ピリオド

  • since 12/06/19
 人どころか獣も踏み入れることのない、忌避する、本能が拒絶する、昼間でも薄暗くじめじめとした森の奥深くに、ぽつんと小さな家があった。小屋と見間違えるような小ささである。朽ち果てる寸前のようにおんぼろで、見るからに脆く、、蔦があちこちに巻き付いている。カアカアと臆することの無い鳥の鳴き声がよく似合う、まさしく、魔女の家と呼ぶに相応しい不気味さが醸し出されている。住人であり、家主はまさしく魔女であるのだから、当然のような出で立ちであった。
 魔女と呼ばれる青年と三人の子どもたちが暮らしている。四人で暮らすにはとても、狭いように思える家だが、一歩、室内に踏み入れれば広々としており、部屋も幾つも増えて、不必要と思えば減っていく。魔女の魔法によって生きている家だった。外観と異なる清潔感溢れる部屋は家を取り囲む、おどろおどろしい森の雰囲気とは正反対である。魔女の指先一つで変わる壁紙。ふかふかのソファがあるリビング。使いやすいようにと整頓されたキッチン。丸い食卓のあるダイニングルーム。のびのびと脚を伸ばせるバスタブのあるバスルーム。膨大な蔵書を納める書庫。貴族の屋敷と遜色変わらぬ膨大な部屋が、子どもたちのために、生まれていた。
 魔女の子どもたち。麗しい、三兄弟。魔女が慈しむ、愛惜しむ、愛する息子たち。
 鳶色の髪に柘榴の色をした瞳の魔女とは異なる、プラチナブロンドにサファイアの瞳を持つ三兄弟。顔立ちも似ても似つかない。
 関係を現すならば、「義理」という言葉が付く、親子である。

