ピリオド

  • since 12/06/19
「また、無くしたの?」
 仕方いないわね。という、母親の声にルシフェルは違うよと言いかけて、けれど信じてもらえないことが分かっているから、口を噤んで、もごもごとさせる。くすくす、と笑う声が、ルシフェルには聞こえていた。母親には、聞こえていない。
 無くしたものは、隠されているものは、ハンカチだ。ブランドものではない。幼稚舎に通うルシフェルが持つに相応しい、タオル生地のハンカチだった。子どもらしい、車が描かれているハンカチをルシフェルは少しだけ、特別に気に入っていた。母親もそれを知っている。好き嫌いが特別にないわが子にとって、数少ない、お気に入りだったからだ。
「制服と鞄は確認したの?」
「……うん」
「園に忘れているのかもしれないわね……」
 ルシフェルは、少し、抜けているところがあるのかしらと、母親は楽観視している。ちゃんと注意しないとだめよ、今回で何度目なの。小さくぼやかれて、ルシフェルは顔をうつ向かせる。くすくす、と笑う声にむっとするが、反応を示したらますます、彼の思うつぼだと、わかっている。インターホンが鳴る。注文をしていた荷物が届いたようだった。母親が慌てた様子で部屋を出ていくので、ルシフェルはほっとして、それからくすくすと笑う声の主に声をかけた。
「またキミがかくしたんだろう、サンダルフォン」
 くるくると小さな光がルシフェルの周りを浮遊する。6歳になるルシフェルの人差し指程度の小さな影はルシフェルの目の前で止まると、つんとすまし顔で腕を組んでいる。
「ショーコはあるのかい?」
「……だって、きみいがいに、考えられないじゃないか」
むっとしながら言うルシフェルに、サンダルフォンはまたくすくすと笑って、くるくると飛んでいく。ルシフェルが手を伸ばすもそれをひらひらとかわして、天井にぶら下がる飛行機の模型から、ルシフェルを見下ろし、くすくすと笑っている。
「ちゃんと、返してくれ。あれは、お気に入りなんだ」
「おばあさまからいただいたものだろう?」
「しっているんじゃないか。きみは、いじわるだ」
「だって妖精だからな」
「このお話の妖精は、とってもやさしいのに」
 ルシフェルは本棚から絵本を取り出した。どれも、妖精を題材にした内容である。広げられた絵本をみるために、飛行機から降りてきたサンダルフォンは、表紙を見てからふんと鼻で笑った。
「ぜーんぶ、人間がこうだったらいいなっていうお話だ。きみが一番、妖精について知ってるんじゃないか?」
 妖精は意地悪で、悪戯好きだと歌うように、くすくすと、笑う声にルシフェルは口を尖らせる。
 サンダルフォンという、ルシフェルにしか見えない、ルシフェルしか認識できない小さな友人はルシフェルが物心ついた時から、傍にいた。子どもながらに、秘密の友人である彼は、悪戯をして、幼いながら動じることのないルシフェルが困る姿を楽しんでいる。妖精という種族は、そういう生き物であるらしい。だがルシフェルは決して、サンダルフォンが嫌いにはなれない。悪戯で、大切なものを隠される。だけど、彼はちゃんと、ルシフェルの元に戻してくれる。ルシフェルの知らない、見たこともない美しいものをお詫びのように添えて。サンダルフォンは知らんぷりをするが、ルシフェルはサンダルフォンからの贈り物だと確信をしている。だけどサンダルフォンが知らないといってそっぽを向くから面と向かって、ありがとうと言えない。
 ルシフェルの誰にも見せることのない宝箱は、サンダルフォンからの贈り物であふれそうになっている。光の加減できらきらと七色に輝く石、枯れることのない生花、良い香りのするリボン。サンダルフォンから贈り物を、大切にしまい込んでいる。

