ピリオド

  • since 12/06/19
 研究所内がにわかに騒がしいことに気付いていた。また、星晶獣が逃亡したのだろうか。実験が失敗をしたのだろうか。ぶるりと、震える。明日は我が身かもしれぬ。明日は自分の身体が刻まれ壊され、捨てられるかもしれない。恐怖が湧く。役割の与えられないサンダルフォンは怯えるしかない。ルシフェルが囁く希望を胸に抱きながら、光を夢見ながら、けれども微かな光を飲みこむ孤独の暗闇はサンダルフォンの心に広がり続ける。
「あまり、部屋から出ないように」
 サンダルフォンの部屋を訪れたルシフェルの言葉に、おずおずと頷いた。サンダルフォンは自分の意思で部屋を出る事は滅多に無い。部屋を出るときといえば、研究者に命じられて実験の補助や、あるいは検診のためだった。サンダルフォンが出歩くことに研究者が良い顔をしないこともあるが、何より、研究所はサンダルフォンにとって自由な場所ではなかった。針の蓆に座るように、居心地が悪い。唯一生きた心地を覚えるのは自室か、あるいはルシフェルを前にしてだけだった。故に、態々、ルシフェルに言われるまでもないことだった。
 怪訝なサンダルフォンの様子に、ルシフェルは付け加える。
「研究所内で不審なことが起こっていてね。星晶獣の仕業であることは間違いないようなのだが、誰が手引きをしているのかそもそも星晶獣の管理にも不備がない。被害は何も出ていないにせよ、何が起こるか分からない。きみの部屋には私の加護を掛けている。ある程度の防御に……サンダルフォン、きみを守る盾になるだろう。きみも、用心をするように」
「そう、だったのですね。はい、わかりました。ルシフェルさまも、御気をつけて」
 サンダルフォンの言葉にルシフェルは目を丸くさせた。サンダルフォンは、自身の失言に、顔から血の気が引いた。何を言っているんだと、まるでルシフェルの力を侮っているよう。まるで、ルシフェルがその得体のしれない星晶獣に傷つけられるよう。ありえないことなのに、何を言っているのだ。謝罪を口に仕掛けたのを、ルシフェルが制止する。
「ありがとう、サンダルフォン」
 サンダルフォンは首を傾げて、曖昧に頷いた。



 検査の呼び出しも、何もない日のことだった。ルシフェルに言われたまま、部屋で待機をしていた。書物をぱらりとめくり、知識を得ていた。ルシフェルの言葉を、話を、より理解したかった。幸いというべきか、サンダルフォンには学習機能がある。ルシフェルによって備えられた成長、そして進化の機能。ルシフェルは、サンダルフォンが学ぶことを、新たな体験をすることを喜んでいるようだった。彼自身に言われたことだ。きみの成長は喜ばしい。その言葉はサンダルフォンの意欲を焚き付けるには充分過ぎるほどだった。
「まさか部屋に閉じ込めているだなんてな」
 サンダルフォンは、驚きに目を丸くした。
 ルシフェルの言葉通り、部屋にはルシフェルの加護、結界とも言われる目くらましが掛けられている。力の無いものや悪意のあるものが部屋に出入りすることは勿論出来ない。何より、ルシフェル以外を拒む。研究所内が件の星晶獣対策で躍起になっていることもあり、サンダルフォンの日々は平穏だった。ルシフェルが訪れることのない日々に寂しさが募りながらも、何事もない日々であった。それが、容易く崩れ去る。
「あなた、は?」
 男は呆気なく出入りをした。力任せに扉を壊すこともなく。ルシフェルの加護である力に、おそれることも傷つくことも無い。いっそ、不気味なほどに平然と部屋に現れた。
「……俺は、謎の天司Xだ」
「謎の天司X」
 思わず繰り返した。