○ ● ○


 太陽の光を木々が遮り薄暗く、寒々しい外に反して部屋は常に快適さを保っている。
「お前たちも年頃だろう? 街で生活をするほうが、良いんじゃないか?」
 手にした白磁のカップは三兄弟からプレゼントされたものだ。三兄弟を育てて六年ほどだったとある日に、手渡された。サンダルフォンが知らぬところで、街へ行っては薬草を売って、こっそりと小銭を稼いでいたのだ。街に勝手に行ったことを怒らねばならなかった。危ないだろうと、叱らなければならなかった。けれど、幼いとばかり思っていた三兄弟が自分たちの意思で行動をしたことが彼らの成長を感じて嬉しいやらで、サンダルフォンは酷く戸惑った。
 サンダルフォンの数少ない宝物として十年以上経った今でも愛用している。不思議なことに、何の魔法も掛けられていないのに、プレゼントされたカップで飲むものは一等に美味しく思えるのだ。
 香ばしい珈琲を啜り、それからカップを丁寧にそっとソーサーに置いて、サンダルフォンは何度目か分からない疑問を口にした。
「そんなこと、お前に決められる筋合いはない」
 ふん、とぶっきら棒にぴしゃりと言ったのはルシファーだった。視線すらサンダルフォンに向けることもなく、手元の書物に向けられていた。その書物も、元々はサンダルフォンのものである。サンダルフォンはルシファーの態度にちょっとだけ、むっとなる。親なのだから、子どものことを心配するのは当然である、と思ったことを口にするのは、どうにも、押し付けがましく、口に出来ない。物心ついた時から反抗期まっしぐらのルシファーに口喧嘩なんて売ったところで勝ち目はない。幼い頃はまだ体格の差もありサンダルフォンが有利であったが(それでもルシファーは決して自分の主張を曲げることはしなかった)叱られて涙目になっても尚ぐっと唇をかみしめる姿は子どもながらなんて頑固なのだと呆れたものだ。今となってはルシファーの方が、体格は有利である。三兄弟の中では小柄であったルシファーにすら体格を越えられたサンダルフォンは、成長を終えた自身の肉体を恨めしく思った。
 サンダルフォンは、ルシファーこそ、街で暮らすべきではないかと考えていた。ルシファーは探究心が強い。長く生きたサンダルフォンも答えかねるようなことを考える。思いつく。それは、こんな小さな世界で終わらせるには勿体無い才能であった。街に行けば、教育機関に通えば、彼の満足する、納得のいくような研究が出来る、成果を得られるだろうと、つい、考えてしまう。
「そうですよ、それに私たちがいないと困るでしょう?」
 にこにこと笑いかけてくるルシオに、サンダルフォンは湧き上がっていた苛立ちが、失せてしまう。困ること、なんてない。サンダルフォンの生きてきた歳月に比べれば、三兄弟と過ごした歳月なんて微々たるものでしかない。ただすこし寂しくて、悲しくて、つまらないと思ってしまう程度だ。そもそも、今だって三兄弟は自分たちでは何も出来ない。料理も出来ない。掃除もできない。洗濯もできない。サンダルフォンがついつい、甘やかした所為でもある。美味しいものを食べさせてやりたい。汚いものには触れさせたくない。衛生環境は整えなければ病気になってしまう。サンダルフォンが甘やかした所為で彼らはすっかり箱入り息子である。
「きみは、私たちに出て行ってほしいのか……?」
 ひどくショックを受けたような悲愴な声音で、傍目からは分からないが、今にも泣きそうな顔で、ルシフェルが茫然としたように呟くものだから、サンダルフォンは慌ててそうじゃない! と否定をする。サンダルフォンの言葉にルシフェルがそうかと、笑みを浮かべて珈琲を口にする。美味しいよ。そういってニコニコとするから、サンダルフォンはがっくしと項垂れる。幼い頃から成長を傍らで見守り、育ててきたために麗しさに惑わされることはない。美しさに魅了されることはない。ただし、悲しい顔だけは苦手だ。ついつい、甘やかしてしまう。
「……こんな森で、毎日同じことの繰り返しなんて、退屈だろう?」
「退屈だなんて思ったことはありませんよ」
「それは、この生活がお前たちにとって当たり前になってるからだろう? 比較も出来ない。何より勿体ないだろう? 有限の時間を、無為に使うだなんて」
「サンダルフォンがいるのだから、無為だなんて思ったことはないよ」
「いや、そういうことじゃなくてな?」
 サンダルフォンの懸念を、ルシオとルシフェルが悉く否定をする。
 微笑を浮かべるルシフェルに、変わらずにこやかなルシオ。二人は嫌味で言っているのではないし、ルシファーのように反抗期だからと否定をしているのではない。本当に、心から思ったことを口にしているのだろう。サンダルフォンは言葉尻をとらえようとするも、見つからず、何を言うべきか迷い、嘆息をする。
「……なんでもないよ」
 今日も説得が出来なかったと不甲斐無い自分自身に嫌気をさしながらテーブルに置いていたカップを手に取った。少し温くなったが、それでも美味しいと思える好ましい苦味が口に広がる。ほっと、落ち着きを取り戻し、カップを戻そうとしたところで、ふと、力が抜けた。しまったと思った頃にはガシャンと、破片が飛び散る。
「ッた」
 飛び散った破片がサンダルフォンの指先を裂いた。といってもごく小さな傷だ。ぷっくらと血の珠が皮膚に浮かぶ。慌てて傷口を抑えて、それから空いた手でパチンと指を鳴らす。たちまち毛足の長い若葉色のカーペットにしみこんでいた黒い染みも、飛び散った破片も、元通り。指先には傷なんて、最初から無かったように消えている。
「お前たちには飛び散っていないか!? 怪我はしてないか!?」
 問題ないと言ったのは、ルシファーだった。サンダルフォンはほっと胸をなでおろして、元通りになったカップを手にして安堵の吐息を吐き出した。
 サンダルフォンは怪我を恐れる、というよりも血が流れることを恐れる。痛みが恐ろしいのではない。ただ、その血液が三兄弟にとって有害であるからだ。
 幼い三兄弟の前でサンダルフォンが初めて血を流した。といっても小さな怪我だ。薔薇の棘がサンダルフォンの指先にぷつりと刺さったのだ。サンダルフォンは気にした様子はなくて、たまたま近くにいたルシフェルがその手を取った。
(舐めると、治る)
 ぼんやりとした知識を思い出して、指先を舐めようとしたルシフェルを、サンダルフォンは慌てて制止した。やめろ!とサンダルフォンの悲鳴交じりの声にびくりと肩を震わせたルシフェルと、それから何事かと不安そうな顔をするルシオと、顔をこわばらせたルシファーに、サンダルフォンははっと、取り繕う様にルシフェルに声を掛けた。
「それは間違った医療行為だ。怪我をしたときは水で洗い流すんだ。血液なんて、雑菌だらけだからな」
「サンダルフォンは綺麗だよ」
「そういうことじゃなくてな、うん……とにかく、そういうことはしてはだめだ。血液を舐める、なんて絶対に。良いな。お前たちもだぞ」
 二人にもを強く言いつける。ルシオははいといい子の返事をして、ルシファーはちょっと考えてからわかったと言う。
「怒鳴ってごめんな、ルシフェル。お前が心配してくれたのはわかってる。ありがとうな」
「……うん」
「私たちも心配しました!」
「わかってる。ありがとうな、ルシファーも」
ぷいっとそっぽを向くルシファーの頬をつっついてサンダルフォンはほっと安堵したのだ。そんな、遠い過去を思い出す。

