ピリオド

  • since 12/06/19
 彼女はどこまでも平凡で有り触れた生まれだった。
 両親は恋愛結婚であり、今となっては二人の関係は冷め切っているものの、家族としての関係に問題はない。父も母も不貞を働くような人間性ではない。彼女が思い込んでいるだけで、実際は夫婦間で秘め事があるかもしれないが、それをにおわせることもない程度に、両親の仲は完結している。両親の生まれにしても、とある有名な血筋を引いている、なんて物語のようなことはない。中流家庭の出である。父親は一般企業に勤めて年齢なりの役職で、落ち着いている。母親にしてもたまのランチを楽しみにしている主婦である。
 彼女自身にも特別に目を引く要素はない。
 誰もが羨み、振り返るような美貌でもなければ、学年トップになるような、研究機関から注目されるような天才的な頭脳をもっているわけではない。
 鳶色の髪はさして珍しい色合いではない。生まれながらの癖っ毛をコンプレックスに思った時期もあったが、寝癖が目立たないのは朝の忙しい時間に慌てることもなく、気が楽になると思う様になり、今では受け入れている。目は、髪色と同じく明るい色で紫外線に弱く、UVカットの眼鏡が手離せなかった。胸は特別大きいわけでもなければ、小さいわけでもない。身長は女性にしてはやや高い分類に入るものの、平均身長である。人込みに踏み入れれば埋没するような外見であることは、彼女自身が重々承知していた。
 自分の身丈にあった教育機関を経て、有名ではないものの、堅実な業績を長年維持する地元の会社の営業職として就職をした。事務職を希望していたために当初は嫌々であった。今では営業の仕事に責任も、自信も遣り甲斐もある。
 ぱっとしない、冴えない人生だと彼女自身も思っている。華やかさとはかけ離れており、彼女自身も自分には縁の無いものと切り捨てていた。この先も、父親のようなどこにでもいる、優しさと堅実性が取り柄のような人と結婚をするのだろうかと将来設計をぼんやりと描いている。結婚願望が強いわけではない。ただ、同級生から結婚報告が次々に入ると、そろそろ……と思う様になっていた。だから、取引先の1人として出会った彼に交際と、そして結婚を申し込まれたときにはらしくもなく、動転をしたのだ。冷静を装うこともできず、あわあわと混乱をして、醜態をさらしてしまった。
 仕事上の付き合いでなければ、決して知り合うことも無かったであろう彼に、少なからず憧れは抱いていた。恋愛感情ではなく、アイドルに向けるような、決して手の届くことはないと重々承知している好意であった。嫌われたくはない、とは思っていた。だが恋愛感情を向けてほしい、と高望みをしたことは一度たりともない。仕事をするにあたり、良好な関係を築けたらというささやかな願いだった。
 彼は神に愛された人だった。
 輝くプラチナブロンドに怜悧さをうかがわせる碧眼、シミひとつニキビの跡ひとつとして無い陶器のような肌。容姿だけではない。彼が卒業した教育機関は名門であり卒業生の多くが偉大な功績を残していることで有名であった。彼は同級生の中でも常にトップであったと聞いた。彼自身は自分の容姿や学歴を鼻に掛ける嫌味な性格ではない。驕ることも無い。真摯に人に接する。そして誰もが、彼に惹かれる。物語から飛び出てきたような人であり、華やかな世界でスポットライトを浴びて生きている種類の人間だった。自分とは、真逆だと彼女は思っていた。だからこそ理解出来なかった。そんな人が、自分に恋愛感情を抱くはずがないと彼女が決めつけたのは仕方のない事だった。とはいえ遊びにしたって考えられない。言っては悪いが、女性関係に不自由はしないタイプである。社内だけではなく、取引先にも彼に恋愛感情を抱いている女性は多いのだ。数えきれないほどである。彼女が知るだけでも、企業の顔である学生時代はミスコン優勝経験者である受付嬢や、頭の回転が速く気遣いの出来る社長秘書などが、彼に恋愛感情を抱いているようだった。彼の隣に、よく似合う華やかな女性である。とてもではないが、自分は彼の隣には立てないし、立ちたくない。自分を卑下するつもりはないが、同じ舞台に立つような、選ばれた人間ではない。
