ピリオド

  • since 12/06/19
 日中の喧騒とは打って変わって、しんと静まり返った真夜中の時間が嫌いでなくなったのは、おそろしいと思わなくなったのは、本当に最近のことだった。夜が怖かった。何度も絶望を繰り返しては、確認をして、目覚めては、背中を丸めて、犬のように浅くなった呼吸を落ち着かせた。冷たい汗をかいて、震えた。ごろりと落ちる首は、サンダルフォンの罪の形であり、罰であった。毎夜繰り返される悪夢。眠ることが恐ろしく、夜が来なければと願った。今となっては、世界に独りぼっちに取り残されたような心細さを感じることはない。暗闇を恐れることはない。
 サンダルフォンは光を宿している。
 朝陽よりも尊い光。煌めく月光よりも美しく、輝く光。失うことのない唯一にして永遠の光を灯している。だから、明日に思いを馳せることが出来る。明日を待ち望むことが出来る。最期の瞬間まで、歩み続けることができる。
 ただ、そこに一人、欠けていることに目を背けている。
 いってきますと言っておきながら、大丈夫なのだと胸を張っておきながら、何処かで、ふとした瞬間にあの人の面影を探している。あの場所で、振り返ることが出来なかった。振り返れば、決心が揺らいでしまいそうだった。躊躇った。取り留めのない言葉を何度も紡いだ。引き留めてほしかった。けれど、見送ってほしかった。
 あの場所で、あの御方は、何を思っているのだろう。何を思ったのだろう。
 中庭で、自分は思っていた。早く逢いたい、早く戻ってきてほしい。烏滸がましいことに、戻ってきてほしいだなんて、考えていた。戻られる瞬間に思いを馳せて、寂しい気持ちを塗りつぶしていた。サンダルフォンと呼びかける声を待ち望んだ。見送る背中に、行かないでほしいと縋りそうになった。手を伸ばしたかった。本当は、一緒に連れて行ってほしかった。連れ出してほしかった。出来ないと分かっていた、許されないと知っていた。口に出来ずにいた願いだった。
 引き留めるために、中庭で過ごす時間を伸ばそうとあれこれと努力をしたものだ。ここが分からなかったと本を引っ張り、空の世界についての話を強請り、珈琲の研究成果の報告をした。気を引きたがる子どものような拙い手段であった。ルシフェルは笑みを浮かべて、ひとつひとつと、呆れることなく、真摯に付き合ってくれた。サンダルフォンの意図なんて、分かっていたのだろう。サンダルフォンは、ただただ嬉しくて、その優しさに甘えていた。
 珈琲を淹れる。あの御方との思い出が詰まっている。淹れるたびに、そういえばと思い出す。最初に感じ取った味。未知の刺激。苦味の中からほのかに感じ取れたうま味。美味しいと思えるようになった瞬間。振る舞う瞬間。二人で考えた珈琲の淹れ方。一人で試した淹れ方。あの御方が淹れてくださった味。愛しさばかりが詰め込まれていた中庭の時間。美味しいよと言われる瞬間。美味しいですと思ったままのことを口にした瞬間。香りと連結しているのだろう、思い出は優しくサンダルフォンを包み込み、そして現実を突き付ける。
 美味しいと、本当に言ってほしい人はいない。サンダルフォンが世界で一番美味しいと思う珈琲はこの世界に無い。考えてしまう。もしも、隣にあの人がいたのなら、共に喫茶店を営むことが出来たのなら。夢想にふける。考えては、どうにもならないことなのだ、終わったことなのだと思い知らされる。あの優しい居場所を振り払って、あの御方の優しさから、絶対的な安息地から飛び立った。サンダルフォンが選んだ場所は、この空の世界である。この空の世界で、生きていくと決めたのだ。頂いた言葉を胸に刻んでいる。後悔はしていない。してはいけない。なのに、ふとした瞬間に面影を探すのは、探してしまうのは。
「サンちゃんは、ルシフェルさんの肋骨で造られているのですね」
 テーブルを拭きとっていた手を止めて、怪訝な顔を向けてしまう。
