ピリオド

  • since 12/06/19
 同じ制服を着ていてもどうしてこんなに違うのだろうと、羨ましいと思うこともない。
 プラチナブロンドが太陽の光を受けてきらきらと輝きながら、風になびいている。映画のワンシーンを切り取ったような姿に、見惚れていた。ぼんやりとしていたところを「サンダルフォン?」と心配した様子で声を掛けられてはっと、現実に戻る。あわあわと反応を示したサンダルフォンに、年上の幼馴染はくすくすと笑う。数歩、後ろを歩いていたサンダルフォンの前に態々戻ってきたルシフェルがサンダルフォンに手を伸ばす。
「リボンが曲がっているね」
 サンダルフォンは罰の悪い顔になる。ルシフェルと交換をしたリボンだというのに。幼い頃から不器用で、自分でリボンを結ぶとバランスの悪い傾いた形になったり、縦になったりとしていた。そういえば今日は体育の授業があったのかとルシフェルはサンダルフォンの時間割を確認しながら、リボンを解く。サンダルフォンはもじもじと視線を彷徨わせる。どこを見ればいいのか分からない。距離が近い。心臓の音が聞こえてしまいそうだと、気が気でない。
「できた」
 ルシフェルは満足に、笑みを浮かべる。至近距離でその笑みを向けられたサンダルフォンは、十何年経っても慣れることはないし、何年経っても心臓に悪く、毎朝リボンを結ばれるだけでも寿命が縮んでいる気がしてならないのだ。
 女性にしては背の高いルシフェルに対して、平均身長のサンダルフォンは頭一つ分程の身長差がある。もじもじとしているサンダルフォンを愛しく見つめた後、すんと、ルシフェルは目を細めて、じっとりと舐めつけるように見ていた男に、ぞっとする冷ややかな視線を向けた。
 男はルシフェルの視線に顔を青褪めさせて足早に去っていく。その制服に見覚えはない。近隣の生徒ではないようだった。
「どうかしたのか?」
「なんでもないよ。今日は泊まっていくだろう?」
 明日は祝日だ。休み前はルシフェルの家に泊まりに行くことがいつからか当然になっていた。サンダルフォンは首肯する。下着や寝間着は既にルシフェルの部屋に置かれているから家に寄って帰る必要性も無い。ルシフェルはサンダルフォンの手を取る。白く、細く、長い指がサンダルフォンの指を絡み取った。その手に触れられるたびにサンダルフォンは、この人が、汚れてしまうのではないかと汚してしまっているという恐怖がぬぐえない。けれど、手を振り払う勇気なんて持ち合わせていない。
 ルシフェルに手を引かれて、サンダルフォンはおずおずと、隣を歩く。この人の隣に立つだなんて相応しくない畏れ多いと、何時だって、数歩、後ろを歩くことを選んでも、こうして、手を引かれて隣を歩くことを許されている。可愛がられているのだろうと、思い違いでなく、実感している。
 一人っ子であるサンダルフォンとは異なりルシフェルは三人兄弟である。上には年の離れた兄が二人いて、ルシフェルは末っ子長女である。だから、年下の存在であるサンダルフォンのことを妹のように扱っているのだとうと推測していた。少し前までは、ルシフェルの隣を許される喜びを享受していた。苦悩も何もなく能天気であった。けれど今となっては苦痛と、劣等感、罪悪感で押しつぶされそうになる。逃げ出したくなる。ルシフェルと同じ制服に身を包むようになってから、理解してしまった。憧れであったルシフェルと同じ制服に袖を通して、今までの己の言動を恥じた。
 ルシフェルは完璧だ。神様なんて信じていないけれど、そういった全知全能の存在がいるならばそういった存在に愛された選ばれた人なのだ。対して自分は何もない。だから、ルシフェルが優しいのは、可愛がってくれているのは憐みであったのだと悟った。優しい鎖はサンダルフォンを締め付け柔らかな真綿はサンダルフォンを窒息させる。息苦しくても助けてということも出来ない。
 決して、ルシフェルが嫌いではない。嫌いではなく、苦手でもなく、寧ろ敬慕しているのだ。
 だからこそ、苦痛なのだ。