 断る、ということには勇気がいる。彼は断られるだなんて微塵も思っていないだろうし、断られたこともないだろう。会社のことを考えれば断ってはいけないのかもしれない。その場限りの恋愛を楽しむような性格であれば記念にと、一度きりのロマンスを承知の上で身を委ねても良かったのかもしれない。彼女はどこまでも真面目で几帳面だった。同じ感情をもたないまま付き合うのは不誠実であるし、彼女は嘘を吐くのが下手である。彼は、私情を挟むことはない。会社にとって不利益はない、と彼女は信じたい。彼の誠実さを信じたい。担当は変わらざるを得ないだろうと覚悟をしていた。
 彼女の言葉に彼はそうかと言って驚いた素振りもなければ、悲しんだ様子もない。告白もなにも無かったかのような、振る舞いに彼女こそ、まごまごと、狼狽えてしまった。勘違いだったのかと、顔から火が出そうなほどに赤らめ羞恥に消え入りたくなるのを耐えて、彼の言葉を待っていた。いっそ笑い飛ばしてくれれば、笑い話にしれくれればと虚しく願う。一秒が永遠のように感じる、長い沈黙だった。
「理由を聞いても、良いだろうか」
 勘違いではないことにほっとしながら、追求をされたことに口の中が乾いた。縺れる舌で、言葉を選びながら、恋愛対象として見たことが無かったということを、オブラートに包みながら伝える。
「これからも見れないのだろうか」
 戸惑う。好意を伝えられて、意識しないなんて器用なことは出来ない。仕事上の付き合いと割り切れるほど感情の切り替えが出来ない。それが、伝わったのだろう。彼に食事に誘われるようになった。休みの日にも声を掛けられて出かけることが増えた。仕事外で接する彼は理想の男性像そのままの優しく、誠実で、紳士だった。基から抱いていた憧れだけだった好意は、じわじわと、恋心となり、育つまで時間は掛からなかった。正式に、結婚を前提に付き合うことになると改めて彼は自分とは異なる世界に住んでいるのだと知った。由緒ある血筋に自分が加わることを恐れても、彼は気にする事は無い、既に両親はいない、唯一の肉親である兄も血筋に拘りはないのだと、彼女の不安を取り除くように優しく言葉を掛けた。彼の言葉通り、彼の兄は家柄や学歴にこだわりがないようだった。双子だろうかと思うほどに瓜二つな彼の兄は、ただ、彼女を見て僅かに驚いた様子を見せてから、弟に視線を遣り、重く、息を吐き出しただけだった。その息の理由を察することは出来ない。矢張り自分では相応しくないのだと縮こまった。
「気にすることはない。兄は、気難しい性格で、今は研究が立て込んでいて、少し気が立っているだけだ」
 顔を合わせてからも、特に彼との関係に変わりは無かった。結婚を認めない、別れろなんてことも一切言われていない。それどころか、認めるもなにも無く、無関心であるようだった。一人っ子の彼女には兄弟関係の距離感はわからず、兄弟仲がもしかすると悪いのではないかと勘繰ってしまった。彼からは否定をされた。昔から変わらない関係であるらしい。結婚をしてからも、彼の兄から何かを言われたことはない。彼が会社を立ち上げるときですら、手出しも口出しもなかった。
 昔からの部下数名と立ち上げた会社は、立ち上げ当初から軌道に乗り、瞬く間に支社を幾つも抱える大企業となった。社長夫人、という大層な身分になった。セキュリティが厳重なタワーマンションの最上階に住むようになっても、実感はわかなかった。夢を見ているのだろうかと、もしかすると事故にあって病院のベッドで昏睡状態になっているのかもしれない。そんなことを、考えてしまう。あまりにも自分の身の丈にあっていない幸せばかりで、穿ってしまう。そんな自分に、呆れた。
 夫は忙しくなっても変わらず優しい人である。麗しい女性に言い寄られても妻がいるからと断っている。浮気の心配なんてしていない。彼に、愛されている。彼の傍に、隣にいる権利を持っている。彼女のプライドであった。
「ただいま」
 読んでいた雑誌をおいて、あわてて玄関へと向かう。携帯端末に連絡は無かった。珍しいことだった。彼は遅くなるようなら連絡を入れるし、帰宅にしても何時ごろにはと細やかな連絡をいれる。何も連絡がなかった。時計を見ればいつもよりも少し早い帰宅であった。サプライズ、だろうか。
 おかえりなさい、と出迎えようとした声は尻すぼみになる。