 水を吸った布巾は冷たい。早く終わらせてしまいたい。
 こんな時間に団員は来ないだろうと、立ち寄った島で新たに入手した珈琲の試飲をしている最中に訪れた男は、にこやかに珈琲をお願いしますと言って居座っている。時間を考えろとか言いたいことは山ほどあるが、仕方なく、淹れてしまう。飲み終えたらさっさと出ていけと言ったものの、ルシオは一向に飲み終わる気配を見せない。冷めてしまう、味が落ちてしまうと、そわそわとする自分を誤魔化すように試飲を止めて、一心に清掃をしていたのだ。声を掛けるなとでもいうように。サンダルフォンの思惑なんて知ったことではないように、ルシオはにこにこ顔でサンダルフォンの動きを見ている。視線を鬱陶しく思いながら、反応してはいけないと過去の経験から学び、じっと耐えて、清掃作業をしていた。
 騎空挺の一室を借りて試験運営中の喫茶室は有難いことに好評だった。
 誰が広めたのか、もっともサンダルフォンが珈琲を振る舞ったのは極僅かでしかなかったのだが、サンダルフォンの淹れる珈琲が美味しいのだということは知れ渡っている。団員たちが引っ切り無しに訪れる。また来たのかと口では言っておきながら、迎えるサンダルフォンは嬉しさを隠し切れていない。美味しいと言われて、悪い気持ちになるはずがない。もっと美味しいものを淹れてやろうと、根は真面目なサンダルフォンは人知れず、張り切って珈琲の研究に勤しんでいる。幼い団員たちにも飲みやすいようにと作った珈琲牛乳は好評で、きらきらとした目で美味しいと言われてサンダルフォンの胸に温かなものが込み上がる。子ども用にと作った珈琲牛乳を厳つい顔をした団員が飲んでいるときには驚いたものだが、からかう気持ちは無かった。団員たちの好みを把握しだしている。アイツは酸味が強いものを好む、アイツは珈琲が苦手な癖に格好を付けたがっているから飲みやすいものを用意しないといけない、アイツの好みならば……。今は珈琲だけだが軽食も出そうかと思っている、と団長とルリアに相談をしてみれば二人は楽しみにしていると、相談段階だというのに決定事項のようにとらえてしまって、サンダルフォンは気が早いぞと笑った。主調理室を預かる団員たちからも好意的で、サンダルフォンは改めて自分は恵まれていると思ったのだ。今まで見ないふりをしてきたのだと、気付いてしまった。団員たちの話し声を日常として受け入れて、この日常が長く続くことを祈る。願う。とはいえ、サンダルフォンも心から歓迎出来ない存在がいる。
 決して、邪悪な存在ではないと分かっている。
 決して、害のある存在ではないと分かっている。
 決して、サンダルフォンの仲間を傷付けることはないと分かっている。
 分かっていることと、納得は、別問題であった。敬愛する御方とそっくりな顔にはどうしたって思うところがある。その顔で、美味しいと褒められると、勘違いをしそうになる。その顔が笑みを浮かべると、どうしたって胸がざわついて仕方がない。ルシオが悪いわけではない。サンダルフォンが彼とルシオを切り離せないでいる。全くの別人だと分かってはいるのだ。ルシオの振る舞いは、とても敬愛する記憶の中のルシフェルとは結びつかない。だというのに、欠けたピースを埋めようとするように、当てはめようとしている。ルシオに対して不義理であるし、また、ルシフェルに対して不敬である。何より自分が許せない。
 ルシオはサンダルフォンを置いてきぼりに、自分の言葉に得心が行ったとでもいうように、ひとりうんうんと頷いている。サンダルフォンの視線に気付いているのか、気付いていながら気に掛けていないのか。サンダルフォンはうんざりと声を漏らした。関わりたくはないのだが、気になってしまう。気になる言葉を口にしたルシオが悪いのだ。独り言ならもっと小さく言ってくれ。
「意味が分からない」
「そのままの意味です。サンちゃんを構成する一部として、彼の天司長が加えられているということです」