○ ● ○


 サンダルフォンが縄張りである鬱蒼と木々が生い茂る森を彷徨う三人を拾ったのは十年ほど昔のことだ。太陽の光も届かない、薄暗い森の中でも輝く銀の髪に鮮やかな蒼い瞳の子どもたちは、薄汚れて弱々しかった。サンダルフォンが最初に声を掛けたのは、あるいは、掛けられたのはいったい誰であったのかは今でも分からない。今でこそ性格や口調、体格の違いによって見間違えることのない三人だが、当時の、幼い彼らは複製されたように何もかもが同じであった。彼らはぼんやりと生きていた。生きようと、していた。
 サンダルフォンは彼らの素性を知らない。
 上等な生地の衣類を纏っていたことや、衰弱しぼろぼろになっても品よく、礼儀正しく、教養が窺えた。上級階級の子どもであるのだろうということは分かったが、なぜ森を彷徨っていたのかは分からなかった。人攫いに目をつけられ、あるいはその手から逃げ出したのだろうか。もしくは、考えたくもないが口減らしのために捨てられ、売られたのだろうか。当時は、サンダルフォンは他人事と興味すら抱かなかったが、サンダルフォンの縄張りであり不可侵の領域である森が隣接する王国ではクーデーターが起こっていた。上級階級といえども、食い扶持に頭を抱えるような悲惨な時代であった。
 サンダルフォンは三つ子を見下ろして、どうしたものかと困り果てた。
「……俺のところにくるか?」
 言葉を発した自分自身に、サンダルフォンは何を言っているのだと、息を呑んだ。だがまあ、こんな森で出会った怪しい男の言葉に頷くとは思えなかった。子どもたちはぼんやりとした瞳で、何を考えているのか分からない視線で、サンダルフォンの灰色のローブを掴んだ。振り解けるようなか細い力にサンダルフォンは目を細めた。小さな手は、懸命、精一杯の、か細い力でローブを離さない。サンダルフォンは膝をついて視線を合わせる。じっとりとした湿った土が膝を汚す。手を伸ばせば、子どもたちは嫌がる素振りも怯えるそぶりも見せない。小さな体を抱き寄せた。やせっぽっちの、骨に皮がはりついているだけのような体であった。
「あんまり、美味しそうじゃないな」
「おいしくなったら、たべるのか」
「……お前たちは、食べないよ」
 約束をした。魔女の約束は契約である。サンダルフォンは決して三兄弟を害することはない。元よりサンダルフォンは異端の魔女だ。当初から、子どもたちを傷付けるつもりはなかった。彼らが望むのであれば記憶を少しばかり弄って、安全な場所に送り届けてやろうかと考えていた。だが彼らはサンダルフォンの元を離れる素振りはない。
 身内贔屓も混じっているが、年頃である彼らは麗しい容姿をしている。三人ともが人目を惹きつける。三人ともか、カリスマ性を持っている。それは薄暗くじめじめとした森で燻らせるものではない。悶々としながら、花瓶の薔薇に手を伸ばす。サンダルフォンが手に触れた薔薇がしおしおと萎びれて、朽ちて、さらさらと砂のように零れていく。パチンと指を鳴らせばその砂も跡形もなく消え去る。サンダルフォンは少しだけ満たされた気持ちになり、また、頭を悩ませる。
 サンダルフォンは魔女である。彼らは人間である。彼らは成長する。彼らは老いる。彼らは置いていく。サンダルフォンは三人が嫌いなのではない。疎ましいのではない。愛している。サンダルフォンなりに、慈しんできた。家族として、息子として、掛け替えのない存在である。だからこそ、彼らの幸福が自分と共にあることではないと理解をしている。どうあっても、人と、魔女は相容れない。共に生きることなんて、出来やしない。望めない、望まない、望んではならない。