 サンダルフォンは一日の殆どをルシフェルと過ごしている。学校ですら授業を受けている時間以外ならば、休憩時間であってもルシフェルと共にいる。共働きの両親が迎えに来るまでルシフェルの家で過ごしている。珈琲を楽しんだり、勉強を教わったりとして過ごしている。平日であっても夜遅くなれば、そのまま泊まることは珍しいことではなかった。尊敬しているからこそ、ルシフェルの貴重な時間を消費させてしまっているという罪悪感がサンダルフォンの胸に積もり重なっていく。
 十年以上の付き合いの中で、ルシフェルに恋人の影は無い。その機会を奪っているのは他ならぬ自分なのだと気付いている。ルシフェルに声を掛けようとする男の姿は珍しくは無かった。サンダルフォン自身もラブレターを自分の代わりに渡してくれないかと頼まれたことがある。こんなことは引き受けなくていいと呆れ気味に言われてから、ルシフェルの不興を買ったのだと気付いた。以来引き受けていないし、そもそもサンダルフォンに声を掛けられることもない。サンダルフォンが知る限り、一度としてルシフェルは彼らの、あるいは彼女たちの言葉に首肯することは無かった。自分が、いるからだろうか。自分の面倒を見なければと、責任を感じているのだろうか。自分自身のことを後回しにしているのだろうか。
 どうしたら、ルシフェルを自分から解放することが出来るのだろうか。
 サンダルフォンは、美味しいと評判のシフォンケーキがあるのだと嬉しそうに言って階下へ取りに行ってしまったルシフェルの姿を思い出して、つい、ため息を吐き出した。

「入りますよ」
 コンコンとノックと同時に掛けられた声に、部屋からの反応を待つまでも無く開けられた扉。サンダルフォンは目を丸くして闖入者を見上げるしか出来ない。おや、と然程驚いた様子もなく、悠然とした素振りの男はサンダルフォンも知る、ここ数年はすっかり顔を合わせることもなかったルシフェルたち兄弟の長兄である。サンダルフォンとは一回り以上離れているため、そもそもの交流が多かった訳ではない。ただ彼らはそっくり同じ容貌な上に、彼を見ない日は無いために、久々という感覚はサンダルフォンには無かった。
「帰っていたんだな、ルシオ」
「覚えていてくれたんですね!」
 輝かんばかりの笑顔を向けられ眩しさに目を細める。
 ルシオはサンダルフォンが幼い頃から芸能活動をしていた。はっきりとは覚えていないものの、出会った頃から既に始めていたらしい。当時は学生で未成年であったから、雑誌のモデルやちょっとしたCMへの出演と限定的な活動であったが熱心なファンは多く、知名度は高かった。教育機関を卒業するとそのまま芸能活動の世界に身を置いて、早十数年経ってもスケジュールに空白は無い。サンダルフォンがルシオと最後に顔を合わせたのは果て何時だったろうかと記憶を辿っても、毎日のように街頭や雑誌の表紙、CMなどで見掛けているので、正確には思い出せない。だがそれはサンダルフォンにとってだ。ルシオにとっては久しぶりの再会なのだ。
「今年で16歳でしたっけ? あのサンちゃんが、16歳……はー……」
 感心したように確認を取るルシオに、サンダルフォンはつい、吹き出してしまう。煌びやかな容貌に似合わない老成した、久しぶりにあった親戚のおじさんのような言葉。
「おじさんみたい」
 サンダルフォンは自分の言葉に、画面越しでは決して見せないようなショックを受けたルシオとの、ブランクを感じさせないやりとりに、ほっとした。
 男性とはいえ、ルシフェルと似ているからだろうか。けれど、ルシフェルとは全く性格は違うし、次兄であるルシファーとはいっそ真逆である。彼ら三兄弟は見た目は良く似ている。三人が三人。遺伝子の奇跡というように性別を感じさせない美形である。ルシオは俳優でありモデルとして活動しているために鍛えているため男性とすぐさまわかるが、あるいは認知されているが、次兄のルシファーや末っ子であるルシフェルは性別をよく間違えられているのをサンダルフォンは知っている。ルシフェルは特に傷ついた様子もないし訂正することもない。しかし、人一倍プライドが高いルシファーはぴきぴきと青筋を立てているから恐ろしいったらない。