〇 〇 〇

 休日であっても多忙な父が珍しく、家でくつろいでいた。父はコーヒーを好む。父は、というよりも大人はコーヒーを好んでいると、幼いルシフェルは不思議に思っている。一度だけ飲んだことのあるコーヒーは苦く、渋く、後味が残る不愉快な飲み物だった。顔をしかめたルシフェルに、飲ませた父親は「いつかおいしいと思えるようになるさ」と笑っていた。
「ルシフェル、ここにあったコーヒーをしらないか?」
 リビングでテレビを見ていたルシフェルは、父親からの言葉にふるふると首を振る。父親は、そうだよなあと言って不可解そうな顔をした。母親は友人と出かけているため、家にいるのは父とルシフェルだけだった。
 はっと、ルシフェルは机の上で、シュガーポッドの奥からこっそりと顔をのぞかせるサンダルフォンと目が合った。サンダルフォンは悪戯っぽい顔でにんまりと笑っている。
(サンダルフォン!)
 思わず声をあげそうになって慌てて飲み込んだ。
「ブラックだからルシフェルが飲めるわけないしな……」
 淹れたつもりになっていたのかなと父親は不自然だとわかっていながら、納得をしたようすで、ルシフェルははらはらとするしかできない。ルシフェルは自室にもどるとサンダルフォンもついてきた。ルシフェルの様子をからかいについてきた、とも言える。
「あぶないよ」
「どうせ見えないさ」
「だけど、」
「きみが黙っていれば、大丈夫だ」
 ルシフェルはぎゅっと口を噤んだから、サンダルフォンは呆れたように言う。それは友人としてではない。ルシフェルよりも長く生きた命としてのお節介のようだった。
「愚直なだけでは馬鹿をみるだけだぞ?」
「……ぐちょく?」
「…………素直なだけじゃ、良い子だけじゃダメだっていうことだ」
「悪い子になったらいいの?」
「ルシフェルはなれないだろうな。だって、お前はいい子だから」
 褒められたのだろうか。馬鹿にされたのだろうか。ルシフェルは喜べいいのか、それとも怒ればいいのかわからず、曖昧な表情を浮かべる。その表情がおかしかったのだろう、くすくすとサンダルフォンは笑っている。
「……サンダルフォンは、コーヒーを飲んだからそんな色になったんだ」
「悪口のつもりか? 会ったときから、この色だったろ」
 あまりにもな、可愛い悪口、でもない言葉にサンダルフォンは笑ってしまった。ルシフェルなりの、精一杯の仕返しなのだろうが、やはり、良い子な彼にはできないのだ。サンダルフォンは小さな手でルシフェルのまろい頬に触れる。ふくふくとした柔らかな頬に触れると、ルシフェルはくすぐったいというように声をあげて、笑った。

〇 〇 〇

 サンダルフォンは意地悪で、悪戯をする。
 妖精という生き物として、抗うことのできない本能だった。
 妖精は気儘な生き物だ。
 気まぐれで、残酷に、人間を惑わせて、狂わせる。
 サンダルフォンは妖精のなかでは若い部類である。
 月光を千日帯びた花弁から生まれ落ちたサンダルフォンは、久しぶりに生まれた妖精として、恥ずかしさと、もう可愛がられるような年じゃないと思いながらも、末っ子のように慈しまれている。先に生まれている妖精から、人間は恐ろしい生き物だと散々に聞かされていた。妖精としての本能のままに、つい、手を出して手痛い仕打ちを受けてきたと耳にタコができるほどに忠告をされてきた。中世期ならまだしも、現代では妖精を認識できる人間は滅多にいない。妖精のままの姿を認知できる人間はすっかり、いなくなっていた。人間の世界に興味を無くした同胞だちは多い。サンダルフォンも、同様に興味を無くしつつあった中で、ルシフェルという子どもとの出会いは、久しぶりの刺激だった。妖精として触れ合える数少ない人間。ルシフェルとの毎日は、サンダルフォンにとっては真新しい日々の連続で、人間とはなんて楽しい生き物なのだろうと、そして、ルシフェルの成長の速さに驚く日々だった。昨日まで喋れなかったのに、次の日には単語を口にしている。這って動くことしかできなかったのに、よたよたと歩いている。名前を呼ばれたとき、心がぽかぽかと温かくなった。
 幼稚舎を卒業したルシフェルに、サンダルフォンはそろそろ、さようならをしなければならないと決意をしていた。
 だって、ルシフェルは大きくなる。
 今は、サンダルフォンが見える。だけど、いつしか見えなくなる。もしかしたら、ルシフェルはいつまでもサンダルフォンのことが見える、現代では稀有な人間なのかもしれない。だけど、いつまでも一緒に入られない。今は、子どもだからと見過ごされる振舞いは許されなくなる。頭のおかしな人間として、白い目で見られる。サンダルフォンは、幾人もの、狂わされた人間を見てきた。サンダルフォンとて、妖精として、長く生きてきて人間を、狂わせてきた。だけど、サンダルフォンは、ルシフェルがそのように扱われるのは、いやだった。
(こんなはずじゃ、なかったのにな)
 すっかり、心をほだされている。
 サンダルフォンは、ルシフェルのことを大切に想っている。
 一緒にいたい。いつまでも彼をからかって、困らせて、時には兄弟のように過ごしたい。だけど、サンダルフォンは妖精だ。彼にとって、自分は良くないものだとわかっている。
 サンダルフォンはすやすやと眠っているルシフェルのまろい頬をつついた。ルシフェルはむずがるように、寝返りを打った。
「ばいばい、ルシフェル」
 星明りがてらす子供部屋から、ルシフェルの前から、姿を消した。