○ ● ○


「今日は街に行くんじゃなかったのか?」
 サンダルフォンははっと、時計を確認すれば正午に近い。慌てて、灰色のローブを手繰り寄せたサンダルフォンに、不満そうに呟いたのはルシオだった。
「またそれをつけるんですか」
「仕方ないだろう」
 サンダルフォンは灰色のローブを深く被る。それからぽとぽとと目薬をさす。眼球に染みこむちくちくとした痛みに思わず眉間にしわがよる。暫くして、パチパチと瞬きを繰り返せば真紅の瞳は凡庸な黒目に変化している。
 赤い眼を、人は畏怖する。異物は恐怖である。故に、排除しようとする。サンダルフォンは好き好んで人を害する趣味はなく、それどろか人間への興味もない。人間に害されたところでサンダルフォンは傷つかない。だが自分に向けられる敵意がそのままに子どもたちに向けられることは避けたかった。
 人間への脅威である魔性の存在と契約をする魔女の証である赤い眼。
 多くの魔族は自力で顕現をすることは出来ない。魔女という繋ぎを得て肉体を地上世界で顕現することができる。血の契約。そして魔女は恩恵として魔の力を使役するのだ。故に魔女は人間社会において裏切り者であり、その証左である赤い眼を持つものは排斥される。
 サンダルフォン自身は特殊な生まれであり契約をした存在はいないが、それでも魔女であることに変わりはない。この世の理から離れた魔法を使う存在である。
 街は好ましくはないが、いずれ人の世界に戻さなければならない子どもたちには触れさせなければならない。
「あの街なら私たちだけでも行けるが……」
「何を言ってるんだ、危ないだろう」
 ルシフェルは曖昧な表情を浮かべてもごもごとしてから、言葉を飲みこんだ。三兄弟は正確な年齢は不明であるが、とっくに子どもと括られる年頃ではない。青年として扱われる年頃である。けれどサンダルフォンにとっては何時まで経っても子どもでしかない。
「ルシファーは……、行かないか……」
 分かり切ったことであるようにルシファーは準備も何もしていない。二人掛けのソファを我が物顔で占領しているルシファーにサンダルフォンは苦い笑いを浮かべて行ってくるよと声を掛けた。その後ろをルシフェルとルシオが付いて回っている。犬のようだなとぼんやりとその姿を見送ったルシファーは、再び、手元に視線を落とした。
「行ってくる、ルシファー、来ないと思うが誰かが来ても開けるなよ」
「分かってる」
 口酸っぱく言うサンダルフォンに呆れる。
 サンダルフォンは事ある毎に、しきりに、街で暮らさないかと持ちかける。そこに、サンダルフォンはいない。サンダルフォンは自らと引き離そうとしている。サンダルフォンが打ち明けたわけではないが、三兄弟は気付いている。察している。理解している。確信をしている。
 サンダルフォンが魔女であると同時に、魔性の存在との混血であるということを、知っている。故に、人間である自分たちを引き離そうとしているのだろうが、ルシファーにすればその程度で捨てられてたまるものかと不愉快でしかない。ルシファーはサンダルフォンから離れるつもりはない。ルシフェルやルシオも同じである。言葉にしなくとも共通認識が三人にはあった。

