の中で繰り返しながら、まったくの無自覚である。
 今のルシフェルの頭を占めるのは彼に相応しい名前についてのみである。
「……サンダルフォン」
 不意に、ぽつりと、思いついた音を口にする。
「うん……サンダルフォン」
 繰り返す。
 顔をあげて「サンダルフォン」を見る。様子に、変化はない。名前を付けたからといって劇的に変化はないだろうとわかっている。彼の言うとおり名前とは記号に過ぎない。世界が変わるような音だなんて、烏滸がましいだろう。それでも、
「どうだろか」
「……はい」
 不快ではないようで、ルシフェルはほっと胸を撫でおろす。柄にもなく緊張をしていたようだった。
「……サンダルフォン」
 静かに繰り返す声は、ルシフェルのものではない。
 名前。記号でしかない。どうせ、廃棄をされる。呼びかける稀有な存在なんて、名前に固執して、さんざんに悩んでいた天司長しかいない。今更、態々ルシファーやベリアルが名前を呼びかける理由はない。キミという呼びかけに、お前という呼称に不満はなかった。名前がないことが問題となることはなかった。今更なのだ。今更、呼び方が増えたにすぎない。ただそれだけのこと。だけ、だというのに、どうして、こんなにも。
「サンダルフォン?」
「もう一度呼んでくださいませんか?」
 気に入らなかっただろうかと不安になり呼びかける。
「サンダルフォン」
「はい。……あの、もう一度」
「サンダルフォン」
「……はい」
 思わずルシフェルは笑ってしまった。はっとして、すまないと口にするがサンダルフォンは気にした様子はない。サンダルフォン、と夢心地に繰り返している。それから首を傾げた。
「気に入ったかな」
「…………わかりません」
 稚い仕草。
 戸惑っている様子で、言葉を紡いだ。
「胸がぽかぽかして、奇妙な感覚がします」
 ルシフェルは感情の機敏に疎い。創造主のルシファーですら呆れるほどである。役割の影響かと考えるほどに。感情に左右されているようでは公平な判断は出来ず麾下を率いることは出来ない。しかし、そんなルシフェルをもってしても今のサンダルフォンは喜んでいるのだろうという程度には、分かりやすかった。
 繰り返し吟味するようなサンダルフォンは幼くみえる。先ほどまで感情が一切ないように平然としていた姿が嘘のようであった。ルシフェルはサンダルフォンが言うぽかぽかというものが湧き上がって、自分は、喜んでいるのかと他人事のように推測した。

 無機質な検査室に、ルシフェルは若干の違和感を覚えた。今までと変わらぬ部屋だ。真っ白な壁と床。壁の棚にはファイリングされた資料が収められている。机と椅子、それから検査台。行われる検査も変わらない。この部屋で、ルシフェルは創られて以来、創造主自らの手による検査を受けてきた。それは、ルシファーが研究所所長という地位となり一介の研究者でなくなっても変わることはなく、これからも変わらない。ルシファーにとってルシフェルは自身が作り出した最高傑作である。それを他人が触れるだなんて、ぞっとしない。
「異常はないな。戻っていいぞ」
 変化のない手順を終えてルシファーは声をかけた。
 流石は俺の最高傑作だと内心で満足を覚えながらルシファーは、検査内容を用紙に書き込む。それから何時までたっても立ち去る素振りを見せないルシフェルにどうかしたのかと、声をかけた。ややあってルシフェルが口を開いた。
「中庭の使用許可がほしい」
「中庭……? ああ、用途は?」
 突飛な言葉にルシファーは視線をルシフェルに向けた。ルシフェルの外観からは矢張り、異常は見受けられない。
 中庭というのは研究所がぐるりと囲い込む自然区域のことであった。立入は原則として
星の民だけである。その星の民もあまり立ち入ることはない。休息をとるのなら多くが私室か、設備も整ったカフェテリアを好んでいる。使用頻度の統計を見る限り、殆ど不用な施設であるから、取り壊しも検討されていた。有意義に、実験棟でも建てるかと案が挙げられている。
 そんな中庭という場所がルシフェルの言葉から発せられたのか、理由や意図がわからず、想定外にルシファーの中で不快感が過る。
「サンダルフォンと話しをする場所として使用したい」
「サンダルフォン……? なんだ、それは」