〇 〇 〇

 妖精は気まぐれだ。
 ルシフェルと、一方的なさようならをして以来、サンダルフォンもまた、気まぐれに人の姿をとって、人の生活に混ざっている。ルシフェルのように、妖精が見える子どもとは出会えなかった。だが、ルシフェルとの出会いから、サンダルフォンは人を気に入ってしまった。人間から離れるのは、もったいなく、思ってしまった。悪戯をする、意地悪をするだけの対象ではない。聞いていただけの、おそろしい生き物ではない。人、という種族に一種のいとしさを抱いている。
「Aランチセット、10番テーブルに」
「はい!」
 オフィス街の片隅にあるとある喫茶店はランチタイムとだけあって、賑わっていた。サンダルフォンはアルバイトスタッフとして、ホールでオーダーを取り、出来上がった品物を配膳している。小さな店のテーブル席も、カウンターも埋まっていた。ちらちらと寄せられる視線にサンダルフォンは気づいた様子はない。いったりきたりを繰り返して、余裕もないのだ。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
 会計を終えて、近隣でよく見かける制服をした女性客を見送ると、店内はやっと、落ち着きを取り戻した。サンダルフォンも、ほっと一息をつく。
 近頃は客層が少しだけ、変化をしていると、マスターが面白がりながらサンダルフォンに耳打ちをした。
「全部、サンダルフォン目当てだぜ」
 長い喫煙でしわがれた声でのからかいに、サンダルフォンは肩をすくめる。
「まさか。ここのコーヒーの美味しさがやっと知れ渡ったんですよ」
 賄い用にと作られたハムエッグサンドとコーヒー。この店で働こうと思ったきっかけであるコーヒーを手に取り、啜る。雑味のない、透き通った苦味を味わう。
 小さな喫茶店はマスターが五十を手前に「脱サラ」をして始めたものだ。幸いなことに常連客もついて、スタッフを雇う余裕はできたものの、コーヒーの淹れ方どころか味わい方も知らないものを雇うつもりはなく、長らく一人で切り盛りしていた。
 サンダルフォンを雇ったのは、彼のコーヒーへの熱意を気に入ったからだ。コーヒーへの造詣が深いだけではなく、店のコーヒーを気に入っていることが、ひしひしと伝わってきたものだから、嬉しくて、雇っている。
 ランチタイム時の女性客の多さはサンダルフォン目当てだと、マスターは確信をしている。
「いやいや! あの娘らがコーヒーの味なんてわかるもんか!」
 サンダルフォンの言葉を、満更でもないように否定をするマスターの声にサンダルフォンはつい、笑ってしまった。