 自身の掛けた加護に、綻びを見つけた。焦燥感が駆ける。扉一枚の距離すら、もどかしい。力任せに扉に手を掛けて、そして室内の様子に目を見張る。荒された様子は一切ない。しかし、寝台に腰掛ける二つの人影が心を乱す。
「ルシフェルさま!」
 喜色を滲ませる声に、浮かべる笑み。ルシフェルが唯一、心を許した存在。身体も、心も、どこも傷ついた様子がないことに、胸を撫で下ろしながら、その隣に腰掛ける姿にくぎ付けとなる。フードを目深に被り、顔は分からない。しかし、その身に宿している力には覚えがある。故に、不審が募る。
「きみ、は」
 声を掛ける。隣に座っているサンダルフォンが不思議そうに、首を傾げている。こちらに来なさい、サンダルフォン。そう声を掛ければ、何が起こっているのか分からない様子ながら、ルシフェルの言葉に従う。ルシフェルの傍に寄り添うサンダルフォンは、不安そうにルシフェルを見上げた。
「ルシフェルさま」
 フードを被る彼が発した声は、震えていた。同じ、声音でありながら、信じられないものでもみたかのように、茫然とした呟き。
「きみは、」「謎の天司Xです」「いや、」「謎の天司Xです」「だが」「謎の天司X」
 どうにも、彼は認めない。ルシフェルに名前を呼ぶ隙を一切与えず、頑なに主張する御座なりな偽名。
 謎の天司Xと名乗る彼の纏うエーテルは、歪に尽きた。部屋に待機を命じているサンダルフォンと似ている、だけではない。ほぼ同じといっても良い。だが、同じではない。微かにまじっているのは、天司長として己が纏っているものに酷似している。いよいよ、不審が募る。
「きみの所属は?」
「……」
 謎の天司Xは口を噤んだ。
「あの、彼は、なにも」
 訝しむルシフェルに、サンダルフォンは声を掛ける。確かに、謎の天司Xなんていう怪しげな存在を天司長であるルシフェルが許すはずがない。それに、おそらくだが、研究所内を騒がせている星晶獣とはXに他ならない。天司長であるルシフェルすら覚えの無い天司。天司長の力すらものともしない異物。天司長の、麾下に無い存在。
 しかし、サンダルフォンには彼が悪しき存在には思えないでいた。彼が疑われることが、ルシフェルが彼を疑うことが、とても、虚しく思えた。
「サンダルフォン、それは君が判断するべきことではない」
 ルシフェルはサンダルフォンの前に立ち塞がり、寝台に腰掛けるXを見据える。
 もしも、Xという存在が害成す存在であるならば、サンダルフォンを危険にさらすことになる。ルシフェルはサンダルフォンをか弱いとは思っていない。それでも、未知なる存在を前に晒すことは避けたかった。サンダルフォンは、ルシフェルの意図に気付かない。烏滸がましいことを口にしてしまったという罪悪感と、不興を買ったという失態を恥じて、肩を落としている。
 Xは何ら反応を示さない。フードの影で、表情は分からない。しかし、視線を逸らすことだけはなかった。やがて、Xが吹き出す。
「なにが、おかしい?」
「いや。そうだったのかと。そういうことだったのかと、思っただけだ」
「…………何を言っている」
「分からなくていい。俺が、知りたかっただけだから。天司長。そうだったのか、そう、だったのか」
 自身に言い聞かせるようにして、一人納得をした。Xがフードの下で浮かべた笑みは誰にも覚られることもなければ、見られることもない。ただ一人のためを想って浮かべた笑みは誰にも知られることはなかった。



 さてどうしようかと、研究所内をうろついていた。本来の目的は達した。もはや戻る場所はなく、行きつく場所もない。勝手知ったる、という程ではないにしても長く過ごした場所であることに変わりはない。記憶と変わらない、記憶通りの道をこつりとヒールを鳴らし歩く。気が狂いそうな白亜の回路に足音が響いた。二つ分。はっと振り向いた。青い眼が、見開かれている。宝石のような青い眼は、いつだって無機質に冷徹だった。視線が突き刺さる。一拍、遅れて、逃げ出そうとしたところで、背中にひと肌が触れた。胴体に巻きつくように腕が回され、身動きが封じられる。
「そいつを絶対に離すなよ」
「オーケイ」
「ぐえぇ」
 腹に回り込んだ腕は確かに拘束の役割を果たしている。しかし、今の状態では様子見の拘束すら致命傷に値する負荷だった。脆弱さにベリアルは驚き、ルシファーに助けを求めるように視線を向けた。飄々とした態度を取り繕うことも出来ない。戸惑いを訴えている。どうしたらいい? 壊れそうなんだけど。ベリアルにしたって、腕の中の反応は意外だった。星の民を欺き研究所に神出鬼没する星晶獣。まさかこんなにも脆弱な作りであると思わなかったのだ。ルシファーはこの星晶獣に興味を抱いている。どの実験記録にも残っていない、逃亡したという記録もない、研究者たちが一同にそんなものは知らないと否定する存在。今にもあっけなく壊れてしまいそうなそれが、ルシファーの手に掛かる末路なんてどうでもいいが、ベリアルは創造主の願いを無碍にすることはできない。
 ルシファーがこつりと、距離を縮めて、無遠慮に、フードをはぎ取る。ありふれた焦げ茶色の髪がふわりと揺れた。明るくなった視界に目が眩み、細めた。
「やはり、な」
 何もかも御見通しというような声に、眉をひそめた。何故知っている。何処まで理解している。何もかもが、貴様の予測だったのか。曲がりなりにも、空の世界を託された天司として真相を知りたかった。しかし、ルシファーは物言いたげな視線を小馬鹿に、鼻で笑い指示をだす。
「連れてこい。壊すなよ」
「はいはい」
 ベリアルはルシファーの言葉に従う。繊細な作業は苦手ではないが、壊すことのほうが得意だ。今にも壊れそうな華奢な体を運ぶ。中々に神経を使う作業だが、きっと、これは壊してはいけないのだろう。ベリアルとて、愚かではない。無能ではない。区別はつく獣だ。
 拘束しているが、抵抗は無い。出来ないのだろう。それほどに、弱まっている。ベリアルはそれに興味はない。ルシファーの計画に必要な駒であるという認識だけだった。
 だがまあ、彼の纏う気配については興味はあった。