 ルシフェルの言葉を聞き返す。サンダルフォン、という名称に心当たりはなかった。ルシフェルの口ぶりからするにそれは人名であるようだが、矢張り、ルシファーの優秀な記憶回路に引っ掛かることはない。
「きみが新たに作ったという天司だ。名前がないと、呼べないだろう。だから、名付けたのだが」
 新たに作ったという天司でやっと、サンダルフォンが何を指すのか合点がいった。
「誰の許可を得て名付けた?」
「許可が必要だったのか?」
 真面目に聞き返されてバカバカしくなる。ルシファーは向けていた視線を用紙に戻した。
「真剣に考えるな。お前がアレを気に掛ける要素はないだろう?」
「……」
 ルシファーを説得するに値する材料を探しているらしい。考え込んでいる様子を見せるルシフェルに、ひとつ嘆息をこぼす。
 スペアのスペックについて、不満はない。スペックとしてならば四大天司に匹敵するほどである。それでいて、その器はまだ限界ではない。経験を積めば成長をみせる。完成された天司という枠外。今までに存在を確認されていない、創造主であるルシファーすら意図をしない突然変異。稀少な存在である。
 気まぐれに考え、保険として作った代替品であったが、思いのほか愉快な個体となった。
 天司長の代替品という役割を与えておきながら、アレは役割を果たすことはない。役割を全うするという事態が訪れることがないのだ。それは創造主であるルシファーの確信であった。ルシフェルは完璧だ。傑作である。未来永劫において、不変である。多くの天司を作り出してきてなおその価値は揺るがない。とはいえ、代替品について、役割を果たすことはなくても、廃棄という案はルシファーの中で選択肢から消えかけている。突然変異という特異性もさることながら、何より、有能で、平たく言えば役に立つ。
 所長補佐官であるベリアルは常にルシファーに付きっ切りではない。ルシファーがベリアルに命じて、方々に動き回っている。そんなベリアルに代わり今ではスペアがルシファーの身の回りの世話や資料集めと細かな作業を担っている。世話を任せたベリアルが命じたのかと問うてもベリアルすら予想外であり、それの完全な自己判断であったらしい。それも含めて他には見受けられない「成長」であった。自ら判断し、行動を起こす。面白いデータがとれたのだ。ルシファーにとって、有益であった。 
「まあいい、好きにしろ」
「ああ」
 ルシフェル自らが態々名付けたことに腑に落ちなさを覚えながら許可を出す。
 スペアとルシフェルの接触を最小限に留めておきたいが、態々名付けるあたり、ルシフェルは気に掛けているようであるから、仕方ない。それにスペアは自分の役割について理解をしている。ルシファーにとって不利益となる立ち回りをすることはない。今の段階でルシフェルに計画を覚られるのは都合が悪い。
「使うときには俺に声をかけろ」
 アレを目立たせるわけにはいかんからなという言葉を飲み込んだ。

 天司長が研究所に帰還する頻度が増えた。当初は何かあったのかと研究所がざわめいたものであった。呼びつけない限り立ち寄らなかったというのに。やがて天司長が研究所に滞在することが当たり前になり、中庭への立ち入りが禁止されるようになる。
 ルシフェルはサンダルフォンに会うためだけに研究所に帰還をしている。
 サンダルフォンはたじろぐ。なぜ天司長が自分に構うのか理由がわからない。天司長は多忙だ。態々中庭を立入禁止にしてサンダルフォンと二人きりで、決して実りのある会話をするわけではなく、ルシフェルが見聞きした空の世界の文化についての話だったり、サンダルフォンと近況であったりを「報告」しあう。意味があるのだろうかと幾度となく考える。だけどサンダルフォンとてこの時間が嫌いではないのだ。ただ、意味が分からず戸惑いを覚えるだけである。加えて不可解なのは、
「随分と貢がれているじゃないか」
 サンダルフォンの私室をベリアルは踏み荒らす。断りもないベリアルに少しだけむっとしながら、サンダルフォンも途方に暮れる。
 サンダルフォンに与えられた名ばかりの私室は今ではものがあふれていた。花瓶に活けられた花が揺れる。天司長から与えられたものを捨てるのは憚られると以前の花はラミネート加工されている。