〇 〇 〇

 月夜の小さな社交場で、情報交換が行われていた。
 妖精が見える人間の情報や、新たに生まる予定の妖精について、あちこちから集まった妖精たちが、持ち寄った情報を交換しあっている。サンダルフォン自身は真新しい情報を持っていないため、静かに耳を澄ませていた。
「サンくん、久しぶりだね」
 声をかけてきたのは個人主義の妖精の中でも、二人で一人で行動をしているうちの片割れだ。ともに行動をしている、同時に生まれた妖精が稚い性格をしているからか、姉気質の彼女は面倒見がよく、サンダルフォンのことも気にかけている。
 サンルフォンが人間社会に溶け込みアルバイトをしているように、彼女たちも人間社会でスイーツショップを開いているという。サンダルフォンも、その店を知っているような有名な店だった。片割れの彼女は料理が好きだったことを思い出して、納得をする。今日の集会に来ていないのも、店で新たなスイーツづくりに熱中をしているからだというらしい。互いの近況を確認したところで、重々しく、口を開いた。
「最近、妖精が狙われているんだ」
「珍しいことじゃないだろう?」
「……うん。悲しいことだけど、うちらが狙われることは珍しいことじゃない。だけど、今回はちょっと違うんだ。狙われているのは…………茶色の髪をした子ばっかりなんだ」
「それ、は」
「うちもちょっと危なかったけど、どうにか逃げきれてね。逃げるのに夢中だったから、顔とか、特徴とかは覚えてないんだ」
 思い出して、顔色を悪くさせる。
 そういえばとサンダルフォンは、集まっている妖精がいつにもまして少ないことに気づいた。サンダルフォンが知らなかっただけで、知れ渡っていたことなのかもしれない。警戒をして出歩くことを控えているのか、あるいは、被害が多いのか。サンダルフォンは不気味さを感じて、身震いをする。
「多分だけど、ターゲットがいるみたい。きみも警戒をするべきだよ、サンくん」
「ああ、きみも、気を付けてくれ」
 昔馴染みの妖精の警告に、サンダルオフォンは神妙にうなずいた。昔馴染みはサンダルフォンの返事に少しだけ笑顔を見せる。
 比較的、生まれが新しいサンダルフォンは妖精のなかでは末っ子のように扱われている。数が少なくなっているゆえに、仲間意識が強くなっているのかもしれない。
「今度うちらの店においでよ、新作を振舞うからさ」
「なら、俺もコーヒーを淹れる」
「サンくんのコーヒーにあうような、とびっきりの新作で待ってるよ。あ、あとイスの分は甘いのにしてあげて」
 気味の悪い話題から明るい話題に切り替える。
 それから、彼女は別の妖精に件の妖精狩りについて知らせるようだった。
 サンダルフォンは、一房、癖のある茶色の髪を手に取った。
(……「コーヒーをのんだから」)
 幼い友人の悪口もどきを思い出して、少しだけ、笑みをこぼした。

〇 〇 〇

 いつものように、ランチタイムのピークを終えて、落ち着きを取り戻した店内で、サンダルフォンは皿を下げていた。マスターは一服のために裏に引っ込んでいる。ランチタイム後、二時ごろまでは客の出入りは殆どなくなるのだ。その間に、サンダルフォンは賄いを済ませたりしている。
 カラン、となったベルに珍しいと思いながら、条件反射のように声をかける。
「いらしゃいませ」
 振り向いて、目を見開いて動揺を出しかけたのを制して、冷静を装う。内心ではなぜ、どうして、と一人狂乱状態に陥っていた。
「お好きな席にお掛けください」
 サンダルフォンの言葉に、奥まったボックス席を選ぶ青年。さらりと、星明りを帯びたようなプラチナブロンドと怜悧な深いアイスブルーの瞳が視界に入った。
「注文が決まりましたら、および下さい」
 ガラスコップに氷と水を入れて、テーブルに置いて、カウンターから様子をうかがう。気づかれないように注意をしながら、青年を観察してしまう。
 大人になったとはいえ、面影は十分にあった。
(25、くらいになるのか)
 メニューを手に取っている青年は、見間違えることなく、サンダルフォンの友であったルシフェルである。ややあってから、コーヒーを注文した彼に、マスターを裏から呼び出し、淹れたばかりのコーヒーを出す。タブレット端末を手にしながらコーヒーを啜る姿は、妖精の意地悪に困惑をして、悪戯に戸惑っていた姿からかけ離れている。
(大きくなったな)
 友人、という立場の感想じゃないなと自分自身で呆れ半分と苦く思いながら、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
(今は何をしているのだろう。恋人はいるのだろうか、いや……年齢的に結婚をしている可能性もあるのか。もしかしたら、子どもがいるかもしれない。ルシフェルの子どもなら、妖精の俺を、見ることができるかもしれないな)
 意地悪も置いてけぼりに、お節介なことを考えてしまう。
 もう、20年も昔のことだ。幼かったルシフェルはサンダルフォンのことなんて、妖精のことなんて忘れて、記憶の彼方に置いてけぼりになっているだろ。忘れられるなんて、常のことだ。いちいち悲しむこともない。だけど、一方的とはいえ再会をするなんてサンダルフォンにとっては初めてのことだった。
「ご馳走様、とても、美味しかったよ」
「マスターに伝えておきますね」
 コーヒーを飲み終えたルシフェルに声をかけられて、サンダルフォンは嬉しさに仕舞い込んでいる羽を広げて飛び回りたくなるのをぐっと耐えて、店員として対応をした。