 研究所内の混乱は終結している。ルシファーが手を回したのか、Xが姿を見せなくなったからか、星の民たちは現在手に掛けている研究を思い出したかのようだった。サンダルフォンの生活に変わりはない。ただ、サンダルフォンはフードを被った青年に珈琲を振る舞うようになった。ルシフェルが不在の合間に時折現れるXに対する警戒は皆無だった。Xはその様子に呆れを見せながら仕方のない事かと不満を飲みこんだ。
 Xはサンダルフォンの居れた珈琲を、流し込む。一言で表すならば不味い。こんなものを、敬愛する御方に振る舞うつもりだったのかと正気を疑う。サンダルフォン自身も珈琲を美味しいとは未だ思えていないようだった。珈琲の味の善し悪しも分別出来ていない。喉に流し込むようにして、苦味に慣れようと必死になっている。酸味やうま味なんて何も感じ取れていないだろうことは分かった。
「珈琲は苦手か?」
「……あまり、美味しいとは思えない」
「美味しいと思えないなら無理に飲む事は無いさ」
「だが! ルシフェルさまはそれを望んでいる」
 Xは、静かに珈琲を啜った。サンダルフォンはすまないと、取り乱したことを謝ると、矢張り、顔を強張らせてカップに淹れた残りを飲み干した。
 居心地の悪い沈黙を破ったのは、サンダルフォンだった。ちらちらと視線を寄越して、意を決したように口を開いた。
「なあ、きみの役割は聞いてもいいか?」
「聞いてどうする?」
「……わからない」
 サンダルフォンは視線を膝上の手に降ろした。
「どういうもなのだろうか。あの方のために、生きるということは」
 災厄となった。空の世界を憎み、憎まれたかった。けれど、憎まれることはなかった。虚しさだけを抱えて生かされていた。ただ、無為に生きるだけの気が遠くなる時間は、呆気なく崩壊した。何が起こったのか状況を理解できないままでいた。傷だらけの、空の底に突き落とそうとした特異点と、蒼の少女は、天司長の最期の言葉を語り、託されたという力を継承させようとした。なのに、出来なかった。疑ったのだ。天司長が、ルシフェルが、そんな言葉を遺すはずがない。何を謀っている。死ぬはずがない。何も、信じることが、出来なかった。
 蒼の少女の言葉を思い出す。
「どうして信じられないんですか! ルシフェルさんは、ずっと、あなたのことを想っていたのに!」
 悲痛に、自分のことのように苦しみに顔を歪ませた言葉を否定した。
 ルシフェルを否定して、天司長のスペアという役割を全うすることも出来なかった。あれだけ渇望した役割を、結局は、全うできずに、世界は終焉を迎えた。ルシファーの遺産を封じるどころか、滅ぼすことも出来ず、空の世界は地に落ちて行った。災厄どころではない。崩壊した。あの人の守ろうとした世界は、愛した世界は、もう、何処にもない。
「……苦しいよ」
 サンダルフォンは驚いたようだった。Xは、わらう。
「なあ、きみは天司長を信じているのか」
「当たり前のことだ」
「そう、か」
「きみは、信じていないのか?」
 そんなことあるわけないというように、サンダルフォンは不安そうに問いかける。
「そうだな。信じられず、何もかも、零してしまったのが俺だ」
 サンダルフォンの頭上には疑問符が浮かんでいるようだった。何を言っているのか理解が及んでいない。
「どういう、意味だ?」
「意味なんて無いさ。そのままだ。俺の身についてはなんだっていい。そうだな。俺はきみの可能性の一つと言うことだ」
 意固地になって、何も信じられず、間違えてしまった結末。
「もっとも、希望的な意味ではないがな」
 崩壊する世界が、瞼に焼け付いて、離れない。



