ピリオド

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 心が弾む目覚めで一日が始まった。すっきりとした頭で、窓の外を見れば雲一つない澄み切った青空が広がっている。天気が崩れる気配は無さそうだった。洗濯物がよく乾くだろう。気分をよくしながら、何時ものように淹れた珈琲は、とびっきりに美味しく感じた。選んだ珈琲豆も湯の温度も何もかも変わりはないのに、まろやかな舌触りにすっきりとした酸味。今日は、良い日になるのだろうと思った。
「サンダルフォンさん! カリオストロの部屋に来てくれる?」
 きゃるんと声を弾ませて、自身が最も可愛くなる角度で小首を傾げるカリオストロに、サンダルフォンは不気味なものを感じた。胡乱なものが隠せていなかったサンダルフォンの反応は、カリオストロのお気に召すものではなかったのだろう。カリオストロは美少女の仮面を殴り捨て、舌打ちをした。それを食べ終わったらすぐにオレ様の部屋に来いと言うだけ言って部屋を出て行った。サンダルフォンの事情なんてお構いなしだ。ただ食べ終わるのを待つだけの優しさがある。正午を回ったばかりの喫茶室に人はいない。食事なら食堂で、だ。サンダルフォンは軽食用に試作していたサンドイッチを手にして嵐のように過ぎ去った背中を見送った。ぽろりと、挟んでいた卵が崩れて皿に落ちた。量の配分は、もう少し、抑えてもいいかもしれない。それから、少しだけ急いで食べる。
 もしかして自分は押しに弱いのだろうかと、数千年生きてきて、ここ最近で自覚をした。
 呼び出された、カリオストロの部屋に向かう。
 久しぶりに停泊をしていた。団員たちの多くは街に繰り出しているようだった。騎空挺に残った団員たちは少なく、今の時間であるならば食堂にいるのだろう。誰ともすれ違わないことへの違和感は無かった。カリオストロに呼び出されるなんて、何かあっただろうかとサンダルフォンは考える。一向に慣れることのない騎空挺での移動による乗り物酔いや、慣れない調理にと慌ただしい日常の中で、肋骨を抜き取れられたことはすっかりと忘れていた。
 天司について聞きたいのだろうか。珍しいとはいえ、この騎空挺には度々天司が姿を現している。天司に関することならば、今更なことのように思えた。
 役割を空の世界へ、自然へ返還した今となっては思い思いに、生を謳歌している。特にガブリエルがグランサイファーに顕現することは多い。元々空の世界、空の民の生活にしれっと紛れ込むほどに、空の民を、空の民の営みを好んでいるのだ。ロゼッタやカタリナと飲み明かしているし、サンダルフォンの顔を見るついでと言って珈琲を求めて喫茶室を訪れることも多々ある。時には殆ど無理矢理、ミカエルを連れてくることもある。星晶獣も空の民も関係なく、すっかり団員たちに馴染みつつあるガブリエルに呆れながらも、ミカエルも悪い気分ではなさそうで、湯水のように酒を煽るガブリエルにほどほどになと苦く笑っている。ラファエルは自身の持つ医療知識と空の世界における医療技術を合わせて先の戦いで傷ついた同朋達の治療をしている。ウリエルは、迷子のようにどうしたら良いのだろうとぼんやりとしているサリエルの世話を焼いている。ハールートとマールートは回復しつつあるアズラエルとの生活を楽しんでいる。誰もが、定められた役割の無い、ただの命となって、自分の意思で、歩いている。
「よし、逃げずに来たな」
「きみが呼んだんだろう」
 部屋を訪れて、そういえば少し前に肋骨を抜き取られたのだった、ということを思い出す。思い出せばちくりと傷も無いはずの腹が痛みを訴えた。以前に訪れたときとは見違えるほどに少女テイストに整えられた部屋は居心地が悪い。レースカーテンやぬいぐるみなんてものは、サンダルフォンにとって馴染みが無い。いっそ足の踏み場もない以前の部屋のほうが、と思ってしまうが、生憎と少女テイストに甘ったるい部屋がカリオストロのデフォルトだった。だってこの方がカリオストロに似合うでしょ? とは本人の言葉である。そして本性を知らなければ似合ってしまうのだから何も言えなくなる。