○ ● ○


 街に着いた頃には正午を回っていた。何処かで昼食をとろうかと、振り返ったサンダルフォンだったが其処にルシフェルとルシオはいなかった。だが、見つけることは容易であった。女性たちに取り囲まれてキャアキャアと声を掛けられている。お茶をしませんか。ご兄弟ですか。これから何処に行かれるんですか。そんな二人からそっと離れる。壁に背中を預けたサンダルフォンは鼻高々に様子を見守る位置につく。背丈を越されようが、低い声になろうが、彼らはサンダルフォンにとって手のかかる子どもだ。だけど大人であるとも、分かっているのだ。しかし、どうしてもつい、手を出してしまう。いけないなと思いながら、つい、子ども扱いが抜け切れない。世の親というのはどう折り合いをつけているのかと、つい、考えてしまう。
 サンダルフォンは母と言う存在に育てられたことはない。父という存在を追いかけたことはない。孤独に生きてきた。親、というものがどのような思考回路であるのか、子に対してどのように接するのか、正解を教授されたことはない。正しい育児も書物からの知識だけで、見よう見まねで、手さぐりの十数年であった。
 だが惰性で生きていた百年に比べるとあっという間の密度の濃い十数年であった。
 彼らと出会う前はどのように生活をしていたのだろうかと、ぼんやりと思い返す。起きてぼんやりと本を読んでそれからまた眠る。その繰り返しで、時々、森の結界を張り直すという作業が挟まるだけの変わり映えのしない、つまらない、生きながらに死んだような生活であった。
「サンダルフォン、どうして助けてくれないんですか」
「なんだ、断ったのか?」
 誘いを全て断って、女性たち(よく見ればその中には同性も含まれていた)(彼らは性を問わずに魅力的であるらしい)を振り解いてきたルシオとルシフェルはやや疲れが見える。街に来る頻度を増やしたとはいえ他人と関わることのない生活だったから、人慣れしていないのだ。
 嫌味を言ったつもりはないし、サンダルフォンは彼らの行動を制限するつもりもない。年頃であるのだから異性に興味はないのだろうかと下世話なことを考えてしまい、思考が異父兄に重なった気分になって、サンダルフォンは勝手に気分が悪くなる。
「別に遊んできても良いんだぞ」
「きみと一緒にいることのほうが楽しいよ」
 すっかり見下ろされる身長差に不満を覚えながらも、それでも可愛いと思ってしまう。親心である。それからつい、子ども扱いをしてしまう。無意識に手をつないでしまう。サンダルフォンを真ん中にして、右手をルシオが、左手をルシフェルがとる。二人は手をつなぐことを、恥ずかしいなんて思うことはない。笑みを零してしまう。にこにこと笑いながら、繋がれた手をぎゅっと、握りしめる。幼い頃は大きいとすら思っていた手は、今ではか細く、華奢であった。けれど変わることのないものがある。
 サンダルフォンの手は酷く冷たい。
 熱を、分けられないだろうか。痛みは、無いのだろうか。幼い頃は酷く不安になった。サンダルフォンは不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。