 見知らぬ子どもが、其処に居た。夫である彼の後ろに隠れるようにして、彼のスーツを握りしめ、視線を大理石の床に落としてじっとしている。その子はどうしたの、という言葉に彼は優しい顔で、その子供の頭を撫でながらうっとりと応える。
「サンダルフォン、という。この子を養子として引き取ろうと思ってね」
 サンダルフォンは小さな子どもだ。就学する年齢にも達していないような華奢でか細い。鳶色の癖毛に、柘榴色の瞳。愛らしい子どもであった。
 彼女の許可もなにも取らず、彼は決めてしまっていた。思ってね、と言いながら既に引き取る手はずは終えていた。引き取ること自体は彼女も仕方ないと思っていた。子ども好きだと、知っていた。結婚前から子どもが欲しいと言っていた。それも、男の子が良い。夢を語るように告げられた。産まれる子どもとしたいことがあるのだと、何をしたいのか、それだけは教えてくれなかったものの、自分に出来ることならと、彼に早く、子どもを見せたいと彼女なりに頑張ったのだ。けれど、結果は得られずに何年も経っている。まだ、互いに若いのだから焦ることはないという慰めが胸を抉った。何時しか、彼がぴたりと子どもについて語ることも無くなった。案じているのだろうと、思っていた。ただ、何もかもが急すぎて、頭が追い付かないでいる。
「きみに迷惑を掛けることはない。安心してほしい。おいで、サンダルフォン。今日から此処が君の家だよ」
 サンダルフォンを抱き上げた彼は、彼女の説明を求める声なんて聞こえていないようだった。サンダルフォンは戸惑いながら、視線の近い彼と、戸惑っている彼女をしきりに見比べている。彼女は、呆気にとられる。妻である彼女も忘れたように、彼は、浮かれているようだった。サンダルフォンにことばを掛けている。子どもに、罪はない。自分に言い聞かせた。
 彼の言葉通り。サンダルフォンが彼女に迷惑を掛けたことは無い。掛けることがないのだ。会社には保育所があるからといって平日は家に一人であるし、出張で家を空けるときはサンダルフォンの勉強になるだろうから、視野が広がるだろうと言って連れ出している。休みの日も家を空けることが多い。何をしているのだろうと、口を挟むすきすら与えない。困惑や戸惑いは形を潜め、面白くない、気に食わないという不満が浮かび上がる。はっとして、自分の心の狭量さ嫌気を覚える。今の立場ならば、社会的地位があるものが慈善事業として恵まれない子どもを支援する責務があることを、彼女は理解している。サンダルフォンの親や、親戚筋について、それどころか何処で出会ったのかすら、なぜサンダルフォンを選んだのかすら、彼から告げられていない。除け者にされているような、物淋しさ。
 彼は、優しい人だ。
 最初の言葉通りに迷惑をかけないようにとしているのだと自分に言い聞かせる。それに、3人で過ごすことも少なからず、勿論、ある。彼女が作った食事を彼らが食べる。彼がサンダルフォンに今日はなにがあったのかを聞けばサンダルフォンはまごまごとしながら、ささやかな、楽しかったことを告げる。彼が嬉しそうにして、その光景を見ると、彼女も微笑ましくなる。サンダルフォンは「お父さん」「お母さん」と呼ぶ事は無いが、無理に言わせることはないと、思っている。彼だって、生活が急に変わってしまっているのだから。いつか「お母さん」「お父さん」と呼んでもらえるようになれば、この感情も落ち着くに違いない。自身に、言い聞かせる。そうでなければ、正気を保てない。彼女は、平凡である。凡愚であった。
 十年経っても変わらぬ関係だ。
 仲の良い、親子関係を築いている。瑕疵の無い関係である。サンダルフォンは利発に成長をした。反抗期もなく成長をした彼を、後継者として、育てているのかすら、彼女は何も知らない。彼とサンダルフォンは社交界に溶け込んでいる。呼ばれるパーティに、サンダルフォンを連れて回っている。彼女が呼ばれることは殆ど無かった。パーティがあることすら、知らない。自分は、世間にどう思われているのか。妻としての役目を果たさない、母としての役割もこなせない女と思われているのではないか。彼女は、何もしていない。することはない。誰も、何も求めない。
「出かけるのかい?」
 友人と食事をする約束を前から取り付けていた。彼が休みの日だと分かっていたものの、いつものように、二人で出かけてしまうのだろうと思っていたら、その日に限ってなのか、二人は出かけることも無かった。出かける様子もない。