 棚には珈琲の抽出器具が収められている。
 全てサンダルフォンのために、ルシフェルが与えたものである。
 サンダルフォンは知る由もなく、ルシフェルが気づくまでもないが、その行動は気をひくための、求愛によく似ていた。
 ベリアルすら乱心を疑い、ルシファーすら不具合かと考えてしまった。
 かといって今のルシフェルからサンダルフォンを取り上げることは困難である。
 サンダルフォンはラミネート加工をした花を撫でながら首をかしげ、ベリアルに問いかける。
「ルシフェル様は何を考えているのだろう?」
「さあね、天司長のことだ。きみを憐れんでいるんだろうさ」
 なわけないと思いながら言ってみる。言いながらナンセンスなジョークだと思うが、生真面目で比較的生まれて間もないサンダルフォンには理解できなかったのだろう。
「なるほど」
 と真剣に理解されてしまったからベリアルは訂正しようかと一瞬考えたが、まあいいかと放置をした。
「何か用があったんじゃないか?」
「ファーさんがよんでる」
「それを先にいえ!」
 ばたばたと慌ただしいサンダルフォンはすっかり感情豊かになった。突けば反応が返ってくるのは愉快で、最近のベリアルの楽しみはサンダルフォンを揶揄うことである。そんな感情豊かになったサンダルフォンを形成したのがルシフェルということは少しだけ面白くない。そんなやっかみが、玩具を取られた子供のような癇癪であると、ベリアルも自認しているから、これは少しだけ、どうしようもなく、些細な、いやがらせである。

 サンダルフォンは本来の役割を果たすことなくルシファーの付き人のように研究所で過ごしていた。存在は機密であったにも関わらずルシフェルが構うものだからすっかり周知されている。ルシファーは仕方なくサンダルフォンに所長第二補佐官という立場を与えた。最もその立場を与える前後でサンダルフォンの働きに差異はない。働きに相応しい立場を与えられたともいえる。
 立場を公にしてから、サンダルフォンは研究員に声を掛けられるようになった。
「これを所長にお渡ししろ、いいな」
 サンダルフォンは研究員の指示に首肯し、書類を受け取った。それきり研究員は背を向けて研究に没頭する。薬品の強い臭いにサンダルフォンは足早に、静かに、部屋から立ち去った。いっそ無臭ともいえる廊下でほっと息をつく。それから直々に渡された書類に首を傾げた。そもそもサンダルフォンの予定に研究室に立ち寄るなんてなかった。研究者に無理矢理連れ込まれたのだ。
 所長第二補佐管という立場であるものの、サンダルフォンが天司であるということは知れ渡っており、星の民にとって天司は創造物でしかない。扱いは決して良いとはいえない。サンダルフォンは研究所所長という立場にあるルシファー直属故に直接的な暴力や害ある研究に巻き込まれることはないが、サンダルフォン自身すら、星の民からのやっかみは感じ取っていた。
「機密事項、か?」
 しかし、態々自分を指名する理由がない。サンダルフォンを経由することなくルシファーに提出するべきだ。
「お前経由であれば失跡を免れるとでも思ったのだろう、馬鹿馬鹿しい」
 手渡した書類に目を通してから、ルシファーは忌々しく吐き捨てた。
 つまらない。くだらない。わかりきった結果である。人員と研究費、研究材料、時間を散々に費やした男の惨めで責任逃れのツラツラとした長ったらしい言い訳は目が滑る。内容も無駄であり時間も無駄。用紙すら無駄である。
「……機嫌取りというところだ」
 サンダルフォンは機嫌取り……と繰り返してからどこか納得をしきれていない様子を見せた。ルシファーはその様子を観察する。
 サンダルフォンが纏っているのはベリアルとよく似た白い衣装だ。親衛隊のような白を基調とした軍服は所長に近しい存在であることを視覚から認識させる。隠し通したい存在であったが今となっては困難だ。ならばいっそ公にしてしまえばいいだろうと、与えた立場である。
 サンダルフォンを経由してこのような言い訳を読まされるのは今回が初めてではない。ましてや一度や二度ではない。
「お前を経由すれば処分が軽くなるとでも思ったのだろう……下す処分に変わりはない、責任は取らせるがな」
 ルシファーは手にしていた書類を机に放りだす。