○ ● ○


 街は疲れる。俺も年だなとサンダルフォンは自室でしみじみと実感をする。街にいたのは二時間程度だ。食材や、ちょっとした生活雑貨をまとめ買いをした。帰宅した頃にはサンダルフォン一人がふらふらでルシフェルもルシオもけろりとしていた。その様子を思い出してまた、息を吐き出す。
 サンダルフォンの部屋は寝台とあちこちに花が飾られている。花瓶も多いが、趣味として、花を好んでいるという訳ではない。つまみ食いようだ。子どもたちが幼いときには一緒に寝ていた。その当時は、部屋も一般的には子どもが好むという明るい色にして、寝台も大きくしていたが、彼らが一人で眠れると主張する年頃になると寂しく思いながらも、それが人の成長であると喜ばしく思って部屋をこしらえた。
 長年使い込んでいる寝台は落ち着くものがある。
 サンダルフォンは忌子である。
 魔女と、契約をしていた魔性の存在の混血子である。本来は使い魔であり、支配下に置くべき存在である魔性の存在が魔女との間に成した子どもがサンダルフォンである。魔女として、恥ずべき使い魔との子ども。屈辱の証でしかない。魔女社会の中にサンダルフォンの居場所はない。そして魔性の存在としても受け入れられない。人間の社会でなんて、生きられるわけがない。サンダルフォンは何処にも居場所がない、異物であった。
 魔の者としては赤子扱いとはいえ百年余りを独りで生きていた。生きていくつもりであった。
「サンディ、そろそろ諦めたらどうだ?」
 自身とよく似たけれど圧倒的な純度の高い魔の者である異父兄は気まぐれにサンダルフォンに声を掛ける稀有な存在だった。
「お前の中の母さんの血は抑えきれるもんじゃない」
 異父兄はサンダルフォンを心配しているのではない。案じているのではない。彼にとって、サンダルフォンは退屈を紛らわす玩具でしかない。
 サンダルフォンがお前たちとは違う、俺は魔性の存在なんかじゃないと足掻く姿に愉悦を抱き観劇しているに過ぎない。サンダルフォンはどろどろと行き場の無い不愉快な感情を胸に押しこめる。この男に何を言ったところで無駄だと分かっている。この男に刃向ったところで、苛立ちをぶつけたところで無意味であると知っている。だからこそ、どうにもならない感情がまどろっこしく、忌々しい。
 サンダルフォンは、愛を知らない。家族を知らない。友を知らない。何も、知らない。
 物心つく前に、産まれて間もなく捨てられた。魔女である親はサンダルフォンの存在を忌々しく捨て去った。魔の者である親にとってサンダルフォンは興味の無い存在であった。サンダルフォンも期待なんて抱くことはない。知っているのだ。
 家族だから、血の分けた子どもだからと慈しむ理由はない。魔性の存在に、そのような習性はないのだ。愛なんて都合のよいスパイスでしかない。求めることはない。
 半端ものとはいえ幼いサンダルフォンが生きながらえることが出来たのは悪運に恵まれていたのだ。不運が続いても死ぬかもしれないと度々思うことはあっても、覚悟をしても、決定的な死は回避できた。そして、独りで生きていく決意をして百年余り経ったある日、三兄弟に出会った。
 サンダルフォンは、善人ではない。
 サンダルフォンは、憐れんだのではない。
 サンダルフォンは、ただ、証明をしたかった。
 三兄弟たちが飲食を必要とするから、娯楽として共に食卓に着くこともある。三兄弟を街へ連れていっていくうちに珈琲というものを知って、好むようになっている。だがそれらはエネルギーにならない。
 サンダルフォンの肉体は人間のように飲食を必要としない。飲食をしたところで栄養素を吸収すること出来ない。サンダルフォンが肉体を維持するには、生命を長らえさせるには精気が必要だ。もしくは、もう一つの方法がある。精気を得るよりも確実性はあるがサンダルフォンはそれだけは絶対に選択をしない。細々と、家に巻き付いている薔薇から精気を得る。最も、近頃は限界であると、サンダルフォンも気付いている。
「随分と弱っているじゃないか」
 異父兄にとってサンダルフォンの張る結界なんて脅威にもならない。
 するりと最初からそこにいたように、彼はにたにたと笑みを浮かべている。
「……アイツ等を餌にするつもりは本当に無いんだな」
 それまで無視を決め込んでいたサンダルフォンだったが、その言葉だけは聞き捨てならなかった。きっと、異父兄を睨む。サンダルフォンの怒りにゆらゆらと揺れる真紅に、異父兄は肩を竦める。
「俺だってタイセツな弟が心配なんだよ」
「嘘が下手になったな、ベリアル」
 くくくとベリアルが笑う。
 母は同じであるが、ベリアルの父は高位の存在である。ベリアルとて魔族として家族愛なんて理解できないし興味もない。サンダルフォンよりも興味深い存在があればそちらへ夢中になる。その程度の情である。情でもない。
 ぱっと黒いシャツが視界いっぱいに広がる。甘ったるい香りで、頭がくらくらとする。サンダルフォンは酩酊したように、ふらついて、ベリアルにしがみ付くしかない。
「ほら、口を開けなサンディ」
 不服であるが、致し方無い。
 決して、初めてではない。恥じらうこともない。
 流れ込む。喉が潤う。焼ける。体の奥底がじんと熱を持つ。満たされる。熱い。
 そういえば、空腹であったのだと、ぼんやりと霞む思考で思い出した。
 口の中を這うベリアルの舌は生き物のようだった。合意であるとはいえ、不快である。だがもっと欲しいと、貪欲に、強欲に、湧き上がる。縋りつくように、ベリアルの舌を追いかける。ベリアルは目元を染めて、夢中になる異父弟の様子が愉快でならない。それから、よくもまあこんな状態になるまで飢餓に耐えていたものだと、呆れ半分と驚き半分であった。
 ベリアルはしがみ付いているサンダルフォンの細い腰に腕を回す。
 サンダルフォンは気に留めた様子もない。素振りも見せない。