〇 〇 〇

 コーヒーが気に入ったのか、ルシフェルは頻繁に店を訪れるようになった。時間帯は、昼を少し過ぎた頃合いで、マスターが休憩に一服するために裏に入り、サンダルフォン一人で店を回す時間帯だ。ランチタイムはマスターが厨房に入り、サンダルフォンがホールと担当が決まっているが、ランチタイムを過ぎるとサンダルフォンが厨房に立つこともある。コーヒーを淹れることも増えつつある。マスターは太鼓判を押しているものの、サンダルフォンはまだ自信を持てていない。
 ルシフェルはサンダルフォンが淹れるコーヒーを最もよく飲んでいる。そのためか、店員と客という立場だけではなく、話すことも多々ある。
 実年齢は兎も角として、学生のような外見年齢の立場と社会人であるルシフェルは、共通の話題であるコーヒーを通して、年の離れた友人として、親しくなっていた。
 穏やかな時間が流れる。マスターが趣味で流しているジャズを聞きながら、サンダルフォンは積み重なった皿を洗っていく。カウンターではルシフェルがコーヒーを飲みながら、タブレットを触れている。いつも、タブレットを持ち歩いている。時折、難しい顔をして画面を操作しているから、仕事で使用しているのだろうとサンダルフォンは思っている。
 以前は奥のボックス席を利用していたルシフェルだったが、今ではカウンター席を好んでいる。好んでいる、というよりもサンダルフォンと話すためには都合が良いのだ。
 不意に、ルシフェルが顔をあげる。
「以前、きみが言っていたコーヒーを知り合いから貰ったんだが、私はコーヒーの淹れ方がよく、わからなくてね。もしよかったら、貰ってくれないか?」
 サンダルフォンは目を瞬かせる。
 話題にしたのは随分と前のことであるし、何より話題にしたコーヒーというのは高級品として有名なものだった。
 慌てて、手についた泡も気に留めもせずに否定をする。
「貰えませんよ!」
 そのコーヒー一杯で、サンダルフォンの一日の働きほどの値段であるのだ。
 サンダルフォンが断ると、ルシフェルは眉を下げる。
「そうか……」
 あからさまに、しょぼくれる様子だった。
「なら、サンダルフォンが淹れてやればいいじゃないか」
「何を言ってるんですか」
 裏口から戻ってきたマスターは丁度、会話を耳にした様子だった。なんてことないように、他人事のような提案にサンダルフォンはあきれ顔で応える。ちらりと、ルシフェルの様子を見ると、きらきらと期待をしているのがわかる。サンダルフォンはため息をつきかけたのを、ぐっと耐えた。
 自分が淹れるよりも、腕の確かなマスターが淹れたほうがいいだろうと提案をしようとしたが、
「ちなみにうちは持ち込み不可だからな」
 言葉にすることなく否定をされて、どうしたものかと途方に暮れる。
「…………サンダルフォン」
「っわかりました! だから、そんな顔で見ないでください!!」
「そんな顔、とは……?」
 さっぱりと、わかっていないルシフェルは首をかしげている。
 嬉しさを隠し切れない様子のルシフェルの笑顔にサンダルフォンは目を細める。ルシフェルが提示をした日は、シフトの入っていない日だった。

〇 〇 〇

「そういえばー、最近は妖精狩りのお話、聞かないねえ」
 片割れはのんびりとした口調でシビアな話題を口にした。
 カシャカシャと混ぜているカスタードクリームは試作中のシュークリーム用のものだ。サンちゃんのコーヒーにあうような、とびっきりを作るのだと意気込む片割れに付き合って散々と試食をされている。甘いものは嫌いではない。片割れのつくるものは美味しいと思えるが、中々の数にさすがに胃もたれを覚える。
 警告をした彼を思い出す。茶色の髪色をした妖精は多くはない。妖精は煌びやかな容姿が多い。今まで狙われてきたのは、煌びやかな彼らであった。片割れも煌びやかな容姿をしているから、逃げ回ってきた。まさか自分が狙われるなんて、思いもしなかった。
「飽きたのかなあ」
「そうだったら、良いんだけどね……」
 どうにも不穏に思うのだ。嵐の前の静けさのような、不気味さを感じた。