 それのコアは容量をはるかに超えた力が注がれ、ひび割れ、欠けて、なぜ未だ稼働しているのか不思議に思う状態であった。本来ならば、稼働どころかコアは破壊しても仕方のない状態である。感情という不確定要素を、ルシファーは好まない。しかし、なぜその状態で稼働出来ているのか。一つ提示してみせろと言われれば執念に他ならない。
「殺すつもりだったのだろう?」
 誰をといわれるまでもない。ルシファーの言葉に応えることはない。出来ない。確かに、殺そうとしたのだ。
 裏切っておきながら、叛乱を起こしておきながら、一度だって、ルシフェルの死を、望んだ事は無い。なのに、結果的にルシフェルに死を招いたのは己自身であったと知り、気が狂いそうになった。あの場にいなければ。災厄なんておこさなければ。叛乱なんて起こさなければ。盗み聞きなんてしなければ。役割をもとめなければ。否──生きていなければ。
 半端に継承した力で願った。
 サンダルフォンの、消滅を。
 そして、気が付けば研究所で佇んでいた。茫然と、状況を把握しようとして、誰だ! その声に、慌てて姿を隠せば研究所内が慌ただしくなった。そっと様子を伺えば何やら大事になっていて、迂闊に研究所内を歩くことは出来ない。この時代が、この世界線が正しく過去である保障はない。寧ろ別次元と考えるべきだった。しかし、サンダルフォンという存在は確認できた。厳重な警備体制の目を掻い潜り、かつて自室として与えられた部屋に行きつくには骨が折れた。
 サンダルフォンの部屋であるにも関わらず、部屋からはルシフェルの気配が強い。寧ろサンダルフォンの気配は微かだった。覚えがある限り、私室を訪ねてくるものは存在しなかった。研究者であるならば当然であると思っていた。態々検体を迎えに来ることはないのだ。役割のある天司の、視線も、星晶獣の恨みがましい視線も、なにもかも、部屋にいる限り感じることはなかった。
 扉に触れる。ルシフェルの力に覆われている。思念が残っていた。只管に、サンダルフォンを案じている。半端とはいえ、同じ力を宿すから読み取ることができる。触れることができる。
 泣き縋り、赦しを請うことも許されない。


 謎の天司X──サンダルフォンは自身とルシフェルの姿を確認した。研究所の中庭。研究棟に囲まれたスペースは、思いの外見通しが良い場所だった。二人の様子は簡単にうかがえる。ガーデンテーブルを囲み、珈琲を飲んでいる。まだ、美味しいと思っていない珈琲を啜る自分の姿には苦いものが込み上がる。
「あ」
 ルシフェルは、笑っていた。
 無表情が一点して、目元を綻ばせ、口角を小さく描いている。些細な変化だった。
「そうか」
 納得をした。
 特異点の言葉にウソは何もなかった。最期に残した言葉を、そのままに伝えたのだ。あの御方は、ルシフェルさまは、最期の瞬間。願ったのだ。もう一度、中庭で珈琲をと。この時間は彼にとって、安らぎの時間だった。サンダルフォンは、安らぎの時間を知らず、共にしていた。自分だけだと思っていた美しい思い出。彼もまた、愛しく、思っていた。この時間は、幸福だった。思い出す。
 胸が軋む。
 後悔が押し寄せる。どうしようも出来ない。怒りが湧き上がる。遣る瀬無い。悲しみがうまれる。もう、あの人はどこにいない。
 ここにいるルシフェルは、自身の知るルシフェルではない。己を造りだしたルシフェルではない。
 頭は冷静に、理解をしている。なのに、心が追い付かない。置いてけぼりにされたように、もういない人を求めている。
 目の奥が熱を帯びたように熱い。瞳にか細い膜が張られていることが自分でもわかった。瞬きひとつで、壊れる。
 風が吹いた。カーテンが揺れる。パラパラと室内で、何かが舞う音がした。
「おい、窓を締めろ」
 背後から掛けられた声に慌てて中庭を覗いていた窓を締めた。瞳に張られた膜はあっさりと壊れている。何事も無いように、さも、風の所為だと言わんばかりに目元をぬぐった。
 ちらりと名残惜しく、中庭を想いながら、足元まで運ばれたレポート用紙を拾い上げた。レポートにはコアの修復と機能補完と書かれている。被験者は伏せられていた。当然のことだ。だって、被験者は本来存在しないのだから。サンダルフォンという存在は一人だけしか許されない。最早、サンダルフォンでなくなった。今はルシファーの麾下の、堕天司である。与えられた羽は黒く染まっている。
「戻りたいか」
 ルシファーの言葉は、選択肢なんて無いのに、いつだって惑わせる。
 もう、戻ることはできないのに。
 窓の外。陽気な日差しを受けて笑う二人。願うしかできない。お前は、俺になるなよ。祈るしかできない姿を、ルシファーはじっと見つめて、視線を手元の報告書に落とした。

2019/02/25
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -