ピリオド

  • since 12/06/19
 堕天司との戦いを経て、サンダルフォンは丸くなった。
 減らず口は相変わらずで、融通の利かない生真面目なところも変わらない。だけど、真紅の瞳からちらりと「仕方ないな」と言わんばかりのお節介が顔を覗かせていることに気づいたのは最近のことだった。
 共闘であることを念押して、必要最低限、最小限の関わりしか持とうとしなかった。部屋に籠りきっていた。なにもかも、遠い昔のことのように思う。苛烈な堕天司との闘いも、ルシファーとの死闘もすべてが、ずっと、ずっと昔の出来事のように感じた。今や、サンダルフォンがマスターを務める喫茶室は、昔からあったかのように団員たちの憩いの場となっている。
 団員からのオーダーを聞いて、あるいは団員の曖昧な好みに応じて丁寧に淹れられる新天司長の珈琲は団内でも評判である。味にうるさい王侯貴族ですら素直においしいと評価する腕前であった。
「サンダルフォン、すっかりマスターっていう感じだね」
 カウンター越しに声を掛けられる。
 喫茶室を開いたばかりのころは話し相手をしながらコーヒーを淹れる、なんて器用な芸当は出来ずにいた。「俺に声をかけたのか……?」と言わんばかりに驚いて、そんなことを想定していないとばかりに動揺を見せたことも懐かしく、恥ずかしい思い出である。今では動揺もなく、手元を狂わすこともなく、談笑をしながらコーヒーを淹れることも出来るようになっている。
「まだまだ、修行中だよ」
「……修行期間長すぎない?」
 サンダルフォンがくっと押し殺したように笑った。
 その表情を見ながら、暗い顔を一瞬、浮かべたのはルリアだった。
 ルリアはサンダルフォンの淹れた甘いアイスカフェオレを両手で包みながら、口の中は甘くてひんやりとしているのに、喉や胸の奥がちくちくと痛んで、苦しくなった。
 ルリアは、知っている。
 ふとした瞬間。
 それは、コーヒーを飲んだ瞬間。
 それは、朝日が美しかった瞬間。
 それは、興味深い話を聞いた瞬間。
 それは、今までにない出来事に触れた瞬間。
 それは、トンチキな事件に巻き込まれた瞬間。
 ふとした瞬間に、サンダルフォンは誰かを探す。視線がさまよい、はっとしたように、思い出したように落胆を見せる。迷子のように心細く、不安でいっぱいの顔になる。やがて仕方ないと諦めたような自嘲的に笑って、騎空団の一員としての、喫茶室のマスターとしての、天司長としてのサンダルフォンの仮面を被る。
 その諦めを知っているのは、きっと、ルリアだけだった。
 ルリアだけが、気づいてしまったのだ。
 その諦めの笑みが浮かべられるたびに、ぎゅっと胸が締め付けられた。
 たまらず、泣きたくなるのだ。

「ーーん……ーーい……てん……特異点」
「今日もですか!?」
 がばりと、起き上がる。といっても夢の中であると理解している。
 いうなれば明晰夢である。
 だが、これは全てが夢というわけではないのだ。
 証拠に特異点、と呼びかける声の主は幻覚ではない。
 ここ数日……どころか、数か月前から、毎夜、特異点の夢に顕れるのはかつて天司長の座にあった男である。その背中にはかつてあったぼんやりと輝く六枚羽はない。
 特異点は頭を抱える。
 だが元天司長は特異点の様子を気に留めた様子はない。これも、特異点にとっては頭が痛い。そして何よりも。
「もういい加減に直接サンダルフォンのところへ行きなよ!!」
「……だが」
「絶対に喜ぶよサンダルフォン! こっちに顔見せる暇あるなら会いに行けよ!!」
 思わず乱暴な言葉遣いになってしまうのも仕方がないことである。なんせ毎夜、現れるこの男は口を開けば「サンダルオフォン」である。やれサンダルフォンの様子はどうだろうか。サンダルフォンは無茶をしていないだろうか。サンダルフォンは息災だろうか。サンダルフォンはサンダルフォンは以下略。
 いい加減ノイローゼになりそうだった。
 実際、なりかけている。
 サンダルフォン自身になんら罪はない。なんならすれ違ったときに顔色が悪いことに気づくや「眠れていないのか?……俺で役に立つことがあるならなんでもいってくれ」とこれまた今までにない気遣いを見せる。サンダルフォンのことだよ、だとはとてもではないが言えなかったから曖昧に誤魔化さざるを得なかった。それがサンダルフォンにとっては自分では力になれないのかと、彼のトラウマを抉るようなやり取りで、遣る瀬無い表情を浮かべたのだから、巡り巡ってルシフェルお前……っ!となってしまうだけであった。
「絶対に喜ぶよ。喜ばないわけがないよ」
「…………しかし」
「なに!? 今更会いたくないとか!?」
「そんなことはない! 彼に会いたい、離れがたく思う!!」
 声を荒らげるように即答したルシフェルに、そんな声出るのかよと驚く。ルシフェルは目を瞑る。何やら考えこむようにしてから、重々しく口を開く。
「……あれほどの、今生の別れと振舞って起きながら、おいそれと会いに行くのははばかられる…………なにより、いってらっしゃいと見送った手前、堪え性がないと、彼にあきれられてしまう…………」
 しおしおと言うものだから特異点ががっくしと項垂れて頭を抱えたくなる。特異点は別段、サンダルフォン程にルシフェルという、天司長という存在に夢を見ているわけではない。だからこそ、にしても、限度があるというものだ。
「今更、なに、かっこうつけようとしてんのさ……」
「…………彼の前では、格好良く、ありたい」

 こほり、と喉に張り付くような不快感に、咳をこぼす。
 埃っぽく、黴臭い室内の状態では致し方ないことなのだろうと、サンダルフォンはどうしてこんなになるまで放っておいたのかと理解しかねる。ちっとも、合理的ではない。
 騎空艇の大掃除に駆り出された。
 サンダルフォンが任されたのは自室と喫茶室、それから倉庫だった。特異点曰く、倉庫は掃除し終わったら喫茶室用の倉庫にしてくれていいからとの言葉に釣られたものの、この状態を掃除できるのかと途方に暮れる。
「……よし、」
 雑に放り込まれたであろう木箱に積もった塵が、扉を開けたことで舞い上がる。
(これは、掃除のし甲斐がありそうだ)
 サンダルフォンは腕まくりをして、それから口元をマスクで覆う。若干の息苦しさはあるものの、有害物質を直接吸い込むことのない機能は良いものだとサンダルフォンは意気込みながら木箱に手をかける。
「お手伝いしますよ」
 おっとりとした声は提案であるようにも聞こえるがその実、否定をされるわけがないといわんばかりの自信があるのか、有無をいわせないものであった。サンダルフォンが運ぼうとした木箱がひょいと持ち運ばれる。サンダルフォンはむっと、その声の主に、恨みがましい視線をむけてしまう。
「自分の持ち場は終わっているのか」
「ええ」
 ルシオはにこにことしている。サンダルフォンが知る限り、この男は梃子でも自分の意志を曲げることはない。厄介である。
 サンダルフォンは、ルシオという男が苦手である。なぜあの御方と同じ顔をしているのか、戦闘中に見せる羽はいったいなんなのか。そしてなによりなぜ、態々、自分に関わってくるのか理解できない。
 大人げないと自覚しながら、サンダルフォンはルシオを徹底的に避けてきた。喫茶室への入室も許可していないし、彼との編成を可能ならば極力避けてほしいと、情けないと思いながらも団長へ直談判をした。団長も思うところあったのかサンダルフォンの願いはどうにか聞き届けられていた。だというのにサンダルフォンの甲斐甲斐しい努力を無に帰すのがルシオである。それも一切の悪意もないのだからサンダルフォンは手に負えない。何よりルシオは別に害をもっているわけではない。ただ、サンダルフォンの感情の整理がつかないだけだ。
「……手伝ってもらって、すまない」
「お気になさらず。それに、サンちゃんとお話しが出来ました」
 結局、ルシオは最後まで手伝っていた。サンダルフォンがそれとなく一人で十分だと言っても、別のやつを手伝ってやれといっても聞きやしない。 
「それから、こういうときはすまない、ではなく、感謝の言葉を伝えるものですよ」
 空の文化です。そういったルシオにサンダルフォンは目をぱちりと瞬かせてから、もごもごと口をまごつかせて、十分の時間をかけて、ややあってから口を開いた。
「…………ありがとう」
「はい、困ったことがあったら言ってくださいね」
 別に困ってなんかなかったんだがと言いかけて、結局は最後まで手伝ってもらった手前口を噤んだ。どうにも、ルシオのペースに乗せられてしまう。るんるんと言わんばかりのご機嫌な様子。やはり、その顔に慣れない。
「……あの御方と同じ顔で、やめろ」
「ふふふ」
 どうして嬉しそうに笑うのか、わからない。やはり、得体が知れず理解ができない。苦手だ。いつの間にか手を取られているのも、理解できない。掃除で汚れているのに、なぜわざわざ手をつなぐ必要があるのか、それとも逃亡防止だろかと意図を計りかねる。

 あ、今日もなんだと焦りや困惑を浮かべることがなくなって久しい。当初はぼんやりと姿を見せたルシフェルの姿に目をむいたものであった。まさか、何かあったのかと、堕天司との戦いは終わったのではないのか、ルシファーの野望は阻止したのではないのか、もしやサンダルフォンに何かあるのかと不安でたまらなくなった。特異点にとってルシフェルの告げる言葉は警告にも似ていた。結局のところは、今日のサンダルフォンについてじっと待つことができなかっただけであったのだから拍子抜けしたものだ。当初は。なんだ、ルシフェルさんも人間味というか、感情が豊かなのだと改めて知って、少しだけ微笑ましくも思ったのだ。なんせルシフェル、という天司長の話はサンダルフォンから聞いた限りでは、あるいは堕天司やルシファーの言葉を聞く限りではどこか、人間味に欠けていたもので。しかし、それが数か月も続くともしや実体を持てるまでになっているのではないかと疑っても仕方のないことであった。何よりルシフェルの口ぶりからして事実であるらしい。
 だからこそ、とっとと会いに来い、会いに行けと何度も言っているのだがルシフェルはどうしたものか二の足を踏んでばかりである。その癖文句だけは一丁前なのだからもうルシフェルに対しての尊敬の念はなくなっている。
「特異点!!」
 声を荒げるルシフェルに対して特異点の心は凪いでいる。凪いでいる、というよりも無感情であった。
「あの男を、サンダルフォンから離すようにと言ったと思うが」
「ああルシオね……。これでも頑張ってるけど、そこまでしなくても大丈夫じゃない?」
 特異点もルシオについては仔細は知らない。団長であるのに、如何なものかと言われても知らないものは知らない。ただ彼が団員たちに悪意がないことは確かであり、そして彼自身も悪人ではないことは確かであった。ルシオは人づきあいが悪いわけではないがふと気づくと姿をくらます。そして彼のほうから声をかけることはめったにない。いつもにこやかにしている。そんな彼が唯一といっていいほどに構うのがサンダルフォンである。ただルシフェルの危惧するような好意ではないように、特異点は思うのだ。むしろ幼い子どもを気遣うような、あやすような接し方であるように感じる。サンダルフォン自身はルシオを苦手にしているから一方通行であるのだが、それはモンスターペアレントと化しているルシフェルにとっては問題とすべき点ではないらしい。彼にとっての問題は正体不明かつ自分と同じ姿をしたルシオという不審者が目に入れてもいたくないほどに溺愛しているサンダルフォンに近づくこと。その一点である。
 ぎゅっとルシフェルの眉間にしわが寄った。その顔つきは対峙したルシファーとよく似ているものだから、背筋に冷たいものがつつつと流れた気がした。
「……サンダルフォンのことになると途端に心が狭くなるよね」
 とはいえルシフェルなのだ。
 サンダルフォンのことで頭がいっぱいの、不器用な天司だとここ暫く毎夜の付き合いで知っている。サンダルフォンに聞かれたら不敬だぞ!と叱られてしまうことも本人に口にしてしまう。ルシフェルはそこまで心が狭くない、というよりも自身に対する頓着がない。
 特異点の言葉に、ルシフェルは目を瞬かせる。
 それから、ふと、優しい顔を浮かべた。
 決して特異点に向けられたものではない。その笑みはただ一人のために浮かべられるものだ。特異点も勘違いなんてしない。
「私は、彼のことを、愛しく、恋しく、想っているのだと、あの場所で知った」
 あの場所について特異点は知らない。
 あの場所で何があったのか、どこなのか。
 何も知らない。
 ただ言えるのは一つ。
「今更じゃない?」
 ルシフェルは苦い虫を噛んだみたいな顔をしたから、特異点は呆れる。特異点はもっと前から知っていたことである。なんなら誰もが知っている。知らないのはただ一人であろう事実である。

 サンダルフォンが幾ら避けようともこの男は諦めることを知らないのか、サンダルフォンが避けているということに気づいていないほどに鈍感なのか、サンダルフォンにちょっかいをかけてくる。傍から見れば微笑ましい光景であった。しかし、当事者であるサンダルフォンはちょっかいと思っている。サンダルフォンの苛立ちや不快感もにこやかに流すこの男が、サンダルフォンはどうしようもなく、苦手だった。
 この男を前にすると冷静でいられなくなる。
 まったくの別人だとわかっている。それでも、その顔で、あのお方と同じ顔で、同じ声で言葉を繰り出されるたびに胸がざわめいて仕方ない。あのお方ではないとわかっているのに、わかっていてなお、勘違いをしそうになる自分が、許せない。
 営業時間は終わっている、と冷たく突き放してもサンちゃんとお話しがしたいだけですから待っていますと喫茶室の片隅でにこやかに笑う男に苛立ちを覚えた。此方は話すことなんて何一つとしてない、と言ったところで無意味なのだとも、彼との付き合いの中で分かっている。分かってしまっている自分に嫌悪を抱きながら、サンダルフォンは遣る瀬無く、ため息を吐き出す。やがて、明日の準備にと動き回っているうちに、ルシオのことも頭の片隅から消えかけていた折りを見計らったように、言葉が掛けられた。
「忘れたいと思いませんか」
 眉根を寄せる。
 思わず手を止めて、ルシオを見た。
 ルシオは常と変わらぬ姿だった。にこやかに、うっすらと口元に浮かべた微笑。それが、どうしようもなく、サンダルフォンの柔らかな心に、爪を立てる。じくじくと、蚯蚓晴れしたように、ひりひりと、痛みを覚える。
「会えないことを嘆くこともなく、胸に募るだけの感情に振り回されることもなくなりますよ」
 名案とでもいうように語られた言葉。サンダルフォンは腹の中から熱いものが込みあがった。それは、怒りであったし、悲しみであった。ぐっと飲みこめば、心が凪いだ。あの方の言葉を思い出す。サンダルフォンのことをただひとり、許すといった人。果ての世界で穏やかであった。研究所を、中庭での美しかった日々のようであった。
 今も昔も変わらない。サンダルフォンにとって、唯一の光である。光のない世界でおめおめと生きろというのか。暗闇を這って生きろというのか。罪人である自分には確かに、お似合いであろう。だが、
「ナンセンスだな」
 サンダルフォンは吐き捨てる。
「バカバカしい。俺を形作っているのは、あの御方への想いだ」
「それで苦しむことになっても?」
「……それでも、俺は、この想いを捨てるなんてしない」
 逡巡。サンダルフォンは言いよどみ、けれど、やっぱり、捨てるなんて選択はなかった。出来なかった。サンダルフォンは何度も、捨てようとした。だけど、捨てきれなかった。サンダルフォンの、想いはもはや捨てられるものではない。そのように、軽々しいものではない。そのように、簡単なものではない。サンダルフォンをサンダルフォンたらしめるのは、ルシフェルへの想いであった。憎むほどに愛してる。殺されたいくらいに恋しい。けれど、いつか、手を取ってほしいと甘く希望する。夢を見させてくれる。残酷なまでの優しさは諦めさせてくれない。
 あの果ての世界での約束を胸にして、サンダルフォンは生きることを決意した。
 本当は、一緒にいたいと思う気持ちもあった。
 あの場所で命を終えてもきっと、と考えることはある。
「俺は、あの人を知りたい。あの人が愛した世界を知りたい。何を思っていたのか……。少しでも、あの人に近づきたい。たとえ、苦しくても、あの人を忘れられないでいられるなら、あの人を理解できるなら、近づけるなら、苦しくたっていい」
 サンダルフォンはルシオに向けたというよりも自分に言い聞かせるように言った。
「……本当に、ルシフェルさんは果報者だ」
 ルシオが心底、羨ましいというように呟いた言葉はサンダルフォンの耳朶には届かなかった。それほどまでに想われるルシフェルが羨ましい。それほどまでに想えるサンダルフォンが羨ましい。
 何か、言ったのだろうかとサンダルフォンは胡乱に窺う。だがルシオは繰り返すことはなく、ただただ、寂しく見えるような微笑を浮かべるばかりだった。
「寂しくなったら何時でも私を頼ってくださいね、サンちゃん」
「それには及ばない」

 サンダルフォンはその背中に、なぜ、だとか、どうしてだとか、声を掛けたかった。だけど声は喉に引っ掛かって出てこない。目はくぎ付けになる。広い背中。サンダルフォンが、追いかけ続けた背中。今となっては、羽のない背中。だけど、間違えることはない。
 ぱちりとルシオは目を瞬かせた。
 思いがけない人物の登場であった。ルシオの、予想外であった。彼の復活は、まだ、その時ではない。彼の復活自体は想定内であった。だというのに、彼は――。
 やがてふふふと笑みをこぼす。それは旧友に会ったような親しみを込めたものだった。ルシフェルはサンダルフォンを背にかばったまま、怪訝に眉を寄せる。ルシオ、という存在への不信感しかなかった。加えるならば、いや、それこそがついで、であるのだとルシフェル自身が理解をしている。ルシオに対する不信感、不快感の起点は妬みと嫉みであった。
「あなたが、ルシフェルさんですね」
 ルシフェルはサンダルフォンの前に立ったまま、警戒を怠ることはない。警戒をされているとわかっていてもなお、ルシオは嬉々としている。戸惑っているのは、状況が理解できていないのはサンダルフォンだけだと言わんばかりであった。
「あなたとも話しをしたいことがあるのです……が、また後日としましょう。失礼しますね」
 場をかき乱すだけ乱してルシオは気分良く、喫茶室を後にした。喫茶室に残されたサンダルフォンは、まだ顔を見れていないルシフェルに、戸惑う。
 なぜ、この場におられるのだろう。
 どうして、あの場所で、待っていると言っていたのに。いってきますと、張り裂けそうな胸で、告げたのに。
 戸惑いばかりだった。
 嬉しいと思うよりも、だって、もっともっと、ずっと、遠い未来での再会だと、思っていたから、心の準備も何も、出来ていない。俺はまだ、胸を張ってあなたに会えるサンダルフォンではない。
 失望を、させてしまうのではないかと、不安がちらりと、恐怖がちらちらと、サンダルフォンを追い立てる。体が、竦む。
 決して、そのような、心の狭いお方ではないと知っている。カナンの地で、触れたあの方から、あの果ての世界でコーヒーを共にしたあの御方から、サンダルフォンは自分が彼に如何ほど大切にされているのかを知った。優しさと慈しみがサンダルフォンを常に包んでいたのだと知った。
 サンダルフォンにとってのルシフェルは創造主であり光であり、永遠の存在である。だからこそ、彼の想いに応えたいのだ。彼の託した新天司長としての役割<期待>に応えたいのに。サンダルフォンにとっては、未だ、胸を張ることはできない。誰が天司長としての役割を果たしたと言っても、サンダルフォン自身は足りない。
 耳が痛くなるほどの沈黙。
 ジリジリと耳鳴りを覚える静寂。
「…………すまない」
 口を開いたのはルシフェルだった。背中を向けたまま、ただ、謝罪を口にする。何を、謝っているのか、サンダルフォンはわからない。サンダルフォンに謝る理由はあれど、謝られる覚えはなかった。
「なにを、謝ることが、あるのですか」
「……待つことが、出来なかったことに」
 それは、懺悔だった。
「きみの帰る場所になると、言ったのに。ただいまと、言える場所であるつもりだったのに。きみの安らぎの場になるつもりであったというのに……。きみのいないことに、耐えきれなくなった。きみが、奪われることに、恐怖した。サンダルフォン……私は、きみとの、約束を、守れなかった」
 はっと息を呑んだ。
 あのルシフェルが、恐怖を覚えるなんて、耐えきれないだなんて、そんなこと、あるはずがない。ただ一人で空の世界を守ってきた絶対的な存在が抱くにはちっぽけな恐怖。ここに彼を作った創造主が、研究者が居合わせたのなら致命的な不具合でありノイズと切り捨てる弱さ。だというのに、サンダルフォンの中に芽生えたのは喜びだった。
「きみは、待っていてくれたのに」
 堪らなくなって、その背中に触れた。びくりと、震えた背中は拒絶はしない。温かい。消えない。この人は、この世界にいる。やっと、戸惑いから、恐怖から、不安から喜びが湧き上がっていく。震える手で、縋る。
 サンダルフォンにとって、追いかけるしかできなかった背中だった。見送るしかできなかった背中だった。
「あなたのいる場所が、俺の帰る場所です。俺の、戻る場所です」
 だって俺を作っているすべてはあなたへの想いですとは、言えずにいたまま、おずおずと触れていたサンダルフォンの手を、熱の籠った手が取った。サンダルフォンはその熱さに驚いた。影がかかる。見上げた蒼穹は慈悲深く、それでいて熱が込められている。初めて見たいろだった。
「……きみがいる場所が、私の帰る場所でもあるんだよ、サンダルフォン。中庭には、研究所にはきみがいた。きみが恋しく、愛しく、会いたかった。……気づいてしまうと、あの場所で、きみの帰りを待ち続けることができないほどに、堪え性もなくなってしまった」
 自嘲するように笑ったルシフェルに、サンダルフォンは悪戯っぽく笑った。
「だから、俺は、あなたが帰ってきたとき、何よりもうれしかった。あなたが俺のためにと作ってくださった美しい花束も、淹れてくれたコーヒーもうれしかったけれど、あなたがいてくれることが、帰ってきてくれたことが、何よりも、嬉しかったのです」
 ルシフェルは思い出す。サンダルフォンの顔が華やいだ瞬間。その瞬間に、胸に灯った温もり。ああ、そうだったのか。ルシフェルは今更になって知る。ルシフェルの琴線に触れるもの。ルシフェルの喜び、悲しみ、幸福、後悔。すべてに帰結する。すべてに至る。誰かではない。サンダルフォンだけ。すべてではない。サンダルフォンだけ。サンダルフォンだけが、ルシフェルを作る。
 サンダルフォンは、どうしようもなく、ルシフェルの為に存在している。
「……でも、どうしましょう」
 思い出したように、サンダルフォンが不安そうな声でつぶやいた。視線はゆらゆらとさ迷っている。ルシフェルは優しく、といかけた。
「どうかしたのかい?」
「あなたに次にあったとき、話したいことを決めていたのに、まだ、足りないのです。まだ、俺は空の世界をみていません」
 ややあってから重い口を開いたサンダルフォンは、意を決したように失意を告げた。
 サンダルフォンはルシフェルの守った世界を心で触れたかった。滅ぼすためではなく、憎しみではない。約束のためではなく、復讐のためではなく。天司長が守ってきた世界を、ルシフェルが、ルシフェルの意志で守り続けてきた空の民の行く末を、知りたかった。そして、彼に伝えたかった。あなたの愛した世界、そらの民、進化。サンダルフォンが罪からではなく、罰としてではなく、己に課した任務であった。
 その任務すら全うできずにいる。
 サンダルフォンはしょぼくれる。
 対して、ルシフェルは息を呑み胸の奥からわきあがる、溢れる熱量を押さえつける。ともすれば、暴れだしそうな熱。愛しさが、恋しさが募る。胸の奥が焼けこげそうなほどの熱を持つ。どうしてと思ってしまう。なぜと、あまりにも、嬉しくて疑問にすら抱いてしまう。
 彼の言葉はこんなにも胸に響く。
 彼の言葉ひとつで、感情がわき上がる。
「なら、私も共に見よう。サンダルフォン。……きみが守った世界を、私に見せてほしい」
 ルシフェルはうつむいたサンダルフォンの頬を包む。ひやりと、夜の冷たさに触れていた頬はだんだんと熱を持っていく。サンダルフォンは真紅の瞳を茫然とした様子で見開いてから細めて、はにかんだ。

2019/08/02
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