ピリオド

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 包み込んでいた繭が、はらり、ひらりと、崩れていく。零れていく。揺り籠を形成していた純白の羽が無機質な床下に広がっていく。幾重にも重なっていく。
 羽化の瞬間だった。
(やっと、やっと……)
 ルシフェルが、彼にとっての最善を尽くした天司が、生まれようとしている。この世界で、生きようとしている。
 待ち望んだ瞬間に、居合わせる幸福。手を出すことは許されない。立ち尽くし、瞳に焼け付けるしか出来ない。ルシフェルにとって見慣れた羽化の瞬間だというのに、尊く思えた。永遠のように感じる瞬間だった。同時に、祈る先も知らないというのに、どうか無事にと希っていた。
 経過に問題は無かった。これまでのデータ上、これから問題が起こる確率も皆無であると計測されていた。だというのに、ルシフェルは落ち着くことが出来ないでいた。何度もデータを確認しているのに、安堵を覚えることが出来ない。焦燥感に駆られる。計測結果が覆ることは皆無であるというのに、もしかしたらという最悪のケースが脳裏を過る。結果を、そうかと、頭の片隅に取り留めることが出来ない。ルシフェルの預かり知れぬ所で、この繭に危害が加えられるのではないか、研究所が襲撃をされるのではないかと今まで起こったこともないケースを想定しては、ざわざわと胸が騒がしく、居ても立ってもいられなくなる。まだその時ではないと分かっている。稼働まで、目覚めるまで、まだ時間が必要だと分かっていてもなお、
「早く会いたいものだ」
 声を掛ける。返事なんて、当然のように無い。分かっているのに、声を掛けずにいられない。聞こえているのだろうか。名前を呼び掛ける。
「サンダルフォン」
 呼びかけるたびに、焦がれる。
 何もかも、初めてのことだった。待ち遠しい。羽化の瞬間に、思いを馳せた。姿かたちをデザインしているのだから、知っている。どのような姿をしているのか。けれど、意思をもって動く姿が見たい。想像の彼ときっと違うのだろう。彼は、何に興味を示すのだろうか。役割が与えられていない彼と、どのような関係になるのだろうか。期待と、不安が入れ混じっていた。時間を見つければ揺り籠の前に立ち尽くしている。報告意外で立ち寄ることのなかった研究所に、足繁く訪れるルシフェルに、ルシファーは呆れていた。ぽつりと、苦言を零すほどだった。
「麾下に示しがつかん、天司長が何をしている」
「天司長としての責務に、麾下への指示に、滞りは無い。問題は起きていない」
 太い歎息を漏らしたルシファーは、仕様がないとでもいうように言った。
「失敗をしても構わんと言っているだろう。咎めはしない。また造り直せばいい。素材なら幾らでもあるからな。……まあ、次に造るときには、肋骨を使うなんてこと、するなよ」
 ルシファーはルシフェルが自身の肉体を削いだことを静かに、根に持っている。許せないでいる。まさかそんなことをする、だなんて、露とも思わなかったのだ。自由に天司を造れと命じ、禁止事項も設けなかった。設ける必要がなかったのだ。ルシフェルがそんなことを仕出かすだなんて想像も出来なかった。ルシフェルはルシファーが最高傑作と呼ぶに相応しい天司だ。その肉体は凡庸な素材よりも価値がある。代わりの利かない、対等と認める、唯一の存在である。だからこそ、ルシフェルがルシファーの真意から外れたことを、認めることが出来なかった。
 ルシフェルにはルシファーが気を悪くした理由が理解できない。なぜ其処まで嫌悪しているのか、察することが出来ない。肉体を損なわせたことだろうか。とはいえ、肋骨一本に過ぎない。稼働に支障はない。ただ、してはならなかったのだろうとぼんやりと思っている。そこに、後悔は欠片も抱かなかった。それどころか、満足感すら抱いている。
 ルシファーの言葉は何度も耳にしたというのに、ルシフェルに悪寒を走らせる。天司を造る間際に、ルシファーが言っている言葉だった。初めて、友と呼ぶことを許された男が、創造主である男が、理解の出来ない、得体の知れない怪物に思えた。ルシフェルには、出来ない。造り直すなんて、考えたくない。失敗なんて、おぞましい結論を付けたくない。
 もしも、仮に、新たに天司を造り直せと命じられても、ルシフェルが造ることが出来ない。命令として造ることになっても、サンダルフォンに掛けた情熱を注ぐことは出来ない。
 造り直された天司は、それは、サンダルフォンではない。
 ルシフェルにとってのサンダルフォンは、彼一人だけだ。
 これから先、永遠に。
 受肉をする場面に立ち会ってきた数は両手両足だけではとても足りない。注意事項も踏まえている。受肉したばかりの肉体は脆弱で、骨組みは脆く、細心の注意が必要である。不用意に触れてはならないのだと知っている。硬化が完全になるまで触れてはならない。触れてしまえば、呆気なく崩れ去っていく。砂のようにほろほろと壊されていく。崩れていく光景を、見たことがある。興味本位に触れられた肉体が、零れ落ちて行くのだ。あーあと、研究者が残念がっていた。それだけだった。憐れみなんてちらりとも無い。ただの感想を呟いていた。何をやっているのだと言う声は責めるよりも、叱りつけるよりも、呆れが大きい。また造り直すぞと誰かの声。やれやれと言う誰か。彼らにとって、崩れ去った、天司だったそれは、廃棄物でしかない。失敗作でしかない。天司になれなかったそれは、名前を呼ばれることもなく、この世界を認識することなく、処分をされた。
 天司とは、その程度なのだ。時間は掛かれども、造り直せる。固執する必要のない、道具なのだ。
 ルシフェルが待ち望んだ天司は、生きようとしている。伸ばしかけた手はルシフェルの意思でありながら、無意識だった。慌てて、押さえつける。空気に触れていた肉体が、ゆっくりゆっくりと硬化していく姿を、固唾を呑んで見守ることしかできない。何もすることが出来ない。歯痒さを覚える。駆け寄りたい。手を取りたい。無事を確認したい。
 口の中が乾いていく。
 やがて、くぐもった音が漏れた。投げ出されていた四肢が、ひくり、と動く。緩慢な動作で、起き上がろうとしている姿。硬化が終わったのだと、知らず、詰めていた息を吐き出した。ルシフェルは、はやる気持ちを抑える。そっと、彼の傍で膝をつく。床下に広がる羽の上。生まれたばかりの天司の茫洋とした目が、ルシフェルを映し出している。
「おはよう、サンダルフォン」
「ぉ……は、よう?」
 たどたどしい声だった。サンダルフォンの意思は感じられない。ルシフェルの真似事をしているに過ぎない。ルシフェルのことを、天司長とも認識出来ていない。研究者がいれば眉を顰め、失敗作だと判定されるような、拙い言語、及び思考能力であった。けれども、ルシフェルにとっては福音のように、耳朶を打つ。
 手を伸ばす。意識がはっきりとしていないサンダルフォンは成すがままであった。ぼんやりとその手を受け容れている。肉体を保護していたぬるりとした粘液が、手にまとわりつく。条件反射に、サンダルフォンがルシフェルの手を握りしめた。か細い力。ルシフェルの中で抵抗感はなかった。サンダルフォンに触れることの出来る喜びが勝っていた。触れられている。昂揚感。返されている、彼の意志がある。鼓動が速まる。繭越しに触れていた温もり、鼓動は今ここに、存在している。至上の喜びに触れている。造っているときから抱いていた感情が、さらに積み重なっていく。
 歓喜に、声が震えた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
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