ピリオド

  • since 12/06/19
 世界は広いらしい。しかし、サンダルフォンにとって世界は研究所というささやかでちっぽけな範囲で完結していた。完結した世界のなかで、ルシフェルだけがサンダルフォンを尊重していた。サンダルフォンの言葉を聞くのはルシフェルだけだった。ルシフェルの前でだけ、サンダルフォンを呼吸をすることが出来た。ルシフェルの前でだけ、サンダルフォンの世界は色付いた。世界がこんなにも鮮やかで美しいのだと教えてくれたのは、気付かせたのは、ルシフェルだった。そして、ルシフェルだけが、サンダルフォンを守ってくれた。ルシフェルがいたから、ルシフェルがいるから、孤独にも耐えることが出来た。天司長だからではなく、ルシフェルだから。天司長のためではなく、ルシフェルのために。役立ちたかった。天司として造られたからだけではなかった。役割を得て、天司として、胸を張って、ルシフェルのために、生きたかった。それだけだった。ルシフェルのために何が出来るだろう、どうしたら良いだろう。焦燥感に駆られながらも一心に、慕っていた。それが、許されないことなんて知らなかった。何も、言われなかった。
 耳にこびり付いて離れない。頭の中で繰り返し、繰り返し、再生される。冷徹な声が嗤笑交じりに口にした言葉。不用品。廃棄。鋭利なナイフのように、サンダルフォンの稚い、守られてばかりの心を突き刺し、抉る。それだけではない。サンダルフォンを絶望の底に突き落としたのは、サンダルフォンにとどめを刺したのは、敬慕していた、いつだってサンダルフォンを見守り、手を差し伸べてくれた御方が、只の一言も、拒絶も否定も、何もしなかったことだ。世界がガラガラと崩れる音を聞いた。
 故意でなくとも、結果として、物陰から盗み聞いていたサンダルフォンには彼らの表情は分からなかった。ルシフェルが浮かべた戸惑いも、躊躇いも、創造主たるルシファーへ向けた逡巡の反抗も、知らない。ルシフェルが初めて抱いた反抗は静かに、ルシフェルの胸の中に押しこめられていた。ただ言葉だけが、いやに大きく、サンダルフォンの耳朶に触れただけだった。サンダルフォンにとって、言葉だけが真実となる。残酷な、ルシフェルの本音となる。否定も、拒絶も、示すことなく、ルシファーの言葉を粛々と受け容れた。それが、サンダルフォンにとって耐えがたい現実であった。
 差し伸べられた手も、掛けられた言葉も、ルシフェルから与えられた有象無象が、ルシフェルへ向ける一切合切の感情が、羞悪に転じる。サンダルフォンの胸を温めてきた、孤独な世界で唯一輝いていた記憶が忌々しいものに成り果てる。



「変わりは無いだろうか」
 ルシフェルの言葉に、サンダルフォンは口角を上げて答える。開け放った窓からは緑の香りそよそとが運ばれる。その香りは珈琲の香りで、掻き消えた。
「なにも、変わりません」
 ルシフェルは、そうかと、安堵したように、深く追求することなく、棘の込められたサンダルフォンの言葉を聞き入れた。いつものように、優雅に、珈琲を口にする。その姿、所作が、全てがサンダルフォンを苛立たせる。奥歯を噛みしめる。
 何も変わっていない。
 サンダルフォンの処遇は、不用品のまま、変わらない。いずれ、いつか分からぬ廃棄に怯えるだけ。不用品という烙印を押されたことは変わらない。変わらない。研究員に声を掛けられ最期のときに怯えることも、変わらない。役割の無い天司は、廃棄あるいは実験に使われるだけだ。実験に使われても、最終処理として、廃棄される。結末は変わらない。サンダルフォンは何時だって、底の知らぬ不安に震えて、恐怖に駆り立てられる。その不安、恐怖から守っていたのはルシフェルだった。それも、すべて今となっては、忌々しい。
「行ってくるよ、サンダルフォン」
 見送りの言葉を掛けることができない。喉に引っかかる。ルシフェルは不安そうな、怪訝そうな表情を浮かべて、けれど、何も言うことはなかった。そのまま、サンダルフォンを置いて飛び立って行った。サンダルフォンは、ああ、そうかと諦めを覚える。ルシフェルにとって、天司長にとって、サンダルフォンという存在は取るに足らない存在であるのだと痛感する。その程度の、存在なのだ。サンダルフォンが抱いた唯一の存在であるルシフェル。だけど、ルシフェルにとっては数多にいる天司の1人でしかない。