 サンダルフォンの咄嗟に出たのだろう買い言葉のような反応を鼻で笑ってから、カリオストロは座っていた豪奢な椅子から立ち上がる。こつり、と踵が鳴った。それから天蓋付きの寝台を指してから、
「オレ様からのプレゼントだ。そうだな……天司長就任と、開店祝いってところか」
 そう言ってふふんと不適に笑う。何を言ってるんだか、と思いながらたっぷりのレースカーテンが垂れている寝台に、サンダルフォンは近づく。近づくにつれて、眠っている誰かに気付き、そして、目を見開いた。
 カリオストロは何も言わない。自信満々と言った風に、挑発的な視線をサンダルフォンに向けていた。
 寝台の傍らに、膝をつく。息を呑む。呼吸を忘れる。広いシーツの海に横たわるその人が、幻なのか、現実なのか、把握できなかった。
 白銀の髪。縁どる長い睫。閉ざされている瞼の色は想像に容易い。声は忘れていない。忘れられない。いってらっしゃいと背中に掛けられた、小さくなる最後の言葉。いつの日かただいまと言うために、彼の下へ胸を張って帰るために、空の世界で生きるつもりでいたのに。
 サンダルフォンは、伸ばしかけた手を引っ込めて、また伸ばしてと繰り返してから、おそるおそると、触れる。彼に触れたことも、触れられたことも数える程しかない。容易に触れてはならない人だった。許されない人だった。それでも数えるだけ、事故のように、偶然のように触れたことをサンダルフォンは覚えている。あの温もりを忘れたことはない。胸に抱きかかえたあの重みを忘れていない。
──ルシフェル、さま
 閉じられていた瞼が反応を示す。
 茫洋とした青い眼が彷徨い、やがて、サンダルフォンを見上げる。
「サンダルフォン……? なぜ、私は……? ここは、いったい……?」
 不思議そうな声音。サンダルフォンはルシフェルの手を取る。あたたかい。生きている。
「おはようございます、ルシフェル様」
「……? おはよう、サンダルフォン」
 サンダルフォンの言葉に首を傾げながらも、ルシフェルは応える。サンダルフォンは笑みを浮かべながら、じんわりと滲んだ視界を、誤魔化すことも出来ない。体の内側から溢れる喜びを抑えられない。言葉に出来ない喜びは涙になって、ほろほろと零れていく。ルシフェルが目を丸くして、空いている手でサンダルフォンの眦から零れるものを拭いとる。拭っても、拭っても、溢れていく。
 身を寄せ合う二人を見つめる。
 扉の横で腕組みをしていたカリオストロは一仕事を終えた充実感でいっぱいだった。それは扉の隙間から様子を伺っていた団長たち十数名も同じだろう。
「……これでハッピーエンドだろ? どうだ?」
 成功を確信していた。肉体に宿る精神性はかつてカナンにて喪われたルシフェルに違い無いという自信があった。それでも、万が一、たとえばルシファーの意識である危険性、にと備えていた団員たちがぐずぐずと涙を流している。ただ彼らもルシフェルであると信じていたので、殆どがデバガメであった。口ぐちに良かったと安堵に涙を漏らしている。カリオストロはオレ様の活躍はやっぱり無視かよと口を尖らせながら、天司二人を見ると、仕方ないなと思ってしまう。そして、苦労が報われたものだと満足に笑う。
 ルシフェルはまだ事情が呑み込めていないようだった。困った顔をするルシフェルにサンダルフォンは泣きながら、笑った。
「おかえりなさい。ルシフェル様」
「……ああ、逆になってしまったな」
 ルシフェルは眉を下げながら、それでいて嬉しそうに言った。
「ただいま。サンダルフォン」
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