「楽しんでおいで」
 本音を言えば、引き留めてほしかった。それでなくても、誰と出かけるのかということに興味を持ってほしかったのだ。信頼を、されているわけではない。信頼どころではない。関心を向けられていない。一緒だった。彼の、兄と。ぞっとしない。彼の関心は全て、養子として引き取ったサンダルフォンに向けられている。ちりちりとした嫉みを押さえつける。
 友人たちとの食事は、味気なく、会話は気もそぞろだった。楽しみにしていたのに、家のことを忘れようとしていたのに瞼に焼け付いて離れない。リビングを出る間際、彼の、サンダルフォンを見る眼差し。浮かべるほほ笑み。触れる手つき。向けられたこともなければ見たことも無い、見知らぬものであった。サンダルフォンに向ける視線とて、子を慈しむようなものではない。慈愛の一言ではなかった。あの視線は──そんなはずがはない。友人たちのどうかしたの、という心配した声になんでもないと答えた。言えるはずがない。考えすぎだ。
 勘違いだ。見間違いだ。あるはずがない。
 彼は誠実である。彼は清廉である。彼が「間違い」を犯すはずがない。
 帰ろう。
 いつも通りに、夕飯を作って3人で食べよう。
 久しぶりにあった友人との時間を切り上げて、店に駆け込み、食材を買いこんだ。何を作ろう。パスタでも良い。ハンバーグでも良い。オムライスでも良い。メニューも決めずに、カゴに食品を詰め込んだ。品質の期限も確認せずに、何を買ったのか自分でも把握していない。何人家族なのだろうと言うほどに買い込んでいた。
 家族だ。私たちは、家族だ。血の繋がりはなくても、家族なのだ。
 何時もみたいにサンダルフォンの話を聞いて、彼がにこやかで、私はそれが嬉しくて、見守る。それで良い。それ以上の幸せなんていらない。ちっぽけな、彼女の幸せ。
 家はしんとしていた。ただいまと、声を掛けることも忘れて、拍子抜けをする。なんだ、結局、出かけていたのか。ほっとしたような、もどかしいような思いを抱きながらキッチンへと買い込んだものを運ぶ。落ち着けばどうしてこんなに重いものを何も感じずに運んでいたのかと不思議でならない。火事場の馬鹿力というものだろうか。そこまで切羽詰まっていたのだろうか。何時もの休日だと思えば、身体中を張り巡っていた緊張の糸が緩んだ。
「ッ」
 物音に、出かけていなかったのかとどきりとした。泥棒なんて疑いは無かった。高層マンションの最上階で、セキュリティも厳重でありフロントにはコンシェルジュも常駐している。住人でなければ入ることはまず、出来ない。
「……アッ!」
 吐息まじりの上擦った声は、甘く、毒のように耳にこびりついていた。思い違いと吐き捨てる事の出来ない、甲高い声を上げた主は、きっと、あの子だ。
 声は、寝室から聞こえた。
 寝室の扉は、僅かに開いていた。
 警鐘が鳴る。
 行ってはならない。
 知ってはならない。
 触れてはならない。
 戻れなくなる。
 キングサイズのベッドは結婚をした当初に買ったものだ。今では独り寝をしている広いベッドの上を、絡み合っている、人影。うっすらと筋肉のついた、しなやかな脚が、空を蹴りあげる。背を向けている、プラチナブロンドの主も、その背中にしがみついている手の主も、十余年、見知っている。
 胃液が、込み上がる。何をしているの、なんて声を荒げることも出来ない。部屋に入ることもできない。よろよろと、後ずさり、口元を抑えて、逃げ出していた。
「いたっ」
 どこで、足を切ったのだろうか。そもそも、何処でスリッパが脱げ落ちて、裸足になっていたのだろうか。冷たいアスファルトの上で冷静さを取り戻していた。正気に戻った、ともいえるのだろう。これからのことを考えなければならなかった。彼を、詰ればいいのか。あの子を、責めればいいのか。いっそ、見なかったことにして──それで、あのベッドで何食わぬ顔で、眠れというのか。酸っぱいものがせり上がり、背を丸める。
 家には、帰れそうにない。
「あぶない!」
 切羽詰まった声に顔をあげて、眩むような、痛いほどの光。
 それが、最期に見たもの。

2019/04/20
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