〇 〇 〇

 約束の日に、勤めている喫茶店からほど近い駅前で待ち合わせる。サンダルフォンは指定の時間よりも余裕をもってきたのだが、ルシフェルのほうが早かったらしい。サンダルフォンに気づいたルシフェルは話しかけている女性を振り払うとサンダルフォンの手を取って足早にその場を去る。
 サンダルフォンはきょとりとして、なすがままになってしまった。
 掴まれた手がじんわりと熱を持っている。
 暫くして立ち止まったルシフェルが申し訳なさそうな顔をして口を開いた。
「待ち合わせをしているといっても、その、」
「しつこかったんですか?」
「……ああ、いつもは仕事中だと言うと諦めてくれるんだが……きみとの約束に浮かれていて、つい、待ち合わせをしているのだと言ってしまった」
 照れたように言うルシフェルに、サンダルフォンは仕方ないなあと思わず笑ってしまう。
 連れられたのはサンダルフォンも覚えのある家だった。ルシフェルは実家暮らしであるらしい。話をしていた限りでは、一人暮らしのようだったから、あの夫婦は亡くなったのだろうかと不安に思ったが、健在で、海外で暮らしているという。
 懐かしい気配に、気が緩みそうになる。
「これだよ」
 ルシフェルが袋を取り出す。最高級ともいえる品種のコーヒー豆である。サンダルフォンがおいそれと手軽になんて、とてもではないが手が出せるようなものではない。それを、貰ったというのだから、ルシフェルの交友関係はどうなっているのだろうと下世話な考えを、振り払う。
「……マスターに淹れてもらったほうが、絶対に美味しいと思うぞ?」
「きみが淹れてくれたものが飲みたいんだ」
「…………後悔しても知らないからな」
 寄せられる期待を嬉しく思いながら、逸る気持ちを抑えて、コーヒー豆の入った袋を受け取る。器具は用意しているといわれた通りだった。そして、ルシフェルも普段から自分でコーヒーを淹れているのだろうと、用意された器具で分かる。日常的に淹れる人間が、使い込んでいる。なぜ、わざわざ俺に頼むのだろうかと疑問を抱いたが、コーヒーを前にすると浮足立って、些事に思えた。
 注いだコーヒーを手に取ったルシフェルを前にして、店で出す時以上の緊張に見舞われる。心臓が口から飛び出しそうだった。
「うん。おいしいよ」
「本当か?」
「嘘なんてついても仕方ないだろう?」
「……ルシフェルは、優しいから」
 サンダルフォンなりに、いつにもまして丁寧に淹れたコーヒーだった。にこりと笑ったルシフェルに、サンダルフォンは憎まれ口を叩きながら胸をなでおろして、自分で確かめる。
(問題は、ないな)
 すっかり、気が緩んでいた。
 懐かしい家の気配。好んでいるコーヒー。友人である、ルシフェル。にこにことしているルシフェルに、サンダルフォンの張りつめていた緊張がぷつり、ぷつりと切れていく。
 ルシフェルの切り出す言葉を耳にするまで。
「昔、妖精が見えたんだ」
 内緒話のように、懐かしみながら言うルシフェルに、サンダルフォンは口に含んでいたコーヒーをふき出しそうなる。なんとか、耐えて、咽り掛けたのを誤魔化すように咳をする。
「大丈夫かい?」
「あ、ああ。大丈夫だ、それで、妖精だったか? あんたが口にするには随分とメルヘンだな」
 ルシフェルがうっすらと笑みを浮かべる。
「友人、というものが出来なかった私にとって、唯一の友であり、唯一の理解者だった。悪戯好きでね、いろいろなものを隠されてしまった。意地悪なところもあったけれど、優しいところもしっている。彼からは色んなものを貰ったんだ。面と向かって、ありがとうと言えなかったし、言わせてくれなかったけれど、今でも、私の宝物なんだ。兄のような、弟のような大切な、友人だった。あの子といるときだけ、私は、ただの子どもだったんだ。期待もされない。親に叱られる。当たり前の、子どもでいられたんだ。あの子がいてくれたら、私は、私のままでいられたのに。なのに、あの子は私の前から姿を消してしまった」
 ぞっと背筋に冷たいものが走った。
「これは、ひどい、裏切りではないだろうか……サンダルフォン」
 気づいていたのだ。わかっていたのだ。ルシフェルという友人が、怪物のように思えて、おそろしくなった。サンダルフォンは、立ち上がり、逃げ出そうとした。けれど、ルシフェルに押さえつけられる。柔らかな白いカーペットに、押し倒される。手首を、強い力で抑え込まれた。
「いたい!」
 思わず、声を上げるとルシフェルははっとしたような顔で、力を緩めた。けれど、手を離すことはなかった。謝罪も口にしない。子どものように、叱られれたように、しょぼくれている。
 だから、サンダルフォンは非難も口にできなかった。
「もういちど、キミに会いたかったんだ。キミのことを、ずっと、探し続けていた。茶色い髪色の妖精を、ずっとずっと、探し続けていた」
 茶色い髪色の、妖精。すっと、頭が冷えていく。昔馴染みの警告を思い出す。早とちりだと、こじつけだと、思いながら一瞬だけ、浮かび上がった想像を、肯定される。
「キミが、私のそばにいてくれるなら、二度と、離れないと約束してくれるなら、妖精狩りなんてしない」
 その言葉を聞きたくなかった。
 サンダルフォンの顔が、くしゃりとゆがむ。
 あの優しい子どもが、嘘をつくことのできない、悪口も言えない良い子が、おぞましいことをしていたなんて、知りたくなかった。
「信頼なんて、出来ないだろうか」
 サンダルフォンはルシフェルを見上げる。
 逆光で、どのような表情をしているのか、わからない。ルシフェルはサンダルフォンのことを捕まえているのに、縋り付くような声だった。
「仕方ないと、わかっているんだ。きみが、私をおそろしいと思っても。だけど、キミがいなくなって、私は、ひとりぼっちになってしまった」
 何も言えなくなった。サンダルフォンの身の内から湧き上がるものは恐怖だけではない。憎悪ではない。罪悪感だった。
 妖精とかかわったばかりに、くるってしまったのだ。
「……本当に、もう、仲間を襲わないんだな」
「キミが約束をしてくれるなら」
 受け入れるしか、ないじゃないかとサンダルフォンは仕方なく、泣きそうな顔で、笑う。
「…………わかった。きみは、大人になったのに、子どもの時よりも、子どもみたいだ」
 呆れながらいうサンダルフォンの首筋に、ルシフェルが顔をうずめる。
 サンダルフォンはルシフェルと、それから巻き込んでしまった、妖精狩りへおびえている、被害にあった同胞たちへの申し訳なさを抱きながら、ルシフェルを、拒絶することができない。