研究職であり不規則な生活のルシファーは親しくないサンダルフォンでも心配してしまいほどに細く、いつか倒れてしまうのではないかと思ってしまう程に顔色が悪い。ルシフェルに大丈夫なのだろうかと尋ねれば部下がしっかりしているから大丈夫だと言われている。現に、サンダルフォンが知る限りではルシファーは倒れたという話は聞いていない。閑話休題。サンダルフォンは男性と会話をしたことはここ数年数えるほどしかない。父親や教師を除けば悲しいことに同級生とすら会話は事務的なやりとりだ。男性と関わることが皆無なまま16歳になっている。まだ16歳。されど16歳。同級生たちが誰それが付き合っているだろか別れただとか、色恋沙汰で盛り上がる中、サンダルフォンは取り残されている。異性に特別な好意を抱いた記憶はサンダルフォンには無い。忘れているだけだろうかと思って記憶を掘り起こしても、ルシフェルとの思い出しか浮かばない。幼い頃から隣にはルシフェルがいてそれが当たり前であった。他の記憶が霞むほどに、思い出せない程に強烈で鮮烈な思い出は褪せることはない。

 会話をしながら落ち込むという器用なサンダルフォンを見つめながら、ルシオは憐憫の情を抱く。

 十数年前にルシフェルに見初められてしまったのが、サンダルフォンにとって最大の不幸である。
 ルシフェルは三兄弟の中で自我が薄かった。求めることもなく惜しむこともない。子どもらしい独占欲なんて微塵もない。ルシオにしても、ルシファーにしても、一般常識とは離れた人格形成をしているものの執着心というものはある。失いたくないもの、というものがある。ルシフェルはそれが欠けていた。作り物めいた容貌に年齢にそぐわない達観した性質は他人には不気味であっただろうが、兄二人はそんな末っ子を可愛がっていた。
 なんせ男兄弟のなかで産まれてきた年の離れた妹である。
 とりわけそれまで末っ子であったルシファーは可愛がっていた。他人の言葉なんて聞かなくて良いと慰めるような言葉を掛けていた。もっともルシフェルは気にした素振りをちらりとも持っていなかったが。ルシオとて妹を可愛がっていた。兄二人に散々甘やかされても買い与えられてもルシフェルはちらりとも何かを求める事は無かった。そんなルシフェルの目がきらきらと輝いた瞬間を、光を宿したときを、ルシオは覚えている。

 ツヤツヤとした鳶色の癖っ毛にくりくりとしたルビーの瞳。近くに引っ越してきたのだという愛らしい少女は好奇心旺盛なようでひとりで、とてとてと公園を歩いていたらしい。というのを、ルシオは妹から聞いた。妹はうっとりと自分よりも小さな少女を抱きしめている。少女はすやすやと寝息を立てている。
(妹が、この年にして、犯罪にはしってしまった)
 日向に面したソファーに座り、自分のブランケットを少女にかけてふわふわとした髪に頬を寄せる妹は、成長していたら、同性であれども事案である。
 話を聞く限りでは、公園で遊んでいる少女を一目見て気に入ってしまい、そのまま連れ帰ってきたのだ。美味しいお菓子があると言って誘ったルシフェルに、少女は付いてきてしまったらしい。ルシオは困ってしまう。こういうとき、どうしたらいいのだろうかと腕を組んで考えていた。その間もルシフェルはひと時として少女を離すことはなかった。ルシフェルよりも小さくおそらく幼稚園に通っているか、いないかといった小ささである。この年頃の子どもなら、知らない人にもついていってしまうか。いや、そもそも本当にひとりだったのだろうか。母親はいなかったのだろうか。結局、一番冷静であったのは学校から帰ってきたルシファーであった。帰って早々リビングを覗けば溺愛する妹が人形を抱きしめているのかと思えば生きた人間であることに気付くと目を見張り、何をしていたのかと長兄を睨むと、少女が唯一持っていたらしいポシェットから迷子札を見つけて連絡を取ったのだ。勿論、ルシフェルのことは伏せていた。迷っていた様子だったので保護をしています、連絡がおくれてしまって申し訳ありませんと事も無く嘯いたルシファーの演技力こそアカデミー受賞ものであったとルシオが記憶している。ルシオの想像した通りに少女の母親は公園に一緒にいたのだという。それが一瞬でいなくなり今の今まであちこちを探し回っていたらしく、迎えに来た母親は目を腫れぼったくして娘を抱きしめていたから、ルシオとルシファーは珍しくもちくりと罪悪感を抱いた。身内の犯罪に心を許せるほど人間性を欠いてはいないつもりだ。