 だから、中庭に行くことを止めた。
 惨めになるから。
 ルシフェルに抱く感情がどろどろと淀んでいく。
 部屋に籠り、背を丸めて、膝を抱える。独りになれば、ルシフェルとの思い出が蘇る。ルシフェルとルシファーの会話がリフレインする。「これは珈琲という飲み物だ」「なんの役にも立たん」「きみも気に入ってくれると良いのだが」「不用品」「変わりはないだろうか」「適当な時期に廃棄する」
 ガチャリと、ドアが開いた。のろのろと膝に着けていた顔を上げる。プラチナブロンドに目を細める。蒼い瞳はサンダルフォンを見つめている。ルシファーか。所長自らお出ましとはなと考えたところで、はっと、それが、その人物が、ルシフェルであることに気付いた。
「ルシフェル、さま?」
 なぜ、こんなところに。そう続けようとした言葉は遮られた。



 中庭に行っても、その姿は何処にもない。ルシフェルの言葉にきらきらと瞳を輝かせる姿を探す。おかえりなさいと弾むように迎える声は何処からも聞こえない。ルシフェルの世界は、色を失う。心は動かされない。胸が弾む事は無い。好んでいた珈琲は、彼が美味しいと頬を緩ませた味は、感じられない。彼が発案した抽出方法で淹れた珈琲。あんなにも美味しいと思ったものだったというのに、口の中に広がるのはただただ苦いだけだった。世界は、こんなにも、つまらないものだったろうか。息苦しかっただろうか。その原因が、ルシフェルには分からない。役割に支障はなく、天司長としての稼働に問題はない。異常はない。問題はない。麾下の報告を聞いて、その力を揮うだけ。何も、変わらない。天司長として求められる姿だ。
「天司長、」
「なにか問題でもあったのか」
「い、いえ」
「そうか」
 ミカエルがまごまごと口を噤み。それから、失礼しましたと背を翻す。ルシフェルその姿を確認して、それから中庭へ向かう。もしかしたら。淡い期待を抱ていて、伽藍とした中庭に、目を伏せる。向かい合った椅子の一つに腰掛ける。思い描くことは簡単に出来た。真剣な眼差しで、淹れた珈琲を飲むルシフェルを、不安そうに見つめる姿。美味しいと言えばぱっと輝く顔。その一瞬がルシフェルはたまらなく、愛しく思っていた。ルシフェルの言葉に耳を傾けて一喜一憂する、ころころと変わる表情、豊かな感情は、ルシフェルにとって眩しく、尊い存在だった。彼の顔が曇っているといてもたっても、いられなくなった。その憂いを晴らしたいと思ったのは、天司長だからではなく、ルシフェルの意思だった。ルシフェルは、サンダルフォンの前では、天司長ではなかった。ただ、ひとりの、ひとつの命だった。天司長であることを重みに感じることはない。そのように、造られている。求められるのは天司長であって、ルシフェルではない。それが当たり前だった。けれど、役割を得ていないサンダルフォンは、ルシフェルを天司長として崇めることはない。天司長の言葉としてとらえる事は無い。その関係に心地よさを感じた。
「……サンダルフォン」
 なんでしょうか。首を傾げる姿は、声は、何処にもない。
 息苦しさに、締め付けられる痛みに、ルシフェルは眉根を寄せた。立ち上がる。いってらっしゃいと送り出す言葉を耳にしたのは、何時だったろうか。ルシフェルは何も言葉をのこすことなく、中庭を後にした。



 果ての見えない白亜の柱廊を歩いていたルシフェルに、声が掛けられる。久しく聞いていない声だったが、それはルシフェルが望んでいた声ではなく、期待していた声ではない。
「やあルシフェル。ご機嫌は如何かな」
 片手をあげて笑みを浮かべる姿に、ルシフェルは疑念を浮かべる。そんなルシフェルに、仕方の無い反応であると理解しながら、ベリアルは苦い笑いを返す。
「久しぶりに会ったっていうのに、その反応はないだろう?」
「きみが声を掛けてくることが、珍しいと思っただけだ。なにか問題でも生じたのか」
「いやいや。それは君の方じゃないのか」
「……私に? 何もないが」
 何も、問題はない。
 天司長としての在り方に、役割に問題はないと自負している。
 ルシフェルの言葉に、ベリアルは呆れ気味に肩を竦める。
「そう思い込んでいるだけだろう」