 研究員が気に掛けるよりもルシファーはサンダルフォンを溺愛しているわけではない。必要であれば切り捨てることも厭わない。ルシファーの計画にとって不可欠な存在はルシフェルだ。とはいえ、サンダルフォンのことを有象無象として扱っているとは断言できないでいる。サンダルフォンはルシフェルには劣るものの、優秀だ。久方ぶりにルシファー直々に作り出した天司であり、他にはない特異性を秘めている。それに、サンダルフォンが第二補佐官となってから仕事の効率が上がっていることはルシファーも認めている。ルシファーは来る終末を見せてやろうという親心を抱く程度にはサンダルフォンを認めているのだ。それが溺愛といわずなんというのか! と指摘することができる堕天司は刑死を司る天司の蟻観察にあきれながら同行していて不在であった。

 天司長は優しい人だとサンダルフォンは声を大にして言える。空っぽだったサンダルフォンの内側をあたたかなもので満たしてくれた。慈しんでくれた、愛情を注いでくれた。優しい人だ。だから言わねばならない。
「俺は廃棄されるんです」
 ルシフェルがカップを手にしたまま、静止した。
「だから俺なんかに時間を割くのは勿体ないですよ」
 そう続けようとしたサンダルフォンだったが、ルシフェルの様子に言葉を失う。サンダルフォンの真正面に座り、穏やかな微笑を浮かべている様子はいつもと変わらない。ただし、手にしたカップにはぴしりとヒビが入りポタポタと珈琲が零れている。ルシフェルに気づいた素振りはない。
「ルシフェルさま!」
「あ、ああ……」
「お怪我はありませんか?」
「怪我……いや、ないよ」
「よかった。布巾をお持ちしますね」
「いや……」
 ルシフェルはいやにぼんやりとした様子だからサンダルフォンはどうしたのだろうかと不安になる。ルシフェルさま? そう呼びかけるサンダルフォンに、ルシフェルはいつにもまして真面目な、何かを決意したような表情を浮かべて応える。
「……すまないサンダルフォン、用事があったことを思い出した」
「そうだったんですね。お引止めしてしまって申し訳ありません」
「いや。中庭はまだ使っていて構わないよ。友には私から伝えておくから」
 ルシフェルは足早に立ち去って行った。何かあったのだろうかと思ったものの、詮索をすることは出来ず、言われた通りに残り、珈琲を口にする。ルシフェルから美味しいよと太鼓判を押された珈琲を一口飲めば、ほろ苦さが口に広がる。先ほどは美味しいと思えたのに、味気なく感じる。ただただ苦いだけ。珈琲は最近になっておいしいと思えるようになったのに、どうしたのだろうと首をかしげる。それから中庭で時間が過ぎるのを待ったが、一人で何をしたらよいのかわからず結局、珈琲は残して、後片付けをした。
 サンダルフォンは自分が廃棄されることを当然だと思っている。だから現状が不思議でならない。与えられたものは全て無意味になる。立場も名前も、何もかも。
「サンディ、お茶会は終わったのかい?」
 声をかけてきたベリアルにサンダルフォンは深く淀んだ思考から浮上する。
「ああ。何やら用事があったらしい」
「用事?」
 ベリアルすら知らないのかとサンダルフォンは驚く。用事ねえ、と繰り返したベリアルにサンダルフォンは彼ならば知っているだろうかと、胸の奥底で常にあった疑問を口にした。
「俺の廃棄はまだなのか?」
 ベリアルは思わず目を見開き、何を言っているんだと口にしそうになり口を片手で覆い言葉を飲み込んだ。そんな挙動不審なベリアルをサンダルフォンは不思議そうに見上げている。ぱちりと視線があうと、二人は見合わせてぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……忘れてくれ」
「ああ、聞かなかったことにするよ。それから間違ってもファーさんだとか、ルシフェルに言うなよ」
「……言っては、ダメだったのか?」
「は? 言ったのか?」
 おそるおそると首肯したサンダルフォンにベリアルはあちゃーと項垂れる。その時轟音が響き、研究所が揺れた。はっと二人は顔を見合わせる。音の発生源は所長室からだった。