「サンダルフォンと一緒に居てくれてありがとうね」
 何も知らない母親がサンダルフォンと手を繋いでいたルシフェルに掛けた言葉に、ルシオとルシファーはきりきりと心が痛んだ。本当に申し訳ありませんがその子が娘さんを誘拐したんです、とはとてもではないが言えない。サンダルフォンは自分が誘拐されたとも事件に巻き込まれていたとも気付いていない様子でおねえちゃんがあそんでくれたと母親に嬉々と告げている。この事件がきっかけで、サンダルフォンの両親は三兄弟をすっかり信頼している。その信頼をルシフェルは利用しているし何より信頼されることも含めて彼女の掌の上であったかのようであった。末っ子のまさかの悪知恵にルシオは戦々恐々としたし性質が悪いと身内ながら思っている。それについては意見が対立してばかりでいるルシファーとも共通の認識である。あのルシファーすら妹の思考には難色を示したのだ。かつて少女であった彼女は、今になってもルシフェルに無垢な信頼を寄せている。

「用事があったんじゃないのか? ルシフェルなら階下だぞ」
「そうでした、本を借りようと思っていたんですよ」
 思い出したと言わんばかりに、ルシオはルシフェルの部屋を勝手知ったる様子で物色をしている。家族とはいえ、妹とはいえ、女性の部屋をそんな風にとサンダルフォンはルシオの無神経さに呆れると同時に、けれどこれが兄弟の距離感なのだろうかと自分では分からずに止めることも出来ない。
「んー……ない、ですね」
 本棚を物色していたルシオは首を傾げる。ルシフェルならば持っているだろうかと期待をしていたのだ。ちなみにルシファーには一切期待していない。彼が持っているはずがない、興味をいだくはずがない、寧ろタイトルすら知らないだろう。
「なんの本を探しているんだ」
「___という小説です。最近話題らしいですね」
「ああ……ルシフェルの趣味に引っかからない恋愛小説だぞ」
「サンちゃんは知ってるんですか?」
「サンちゃんは止めろ。一応、持っている。というか、今も、持ってる」
 ルシオが爛々と期待した目で見つめてくるものだから、サンダルフォンはつい、言ってしまった。それから鞄の中からブックカバーに包まれた小説を取り出す。偶然、というべきか今日読み終えたばかりだ。ストーリーはシンプルで王道である。不治の病に罹ったヒロインと主人公の物語。概要だけなら鼻白み敬遠する内容なのだが、心理描写は重く切なく、恋愛感情をイマイチ理解出来ないサンダルフォンもついうっかり涙ぐんでしまった。
「お借りしても?」
「態々見せびらかすだけなんて性格は悪くない」
「ありがとうございます!」
 うきうきとした様子を見せるルシオに、サンダルフォンはむず痒さを覚える。この程度のことで、そこまで喜んでもらえるなんてと恥ずかしさを覚える。
「恋愛小説はよく読むんですか?」
 尋ねられてサンダルフォンはちょっとだけ言いよどむ。
「最近は、読む」
「年頃ですもんね、サンちゃんも」
「おじさんみたいだぞ、ほんと。まあ、でも、憧れはある。似合わないと、分かってけど」
「そんなことありません。サンちゃんは可愛いんですからもっと自信を持って!」
「お前に言われてもなあ……」
 サンダルフォンは苦い笑いを浮かべる。ルシオに言われても慰めにしかならない。そんな話をぽつぽつとしていると、閉じていた扉が再び開く。階下にいたルシフェルだ。
「遅くなってしまってすまな……」
 不自然に途切れた言葉に、サンダルフォンはどうしたのだろうと不安を覚えながらルシフェルの視線の先を辿り、そこでにこにこと笑みを浮かべているルシオに気付く。兄といえども知らぬ間に自室にいたことが不快だったのだろうかとルシフェルを心配に、見上げた。ルシフェルはサンダルフォンににこりと笑みを浮かべるとルシオを見ることなく、