 殆ど同時期に造られたベリアルは、ルシフェルについて客観的に、よく理解をしているつもりだ。副官として共に過ごす時間も長かった。今では所長補佐官と立場は変わり、交流も多くはない。けれど、天司が造られたばかりの黎明期から、長い時間を経ても、ルシフェルに変化は無いことは知っている。進化を司る天司でありながら、ルシフェルという存在は不変であった。感情は豊かとは言い難く、かといってけっして皆無ではなく、確認はできるのだが、天司長という公平さを求められる立場故に、自身の感情を抑圧し、機械のように淡々としている。彼のくだす審判に間違いはない。彼の言葉は正しい。天司長として相応しく、そうあれかしと造られ、彼はそのように振る舞う。それが、とても、つまらない。
 そして、創造主であるルシファーが唯一対等と認め信頼を置いている最高傑作である。ベリアルも認める。天司として、生物として完成された存在である。そんなルシフェルに異変だなんて。ルシファーが聞けば鼻で笑うに違いない。ベリアルもまさかと思ったのだ。勘違いだろうと。
「ミカちゃんから相談をされてね。天司長の様子がおかしいって、俺になら話すんじゃないかだって」
 その姿を思い出して、ベリアルは腹を抱えて笑い転げたくなった。あるはずがない。そして、何よりベリアルに相談を持ちかける、相談をすることに申し訳ないと思いながらもきっと大丈夫だと言わんばかりの信頼を寄せるミカエルの姿が愉快でならなかった。
 ルシフェルは、気付かれていたのか、それほど自分は異常に見られていたのかと知る。ならば、隠しても無意味なのだろう。それに、今のベリアルは副官ではなく、麾下でもない。ベリアルは所長補佐官という立場であり、ルシファーの直属である。ルシフェルは改めて、言葉にする。
「質問をしても、良いだろうか」
「君の求める解答は出来ないかもしれないがね、それでも良ければ」
「構わない」
 ルシフェルは変化を打ち明ける。サンダルフォンについて、そして自身の変化について。それを聞いていたベリアルはによにと笑っていたのが、やがて白けた様子を見せて、呆れたように胸に溜めこんでいた不満をを吐き出した。そして、聞き終えて頭を掻く。ルシフェルは静かにその様子を見ていた。
「それはさ、寂しいっていうんだ」
「寂しい、これが?」
 ベリアルは肩を竦める。造られてどれだけの歳月を経てきたというのか。その中で、芽生えることが無かったのか。ベリアルの言葉に納得をしたようなルシフェルだったが、けれど、問題は解決していない。サンダルフォンという存在がいない限り、寂しいことに、変わりはない。はっとショックを受けたようなルシフェルに、ベリアルはむくむくと育つ悪戯心が押さえつけられない。
「……なんなら駆け落ちでもしてみたらどうだ?」
「駆け落ち?」
「ああ! 立場も身分も全てを投げ出して、愛の逃避行、ってな!」
 芝居がかった動きをしながらベリアルは戯言を口にした。ジョークだ。ルシフェルには出来っこないと決めつけている。ルシフェルがするはずもない事だと、根拠のない、けれど、天司長であるルシフェルが選択するはずもないことだと、分かっている。だから、冗談だ。
「そうか」
 ふむと、ルシフェルが感慨深くといったように頷くものだからベリアルは慌てた。
「おいおい、冗談に決まっているだろ? 真に受けるなよ」
 嫌な予感がした。
 計画の初期段階として叛乱を起こす人員を集めている。その中には、天司長の寵児であるサンダルフォンが含まれている。今が好機だった。ルシフェルに対して疑心を抱いているサンダルフォンは、甘く囁けば、ころりとこちら側に転がってくれる。その手筈を整えるために研究所に戻ってきたのだ。その最中で、ミカエルに声を掛けられたのは誤算だった。そして、その内容がベリアルの好奇心をくすぐったのもまた、予想外だった。
「……ファーさんに、言っておくべきかね」
 ルシフェルと別れ、別れ際に釘を刺し、まあ一応と所長室で報告書に目を通していたルシファーに声を掛けるも、呆れたため息が返された。それから何を言っているんだというように、
「ルシフェルに限って、そんな馬鹿げたことをするわけがないだろう」
 矢張りなとベリアルの想像した通り一言幾変わらぬ言葉が返された。