○ ● ○


「何をしている」
「ザンネン、時間切れだよサンディ」
 銀の糸が唇を繋げている。サンダルフォンは名残惜しむようにぼうっとしているから、背後からの刺すような殺気に気付いていない。殺気を向けられているベリアルはやれやれと言わんばかりに、サンダルフォンの口の端に垂れていた唾液を指先で拭いとる。羽を広げる。狭い室内をいっぱいに広がる羽。ふらふらとしていたサンダルフォンはよろめいて、倒れかけたのをルシオが抱き留めた。
「君たちのパパの恩人だろう、俺は?」
 三人とて、サンダルフォンの衰弱には気づいていた。何でもないように、何時もと変わらないように振る舞うサンダルフォンだったが顔は青白くふらふらとしていた。
「キミたちだって間抜けじゃないんだから、気付いているだろう?」
 ルシファーは奥歯を噛みしめる。言われるまでもない。
「花の精気なんてちっぽけもので凌げるなんて精々百年程度さ」
 ルシオは大事に、サンダルフォンを抱きしめる。細く、小さい。
「それで、きみたちはどうするんだ? 大好きなパパとこのままお別れで良いのかい?」
 ルシフェルはじっとベリアルを見据えた。その目が細まった。
 三人は何も言わない。言えない。言うべき言葉が見つからない。お別れなんてするつもちはない。けれど、人でありたいと、人であろうと、人のように、振る舞おうとするサンダルフォンはあまりにも憐れでならない。その姿を傍で見てきた。その姿は美しく、悲しい。
 サンダルフォンは何も言わない。語らない。サンダルフォンから聞いたことはない。言われたことはない。魔女であることを隠すことはないが、その身の上を、混血であることを知ったのは偶然であった。サンダルフォンが隠すことを暴いたのではない。ただ、偶然、サンダルフォンの行動が、点と点を繋げて、真実を知った。だからとって、サンダルフォンを恐ろしいとおもうことはない。怒ったサンダルフォンは怖いが、その程度のことで出生如きで、サンダルフォンへの思慕は変わることはない。
「そこで君たちに耳よりの情報だ」
 ニイと口元を歪め赤い眼を細める男の、悪魔と呼ぶに相応しい誘惑。
「なに、簡単なことだ。きみたちがサンダルフォンを使役すればいいだけのことだ。それだけのことだ。サンダルフォンは魔女として振る舞おうが半分は俺と同じだ。それに、きみたちは才能がある。きみたちが強請ればサンダルフォンだって厭わないさ」
「それ、はサンダルフォンの、意思に反することだ」
「おいおい! 今はそのサンダルフォンの生死がかかってるんだぜ?」
 ぐっとそれまで奥歯を噛みしめていたルシファーがすくっと、近場にあったは花瓶を手に取ると振りかぶり、ブン、と投げつける。花瓶が、ベリアルにぶつかるよりも、ベリアルが体を霧に変化させるほうが早かった。ガシャンと花瓶は床に叩きつけられて割れた。花が飛び散る。水溜りが広がる。ベリアルにぶつけられなかったことが悔しく、腹立たしく、チッと舌打ちをする。
「まあ、そういう手段もあるっていうことさ」
 すぐ近くで、あるいは遠くで、ベリアルの声が響いた。誰も、何も言うことはなく、誰も動くことは出来なかった。
 サンダルフォンを、休ませよう。誰が口にしたのか、分からなかった。白いシーツに横たえさせる。最近は青白い顔ばかりだったサンダルフォンの頬はほんのりと色付き、無垢な寝顔を浮かべている。
――悔しい。
 それは敗北感であった。
 サンダルフォンに抱く思慕は、育ての親を慕うものではない。サンダルフォンという存在に、焦がれる。だから、共に生きたい。彼という存在と共に、ありたいのだ。三人は別にお互いの心が読み取れるわけではない。けれど、理解をしている。自分たちは同じだ。救われたから慕っているのではない。絶対的ともえいる庇護下であるから求めるのではない。サンダルフォンだから、心が惹かれた。
 ルシファーが、床に飛び散っていた花瓶の破片を手に取った。その破片を、昏々と眠るサンダルフォンの指先に、当てる。ルシオとルシフェルは何かを言いかけて口をつぐむ。止めることは、無かった。ぷっくらと、宝石のように、鮮やかな赤色が浮かび上がる。
「やるのか」
「これしか、ないだろう」
 諦めたような決意だった。
 サンダルフォンが、子どものように慈しむのならば、癪であるがその立場に甘んじるつもりである。サンダルフォンが喜ぶから、仕方ないと言いながら嬉しさを隠せないように笑うから。不満を隠して、不服を胸の片隅に追いやって、サンダルフォンが望むように振る舞って見せる。演じてみせる。共に生きていくためなら、生きることを許されるのならば、生きることができるのならば、多少の不服はあれども、甘んじて、その立場に収まるつもりであった。だけど、サンダルフォンは置いてくつもりなのだ。
 それは、許されない。
 それは、許してはならない。
 それは、許せないことだった。