「帰っていたのか」
「ええ、今まで部屋で休んでいたので気付かなかったのでしょうね」
「そうか」
 それっきり、ルシフェルはルシオの存在を視界から消してしまったように認識が出来ないように振る舞う。テーブルの上にトレーを置く。トレーには二つのお揃いの白磁のカップと、大皿の上にはメディアでも取り上げられているほど有名な店のケーキが幾つも乗せられていた。カップから立ち込める香ばしいかおりと、色鮮やかなケーキにサンダルフォンはそわそわとしてしまう。だからルシオが部屋を出る間際にウインクをしてルシフェルをその気は無くても煽ったことには気づかなかったし(ルシオにしてみれば激励のつもりであった)、ルシフェルがとても兄を見る視線でルシオを睥睨していたことも気付かなかったのだ。
「彼に何もされなかっただろうか?」
 まろやかなチーズケーキを一口頬張っていたサンダルフォンはきょとりと、目を丸くする。ルシフェルは不安そうな、心配を隠せないようで顔を曇らせていたから慌てて呑みこんだ。
「すまない、彼が帰ってきているなんて知らなかったんだ」
「ルシフェルが謝ることじゃないし、ここはルシオの家でもあるだろ? それにルシオから何もされてないし」
 ルシフェルはまだ納得を仕切れていないような不安気な、不満そうな顔をしていた。サンダルフォンは苦い笑いを浮かべてしまう。
「彼は何をしに来たんだろろう」
「本を借りようとしていたみたいだった」
「本?」
「___っていう小説だけど、ルシフェルの趣味じゃないだろ?」
 そのタイトルに覚えはある。ただルシフェルの琴線に触れないジャンルであった。フィクションであれば推理小説、私小説、歴史小説などを好んでいる。恋愛小説も他に読む物がなければ手に取るが、自ら進んで手を伸ばすジャンルではない。
「話題になっていることは知っているけど、私の好むジャンルではないな」
「だろ?」
 そのつもりはなくても、分かってるぞと言わんばかりにふふんと笑ったサンダルフォンにルシフェルは思わず笑みを零してしまう。愛しい、と湧き上がる感情が零れてしまう。自分のことを理解してくれているそのことが嬉しく、誇らしく、誰かに自慢したくなる。
「だから、持っていたのを貸したんだ」
 言葉をなくした。
「……ルシフェル?」
 サンダルフォンの呼びかけにルシフェルがぎこちなく答えた。
「サンダルフォンの、趣味でもなかったと記憶していたから」
「……自分でも、似合わないと分かってるさ」
 自嘲気味に笑ったから、ルシフェルは慌ててそういう意味ではないと言うのだが、サンダルフォンはその言葉を受け止めることは出来ない。らしくないと分かっているのだ。恋愛なんて似合わない。相手もいない。魅力もない。そんな自分が恋愛に憧れるだなんて、身の程知らずというものだ。ルシフェルが驚くのも仕方ないと、サンダルフォンはほろほろと口のなかで溶けていくスフレを香ばしいコーヒーで流し込んだ。

 ルシフェルは目の前が真っ白になってしまった。
 幼いころから知っているサンダルフォンは、恋愛に興味が無い様子だった。向けられる思慕の視線にも気づかないほどに、恋愛というものに無関心であるようだった。十数年共にいるルシフェルから向けられる感情に気付いてすらいない。それで良かった。知らないなら、教えればいい。その役目は、自分がなして見せる。あるいは、同等の感情が向けられることはなくとも、ルシフェルにとって、サンダルフォンにとっての特別は自分であることがこの上ない喜びだったのだ。ちりちりとサンダルフォンの両親にすら嫉みを抱くほどに、ルシフェルはサンダルフォンに執着をしている。サンダルフォンを形作っている彼女の両親に感謝すると同時に、羨ましいと零してしまう。サンダルフォンは両親というだけでそれだけで彼らに信頼を寄せる。ルシフェルが慎重に慎重を重ねて繋ぎ止めているサンダルフォンからの信頼を、彼らは、ただ両親という間柄であるだけで寄せられている。彼らといる以上の時間を共に過ごしていてもルシフェルはサンダルフォンの親ではないし、家族ではない。他人という線引きがある。寂しくも、けれど他人だからこそなりうる関係に抱いた期待があった。