 扉を背にして立っていたルシフェルに戸惑いと怒りが湧き上がっていた。今更、何をしにきたのだ。今更、なぜ姿を前にしたのだ。きまぐれに憐憫を垂らすのなら、希望をちらつかせるくらいなら、いっそのこと、突き放してくれ。どこまで、弄べばいいのだ。けれど、どれも言葉に出来ない。ルシフェルがサンダルフォンの腕を取り、そのまま引き寄せる。ふらついたサンダルフォンはしっかりと、立ち上がり、ルシフェルの意味の分からない挙動に不審を抱く。
「行こう、サンダルフォン」
「行くって、何処へ行くんですか……。行けるわけがない、許されていない」
 サンダルフォンの羽は、飛行機能を許されていない。広い空を飛ぶことを許可されていない。いつも、見上げるだけだった。見送るだけだった。
「良いんだ、サンダルフォン。構うことはない、許しを待つ必要はない。早く、行かなければならない。彼らとて鈍くはない。気付かれてしまうまえに、早く、ここから出なければならない」
「気付かれ……?」
 いよいよ、訳が分からない。何を、焦っているのか。なぜ、気付かれていけないのか。天司長であるルシフェルが、まるで、ひそひそとする必要なんてないはずだ。そんなサンダルフォンにルシフェルは宥めるように声を掛ける。
「サンダルフォン、今の私は君と同じだ」
「……っ!同じなわけが無い! あんたは、望まれ、必要とされているだろう!?」
「同じだ。きみとて、望まれ、必要とされている」
「そんなわけ、ない」
「私がいる。私が、きみを望む、必要としている」
「……嘘だ」
「嘘を吐く理由はない」
「……あんたは、天司長だろう」
「ああ、私は、天司長だ。天司長だった。今の私は、天司長に相応しくはない。公平さは欠け、無私とは程遠い」
「何を」
 言葉を挟む隙も与えないように、ルシフェルは淡々と告げる。
「君と生きるためなら、私は天司長であることを辞する」
「なにを、何を言っているんだ。あんたは! 俺は、欲しかったものを、求めたものを、捨てるのか!?」
 サンダルフォンは、捨ててほしかったのではない。選んでほしかった。比べてほしかったのではない。手を取ってほしかった。ルシフェルにただ一言、与えられたのなら、それだけで良かった。彼は不用品ではないと、言ってくれたなら。項垂れる。どうして、伝わらないのだろう。分かってくれないのだろう。
「許されるはずが、ない」
 立場を捨てる、なんてだけではない。あの男が、ルシファーが、最高傑作と称した存在をやすやすと手放すわけががない。ルシフェルは目を閉じる。けれど、覚悟に揺らぎはない。
「許されないだろう。だから、何も言っていない」
 裏切りであった。創造主を裏切っている。天司長を慕う麾下を裏切っている。サンダルフォンを選び取ることは、ただ一人を求めることは、ルシフェルの生きてきた全てを喪うことだ。天司長として造られ稼働した歳月の全てが無に帰す。
 天司長としてならば、公平さを著しく欠いている。効率性を考えるならば、立場を考えるならば、役割に反する言動であると十重に承知している。それでも、サンダルフォンを選び取ることに迷いは無くなっていた。
「きみのいない世界は、とても寂しいと、気付いてしまった」
 あの世界で生きることを、あの世界を守ることを、ルシフェルは躊躇った。その躊躇いは天司長にはあってはならない。サンダルフォンは唖然と、ルシフェルを見上げる。これは、本当に、あの、公正無私な、ルシフェルなのだろうか。幻覚なのではないかと、思ってしまった。ルシフェルがサンダルフォンの、腫れぼったい眦に触れる。はっと、サンダルフォンは意識をルシフェルに向けた。
「……何処へ、行くのですか」
 ルシフェルがふっと、表情を和らげる。
「何処へでも。空の果てまで、だって」
「なんですか、それ」
 思わず、くすくすと笑ってしまった。腕を掴む手をそっと解いて、手を取る。
「なるようになるさ」
 そう言って、ルシフェルがサンダルフォンの手を握る。美しい形の手は、熱を持っている。サンダルフォンは、その手を、握り返した。

2019/05/18
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