「……あの御方の力を継承した、という意味ではないのか?」
「いいえ。もっと本質的な……肉体を構成する素材として、ですよ。貴方を造る際に自身の肋骨を混ぜ込んだのでしょう」
「なぜそのような事を? 仮にそれが事実だとして、君が何故知っている? そもそも、肋骨なんていうピンポイントなものなんだ?」
 彼に言ったところで無意味だと分かっていながら、つい、口にしていた。彼がルシフェルの真意を知るはずもないというのに。そもそも、真実であるかなんて誰にも確認が出来ないのだ。だというのに、まるで事実であるかのように語るものだから、一瞬、そうだったのかと納得をしそうになった。洗脳に掛けられたような気持ち悪さだった。何を思って肋骨なんて言いだしたのか。ますます、意味が分からなくなる。
 サンダルフォンの言葉にルシオは、きょとりとしてから、不意に、笑みを浮かべた。ゆるやかに細められた目は優しい色を浮かべている。慈愛の込められた笑み。見知った笑み。だから、勘違いをしそうになる。此処にいるのはあの御方ではないのだ。言い聞かせる。心臓が早鐘を打つ。きんと、耳に痛い程の沈黙が、破られた。
「おい、サンダルフォン。珈琲を淹れてくれ……眠気がぶっ飛ぶくらいのやつを頼むぜ……」
「あ、あぁ。少し待っていろ」
 少女らしい甘い声は、うんざりとしたように疲れ切っている。ここ数日、天才錬金術師は自身の私室兼工房に籠りっきりであった。何をしているのか団長すら把握していない。カリオストロ曰く、決して悪いようにはならない、とのことである。カリオストロには、ルシファー率いる堕天司が引き起こした一連の事件、アズラエルやイスラフィルのことまで含めた後始末まで、大変、お世話になってしまったものだから、サンダルフォンは頼みを無碍に出来ない。もっとも、今はルシオの前から立ち去りたい気持ちでいっぱいであったから、サンダルフォンはほっと胸を撫で下ろし、逃げ出すようにキッチンカウンターへと入っていく。知らず、手に汗をかいていた。助けを得たとばかり、口実を得たとでもいうような姿。ルシオはやれやれと言わんばかりにその姿を見送る。決して意地悪を言ったつもりではない。困らせるつもりなんて微塵たりとも無い。寧ろサンダルフォンという存在を、可愛らしく思っている。つんけんとした態度も含めて、愛らしいと思っているのだ。空の民へ向ける感情とは異なる。ルシオにとっての肋骨ではないと分かっている。ただ、その在り方が好ましいのだ。言うなれば、ありえたかもしれない存在。そして二人の関係こそが真に目指したものであるのだろうと、美しく思う。
 自身の腹部に触れる。一か所、へ込んでいる。劣等感を抱く事は無い。後悔なんてちらりともしない。湧くはずもない。全ては主の御心のままである。
 少し冷めた珈琲を一口飲む。
 苦味のあとにすっきりとした酸味が広がる。美味しい、のだろう。飲食の経験が浅い身では、悪食と美食の判別が困難であった。何をもって美味しいのか、不味いのか。唯一悪しき、罪の果実のみは把握している。
 サンダルフォンの淹れる珈琲というものは不愉快な味ではなかった。これが彼の肋骨の、愛したものかと感慨深く味わう。
「で? なんの話をしてたんだ。オレ様にも聞かせろ」
 ルシオの真正面にどっかりと座る。キッチンからはゴリゴリとミルを挽く音がする。美少女らしからぬ、あくどい笑みに、ドスの聞いた声。徹夜続きの顔は青白く、目元にはクマが出来ている。その程度では美少女は損なわれていない。とはいえ完璧な美少女を自負しているカリオストロからは考えられない姿である。そんな姿になってまで、カリオストロはとある研究に没頭していた。
 ルシオはぱちぱちと目を瞬かせてから、笑みを送る。カリオストロは毒気が抜かれる。
「運命の話です」
「はぁ?」
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