○ ● ○


 引き摺られるように深く落ちていた意識が浮上した。何時の間に、眠っていたのだろう、記憶の糸を辿り異父兄の襲来があったことを思い出し、苦い気持ちになる。沈む気分に対して体の調子はよかった。サンダルフォンも自覚をしていることだが、どうにも限界が近いらしい。
 半人半魔としての肉体はいよいよ半魔の力に蝕まれている。
 百年余りをサンダルフォンは矜持と意地で、肉体を保ってきた。本来ならば他者から精気を奪い生きながらえる命であることを拒絶して、自分は魔の者ではないと、自分は違うと、言い聞かせてきた。ささやかな、反抗であった。
 魔女としても認められない。魔族としても認められない。
 魔女ではない。魔族ではない。
 魔女ではないなら、魔族ではないなら、お前たちの理なんて知らない。お前たちの理で生きる理由はない。お前たちと同じになんて、なってやるものか。
 百年前の決意は依然として変わることはない。
「……なんだ、この状況は」
 体を起こして、自身が眠る寝台に顔を突っ伏して眠る子供たちに首を傾げる。そこまで大きな部屋ではない。身を縮めて息苦しそうにしている子供たちが、なぜ、ここにいるのか思い至らない。異父兄に精気を与えられたところで記憶が途絶えている。
「体が痛いだろう? そんなところで眠ったら」
 三つ子を揺さぶれば彼らは体勢もあってか、眠りは浅かったようだった。まだ眠り足りないと言わんばかりのルシファーを引き摺ってルシオとルシフェルが部屋を出て行った。途端に部屋は広く感じる。そして、物淋しく空っぽな気分になる。
 肉体の限界を感じたからだろうか。
 イヤに感傷的になる。
 いつまで、あの子たちと居られるのだろう。
 あの子たちはどのような家庭を築くのだろう。
 自分がいなくても、あの子たちは生きていけるだろうか。
(……傲慢だな)
 自分がいなくても、生きていける。
 むしろ、彼らがいなければ生きていけないのはサンダルフォンだった。
「サンダルフォン」
 呼ばれて、顔を上げれば子どもたちが揃っている。手には、サンダルフォンが宝物としている白磁のカップ。香りから察するに、珈琲を淹れたのだろうか。
 それにして、誰が呼び掛けたのだろうか。
 サンダルフォンはそれが分からなかったことに小さなショックを抱いた。声はよく似ている。同じ、といっても過言ではない。だが声の質は異なるから、間違えることはない。なのに、分からなかった。
「珈琲を、用意した」
「お前が淹れたのか? 珍しいな」
「いや、違う。ただ試しいことがあったんでな」
 ルシファーが応える。ルシオも、ルシフェルも、嘘をつけない。
 試したいこと、と聞いてサンダルフォンは少しだけ嫌な予感がした。
 ルシファーは好奇心の塊のようなところがある。いずれ猫を殺しかねないような危うさがある。カップを受け取りながらじっと揺れる黒面を見つめる。
 訝しむ様子を見つめる、三対の眼は静かに、けれど、じっと、逸らされることはない。
「味が落ちる」
 ルシファーの急かすような言葉に苦い笑いを浮かべてからサンダルフォンはそっとカップに口を付ける。誰かが、息を呑んだ。
 珈琲を啜りかけて、ふと、
「ルシフェルは飲んだのか?」
「私、は」
 ルシフェルが言いかけたところを、ルシファーが遮った。
「……お前のために用意したんだ。コイツが淹れて、アイツが豆を選んだ。俺が抽出方法を考えた」
「そうか」
 サンダルフォンは笑みを浮かべる。三人が共同作業をしたことがなんだかおもしろい。
「なら、味合わないとな」
 嬉しそうにいうものだから。だから、どうして、悲しい気持ちになるのだろうか。キリキリと痛む胸を抑えたくなる。年甲斐もないと分かっているのに、その膝に縋りついてわっと泣き出したくなる。だけど、これ以外に最早道はない。方法はない。手段を選ぶ時間はないのだ。
 老いていく。
 置いていく。
 老いて逝かれる。
 置いて逝かれる。
「ーーッ!」
 一口、珈琲を啜ったサンダルフォンは気付いた。口を押える。手が離されたカップは白いシーツに染みを残す。
 戸惑いを隠せない。
 視線を彷徨わせる。
 気付かないはずがない。サンダルフォンが何より恐れていたことだ。
 理解できないはずがない。サンダルオフォンが何より選択しなかったことだ。
「おまえ、たちは」
 視線を受け止めながら三人は口を開く。
 三兄弟の瞳は鮮やかな真紅に染まっている。
 最早、かつてのように、慈しまれることはない。愛されることはないだろう。けれど、それでも、
「謝るつもりは無い」
「後悔は無い」
「仕方ない」
 だって、おいていこうとするから。

2019/06/25
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