ピリオド

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 昼前になると間借りしている喫茶店部屋は静かになる。殆どの団員は食堂の方で食事を取っているためだ。今から暫くは態々喫茶店を訪れるものもいない。暇になるだろう。忙しくなるのは、食堂の昼食提供が終わってから、食べ損ねた連中が訪れる頃だ。時間にすれば二時間ほど。その間に軽食メニューの仕込みをしてしまおうかとサンダルフォンは、ルシフェルに声を掛けようとした。軽食に提供しているのはタマゴサンドとトマトサンド。卵は茹でてしまえば保存出来るし、トマトも余ってしまっても、サラダとして一緒に提供してしまえば良い。
「ルシフェルさま」
 呼び掛けようとした言葉は喉に引っかかったまま。蒼い瞳に見下ろされる。その瞳はゆらゆらと揺れて、何かを訴えようとしていた。けれど言葉にはされない。不意に近付く。サンダルフォンは逡巡、さ迷わせてから、意を決したように、目を閉じた。
 啄むように唇が合わさる。羞恥を抱きながら、戸惑いを覚えながら、決して、ルシフェルからの行為を拒絶することは出来ない。サンダルフォンの感情なんて不要であるからだ。感情に振り回されても仕方のない行為であるからだ。これは、空の民で言うならば「食事」と変わらぬ行動だ。生存活動において必要不可欠な行為である。だから、いちいち感情を揺さぶられてなんかいられない。いられない、はずなのだ。
 数えられぬほど口づけられた。なのに、サンダルフォンはルシフェルの温度を覚えられない。覚える余裕がない。唇を合わせているだけの行為。時間にすれば僅かなものなのに、永遠に感じて、そのくせ、離れてしまえばただ僅かな唇の違和感だけが残る。
 ガチャリと開いた扉にはっとすることも無い。
 惜しむような想いを抱いたときには、唇は離れていた。そして、自分の浅ましさに苦い虫を噛んだ気分になる。
「卵を倉庫から取って来るよ」
「はい、お願いしますね」
 目を白黒とさせる団長を置いてけぼりにして、ルシフェルは部屋を出ていくし、サンダルフォンはいつもと変わらぬ様子だった。団長は戸惑う。今、見たものは何だったのだろうか。見間違いでなければ、幻覚でなければ、二人は、
「え、そういう関係だったの!?」
 喧しい声にサンダルフォンは眉をひそめて厭味ったらしくため息を吐き出した。
「何を勘違いしているんだ。君たちの文化における口づけとは意味合いが違う」
 サンダルフォンは大きな鍋を取り出して水を張りながら言った。サンダルフォンとて、空の文化については見聞きしている。唇を合わせる行為が、彼らの文化において特別な意味合いが込められていると知っている。特別な関係を結んだ者同士の行為であると。だから、自分たちはそのような特別な意味合いは無いと言っておかねばらない。勘違いをされるわけにはいかない。それも、尊いあの御方を不埒で不純な関係に、巻き込むわけにはいかない。
「口づけって……キスに込められた意味なんて一つしかないでしょ。それも口同士なら」
「口同士だからこそだ。あの御方にとっては食事と同列の意味合いでしかない」
「食事って……サンダルフォンを食べる的な?」
「不敬だぞ」
 サンダルフォンの不敬チェックに団長はごめん、と謝ってみせる。不敬、と言ったもののサンダルフォンは団長の言葉の意味合いを正確には理解していない。言葉のままを受け止め解釈した。あの御方を食人嗜好のように扱うな、という意味で不敬と言ったのだ。団長が言葉に含めたちょっとした冗談は分かっていない。団長もそれなりの年ごろになっているのである。分かっていたなら激怒は必至である。なので団長は、サンダルフォンの相変わらずの純真ぶりに、ああこれはわかっていないなと内心で呆れるようなほっとしたような複雑な心境になる。
 それから団長はにまにまと悪戯っぽい、からかい顔を浮かべた。サンダルフォンは辟易とした気持ちになるが逃げ場はどこにもない。カウンター席に腰掛けた団長の爛々とした視線がそらされることはない。
「ああ、それでそういう関係じゃないっていう話だっけ」
「その話に戻らなくてもいいんだがな」
「いやいや。必要でしょ。サンダルフォンまた勘違いしてそう」
「またってどういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ、で。食事とか、ルシフェルに言われたの?」
「言われた訳ではないが、俺に口づけする意味を考えたら、エーテルの経口摂取以外考えられないだろう」
 むっと、団長は眉をひそめる。以外を考えられないのではない。以外を考えたくない、の間違いではないだろうか。サンダルフォンは自分にとって都合の良い思考を、そうあってほしいという願いを、切り捨てようとしている。その願いこそが真実だというのに、その真実に蓋をしようとする。目を背けようとする。そんなことあるはずがないと自分を守るために。
「サンダルフォンの言う通り、エーテルを摂取するっていうことなら、ミカエルやガブリエルたちでもいいんじゃない?」
「それ、は」
 サンダルフォンは逡巡し、言葉を失ってしまった。
 天司長という座をサンダルフォンに譲り渡したとはいえ、ルシフェルは今も生きている天司たちから慕われている。四大天司とて例に漏れない。それどころか最たる存在である。長くルシフェルに仕えていたこともあり、天司長と麾下という関係が無くなっても、彼らはルシフェルに変わることのない敬慕の情を寄せている。ルシフェルもまた、彼らを信頼している。その関係性を羨ましい思うが疎む気持ちは無い。