〇 〇 〇

 ルシフェルは安寧を、取り戻した。
 喫茶店で見かけた姿にまさかと思いながら、何ら反応を見せないサンダルフォンに寂しさを覚えながら、接するにつれて、親しくなるにつれて間違えではないのだと、彼は、彼であったのだと確信をえた。
 サンダルフォンを追いかけ続けていた。
 茶色い髪をした妖精、という情報だけを頼りに手探りだった。
「サンダルフォン、私のそばにいてくれるなら、居続けてくれるなら、同胞なんて、気に掛けることはないだろ?」
 あの美しく優しい妖精の心を占めるのは、自分だけでいい。
 悲しみも、喜びも、全てが自分であってほしいだなんて、傲慢。
「私は、良い子ではないね」
 ルシフェルは肩に付着していた半透明の羽を払いのけた。虫の羽ではない。煌びやかな、妖精の羽。もはや無差別の狩りだった。妖精であることが、許されない。
 この地区の妖精のコミュニティは崩壊したといってもいいだろう。妖精狩りを恐れて別の地区に移動をしている。サンダルフォンは、何も知らない。家でひとり、ルシフェルを待ち続けているサンダルフォン。
 ルシフェルという檻に囚われ、目を閉ざされ、耳をふさがれて、しまい込まれている。
 もう、逃げ出すことなんて、出来ない。

2019/07/17
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