 ルシファーはルシファーなりに、サンダルフォンを気に掛けている。不用品を傍らに置き続けるほど寛容ではなく、酔狂でもなく、慈悲深くもない。自ら手掛けた天司の一体であり、予期せぬ突然変異体。
 最高傑作の不審な言動はルシファーの耳朶にも触れていた。最高傑作を誑かす存在としてサンダルフォンを忌避するよりむしろ、その最高傑作に対して、何をしているんだ年甲斐もなく、と呆れがあった。なんせ稼働時間を考えれば当然である。もっともそれは自らにも言えることなのだが、ルシファーにとってサンダルフォンは自ら手掛けた作品であり、即ち所有者である。そんな正当性を盾にした。
 散乱した学術書に書類、割れた窓ガラスにひびのはいっている壁。ソファやデスクはそんなものありましたかと言わんばかりに木っ端みじんである。確かここは所長室であったはずだとサンダルフォンはベリアルに困惑したように視線を送った。そんなベリアルは見るも無残な所長室に茫然と立ち尽くしている。
 部屋(だったらしき場所)には対峙する二つの影がある。
 方や麗しき純白の六枚翼の天司長。方や天司を作り出した創造主。
 ぴりぴりとした緊張感はこれまでサンダルフォンが接したことのない、感じたことのない空気だった。
「誰がお前を廃棄するといった」
 怒髪天を貫くと人は無表情になるらしい。サンダルフォンはびくりと震える。いよいよ、廃棄されるのだろうか。恐怖からなのか、喉がひきつる。
「ルシファーさまが、以前、仰っていました。基本データが揃い次第、時期を見て、廃棄すると……」
 そして最近はめっきり検査もなくなった。データがそろったのだろうとサンダルフォンは自分の廃棄が近いだろうと思ったのだ。
 ベリアルはそういえば言ってたなと思い出す。サンダルフォンが作られて間もないころ合いであったはずだ。そんなに昔のことではない。ベリアルも居合わせていた。寧ろベリアルに説明をする際に口にしていたことを、ベリアルも思い出した。
「友よ」
「……俺、か。言った、言ったな……」
 ルシフェルが剣呑な様子を見せるも、そんなルシフェルに構う素振りもなくルシファーは過去の自分の発言を思い出してしまった。なまじ、記憶力がいいだけにそんなこと言った覚えはない、なんて否定ができない。
 本来は、廃棄する予定だったのだ。成長という稀少性はあれども、不確定要素は多く手元に置くには危険性が高い。
 ルシファーにとって、想定外であったのだ。
 役割を果たさないから不用品として廃棄するには、サンダルフォンは惜しい。有能さは保証されていた。それ以上にサンダルフォンという存在を、ルシファーは、手放しがたく、思っているのだ。だからこそ、入ってくるなりに早々にサンダルフォンを天司長の補佐として寄越せと言ってきた最高傑作と大乱闘を繰り広げたのだ。ミカエルがいるだろうと言うも譲らずにサンダルフォンをという最高傑作に絶対にやらんと意固地になったルシファーにルシフェルは武力行使をしたのだから迎え撃ったまでのこと。本来ならばルシフェルの行動は謀叛に値して処分せねばならないのだが、理由が理由故に、お咎めはない。そして、サンダルフォンの所在も変わらない。
「ルシファーさま、1班からの研究報告書です。それからこちらは最高評議会からの連絡です」
 新たに備え付けられた机に広げられる書類にルシファーは深く、歎息する。研究報告書は相変わらず無意味な内容であり、最高評議会からの連絡も不用な内容である。
「あ、ルシフェルさま」
「窓を閉めておけ」
 ルシファーに言われてサンダルフォンは少しだけ申し訳なさそうな顔をしてから窓をしめた。少し前、ショートカットを図ろうとしたルシフェルが窓から入室してその勢いで書類がめちゃくちゃになったことを、ルシファーは根に持っている。
 サンダルフォンが傍らを通り過ぎる。
 こつりと音が鳴った。
「お前、そんな靴だったか?」
「え? あ、これですか? ルシフェルさまから頂いたんです」
 嬉しそうに、呑気に言うサンダルフォンの貞操を危うんだルシファーが親心で送った貞操帯をめぐって、乗り込んできた天司長の手により所長室が再度移転したのは三日後のことである。

2019/10/18
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