 四大天司はルシフェルのためならばと厭わないだろうことは、想像に難くない。
 否定する意味はない。自分でなくても良い。肯定する言葉が出ない。想像も、したくない。震えそうになる声で、言い訳でしかない言葉を、口にした。
「今は、俺が、天司長だから。あの御方の力を、一番濃く、引き継いでいるから、だから、俺はその、都合がいいから、だから」
 青褪めたサンダルフォンに、団長はちょっと意地悪をし過ぎたと反省をする。
「本当にエーテルが必要って思ってる? あのカリオストロが作った体に、欠陥があると思う?」
 サンダルフォンは、目を彷徨わせて諦めたように首を振った。サンダルフォンとてカリオストロのことを、天才と認めている。性格に難はある。けれどもその難さえ霞むほど、星の民の傑作を再現したのは天才と言わしめるには充分に過ぎる。
 そもそもエーテルの摂取なんてものは言い訳でしかない。かつてであればエーテルを取り込み、肉体を構築させ、顕現していた。しかし、肉体という器を得たルシフェルには必要ではないのだ。サンダルフォンとて、分かっているのだ。そんなことは、誰よりも、理解しているのだ。
 ぐつぐつと煮えたぎる音がしている。
 言葉を探すように、サンダルフォンは、鍋をじっと見つめている。そのサンダルフォンを、団長はじっと見つめている。逃がしはしないぞ、と言わんばかりの視線だった。そこへ空気を読んだのか、あるいは読まなかったのかルシフェルが、卵を籠に入れて持ち帰ってきた。サンダルフォンは救いと言わんばかりに「ありがとうございます」といってルシフェルから籠を受け取る。ちぇーっと団長は内心で舌を出しながら今度はルシフェルへと狙いを定めた。此処で擦れ違いを解消しなければ、ここで真意を詳らかにしなければ、絶対に拗れると、長年あちこちでトラブルに巻き込まれ巻き込んで世界を救ってきた直感が囁くのだ。
「その体には慣れた?」
「ああ。以前と驚くほど、変わりはない」
 そっかと笑いながら、にまにまと、視線をサンダルフォンへと向ける。サンダルフォンは居心地悪そうにして、話を聞いてませんというようにぐつぐつと沸騰している鍋へ黙々と卵をいれている。
「じゃあ別にエーテルが必要ってわけじゃないんだ」
「エーテル?」
「いや、なんでもないよ。さっきさ、覗き見したつもりはないけど……」
 首を傾げたルシフェルはエーテルが不足しているなんて無いということだ。サンダルフォンの思い込みはばっさりと斬られる。それから、団長が申しわけ無さそうに続けた言葉にサンダルフォンの様子を見る。サンダルフォンは熱湯に近い所為なのか汗ばんでいた。
 ルシフェルはふむと言葉を探して、ややあってまとめたように、
「空の世界では、愛情表現だと記憶していたのだが、違ったのだろうか。言葉では、とても足りなかったのだが……。何か、間違っていただろうか」
「うん、キスって愛情表現だよ。違わない。だけどちゃんとサンダルフォンに同意取った?」
「いや──」
 言葉と、視線がサンダルフォンに注がれる。サンダルフォンは耐え切れず最後の一つを鍋に入れてきっとルシフェルを睨む。とはいえ、顔は赤らみ涙目で、威嚇も何もなしていない。ルシフェルはきょとりとしている。それどころか体調が悪いのだろうかと見当違いな心配を向けている。
「同意なんて今更でしょう!?」
「……それは、許可ということだろうか」
「い、ちいち聞かなくっても、わかるだろ!」
 言葉を取り繕う余裕も無いほど、そう言い捨ててサンダルフォンはするりとルシフェルの横を通り抜けて行った。どたばたと足音が遠ざかっていく。「逃げた!」と団長が反応を示した頃には足音も聞こえない。ルシフェルは特別な反応をしめさない。いっそ冷静なほどだ。それまでサンダルフォンがいた鍋の前で卵の様子を見ている。焦った様子も何もない。いっそ余裕なほどで団長は不思議になる。ルシフェルのことだから、追いかけるものと思っていたし、なんなら黙ってサンダルフォンを行かせるなんてするはずもないと思っていた。
「追いかけなくていいの?」
「サンダルフォンは真面目で、責任感が強い」
「…………仕込み作業の続きをするために戻ってくるっていうことね」
「それに、今私が追いかけてしまったら、今日は、店じまいになってしまう」
「……あ、そう……それはそれは、ごちそうさま」
 呆れながら、頬杖をついて棚に並ぶ珈琲豆の詰められたガラスビンをぼんやりと眺める。共闘と称して同乗したばかりの頃はビン一つだったものが今ではずらりと並んでいる。立ち寄った島で購入したものや、世話になったからとプレゼントされた珈琲豆だ。今までどこに保管していたのだろうと思っていたら、サンダルフォンは大事に仕舞い込んでいたらしい。喫茶店用にと改装された室内に棚一面に並んでいた珈琲豆の壮観さには息を呑んだものだ。それから珈琲豆の数と同じ思い出を共にしたのかと、改めて思ったのだ。
 キィと極力音を立てないようにしたらしい開け方をして、きまずそうな、申しわけ無さそうな顔をしたサンダルフォンがすごすごと帰ってきたときには思わず吹き出してしまったけど団長はちっとも悪いなんて思ってない。

2019/05/23
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