 ルシフェルにとって、サンダルフォンは生きている「意味」だ。呼吸する「理由」だ。
 サンダルフォンが存在しているからルシフェルはこの世界で生きているのだ。サンダルフォンがいないのなら、ルシフェルは生きる理由なんてない。
 サンダルフォンと出会ったときの衝撃をルシフェルは忘れることはない。雷を受けたようにビリビリとしたものが体を駆け巡った。ゴーンゴーンと重厚な、鐘の音が聞こえた。フィルターが掛けられたように世界が色付いた。とことこてとてとと歩く少女はルシフェルを見上げて小首を傾げて、きっと、無意識なのだろう、にこりと笑った。ああ、この子が欲しい。誰にも渡さない。幼い少女が抱くには度を越えた執着をルシフェルは抱き続けて、十年経ってもサンダルフォンを離さない。執着は年々重くなっている。サンダルフォンが自分の知らない成長を見せること、サンダルフォンが自分の知らない顔を持つこと、サンダルフォンが自分ではない誰かの隣を選ぶこと、なんて、とても、耐えられない。
 同性であることなんてどうだって良かった。
 ただ「サンダルフォン」という存在が、ルシフェルの心を離さない。ルシフェルの執着心が行き着く。代わりなんて無い。
 かつてルシフェルが付けていたリボンを、今はサンダルフォンが付けている。ルシフェルのものだと言わんばかりの、ルシファー曰くのマーキングは意味を成していない。サンダルフォンは魅力的になっていく。意思の強い瞳は、ふとした瞬間揺らめいて憂いを帯びる。斜に構えていながら純真で俗物に染まらない。だから、ルシフェルが守らねばならない。傷つくこと触れられること、サンダルフォンが許してもルシフェルが赦さない。
「誰か、すきなひとが、いるのか?」
 震えそうになる声はどうにか、いつものように振る舞えていた。サンダルフォンが口を開くまで。まるで審判を下されるようだった。生きた心地を覚えない。手に取ったカップの熱も感じない。自室という何処よりも心落ち着かせることができる空間で、サンダルフォンという安寧を前にしているのに、孤独な砂漠に、あるいは宇宙に放り出されたようで、口の中が乾いた。
「まさか」
 笑い飛ばすように言うサンダルフォンにルシフェルはほっと、胸を撫で下ろす。ああよかったと想いかけて、だけど問題は何も解決していない。サンダルフォンは恋愛に興味を抱いた。今まで男と関わり合いをもたせないようにしたことが裏目に出たのだろうかと内心で自分自身に対して憤っていた。ある程度関わらせるべきだったのだろうか、耐性をつけるべきだったろうか、男という生き物への嫌悪を植え付けるべきだったろうかと、思い浮かべた「たら」「れば」を振り払う。それは、サンダルフォンのためにならない。ルシフェルはサンダルフォンを傷付けたいわけではないのだ。柔らかで優しい心を守りたいだけだ。そして、その存在は自分だけで良い。自分だけを求めてほしい。自分なら、サンダルフォンを絶対に守ることが出来るという自信がある。
「ルシフェルはいないのか?」
 お返しと言わんばかりの言葉にルシフェルは当然というように、言い切った。悩むことなんて無い。分かり切ったこと。ルシフェルにとって、当然である。
「私は、サンダルフォンが好きだよ」
 冗談を言われたと思ったのか、サンダルフォンがむっとした顔をしてから、しょんぼり、と項垂れる。自分には本当のことを言ってくれないのかと、信用されていないのかと勝手な寂しさが湧き上がる。ルシフェルはそんなサンダルフォンの気持ちを汲む事は出来ない。ただ、悲しい顔をするサンダルフォンに手を伸ばす。触れられたサンダルフォンは目を瞬かせる。なぞられた輪郭が、頬が、眦が熱を持つ。
 ルシフェルは妖艶に、笑った。
 目を奪われ、何も言えなくなる。

2019/05/25
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