ジョバイロ
彼の纏う空気が俄かに変化を見せ始めたのは、夏が終わりを迎える頃だった。
晩夏の或る日にずいぶんな負傷の痕跡を携えてきた彼のタンザナイトには、燻っていたはずの退屈など見当たらず、不穏ながらもなにかをただひたすらにまっすぐと見据えるぎらぎらとした炎が宿っていた。
見覚えのあるそれは、中学時代、部活仲間達が燃やしていた光に――負けるものかと好敵手達を睨み据える眼差しに、とてもよく似ていた。
小耳に挟んだ噂によれば、なにやら彼は、負けなしと噂されていた他校の生徒に喧嘩で負けたらしい。
どんな物事も大抵は一見すれば人並み以上に熟せてしまうが故に、自覚なくプライドが高い彼のことだ。きっと、敗北を認めることができないのだろう。
遠巻きに眺めていた一年生の頃から抱いていた印象と、付き合い初めてから共に過ごした約三ヶ月半程の間に触れた彼の性格からそう推察していたことを、もしも彼が知ることがあったら、彼は怒るだろうか。
彼は私に構うことを忘れ、件の他校生にリベンジを挑んでは素気なくフラれるということを繰り返すようになった。
そんな日々がしばらく続いた、初秋の頃のこと。
珍しいことに、登校時間に合わせて私の家の前で待っていた彼は、私の向こうに違う誰かを透かし見ながら言ったのだ。
「俺、劇団に入ることになったから」
彼は何も語らなかったから、経緯の程はわからない。ただ、稽古があるから放課後や休日のデートが難しくなると、そう告げた彼は、如何にも彼らしい余裕に満ちた不敵な笑みを口許に湛えて言った。
「公演観に来いよ。惚れ直させてやっから」
あの時、彼は一体どんな気持ちで、あの言葉を発したのだろう。
その頃には既に彼への恋心を自覚してしまっていた私は、ただ曖昧に笑って、頷くことしかできなかった。
***
ほんの少しばかりフォーマルな印象の服を纏い、いつもより爪先ひとつ分ほど大人びた風なメイクを施した私を見て、珍しいと目を丸くした母に、舞台を観に行くのだと告げて家を出る。
服と合わせて買った真新しいパンプスは足に馴染まず、靴擦れ対策をして来て正解だったと息を吐いた。
道すがらに買い求めた花束を携え、予定よりも少し早く辿り着いた目的地。
MANKAI THEATERと看板が掛けられたその建物は、どこかレトロな趣きを感じさせる佇まいだった。
バッグから取り出したチケットを、潰してしまわないように、けれどしっかりと握り締め、エントランスに足を踏み入れる。
開場してからある程度時間が経っているためなのか、ロビーの人気はあまり多くなかった。
ぽつぽつと飾られた祝い花を横目に眺めながらパンフレットを購入したところで、奥から小走りに駆けて来る人影が――数日前にストリートACTに興じる彼や仲間たちと共に居た女性の姿が、視界に入った。
物販スタッフと何事かを話しまた踵を返そうとしたそのひとに、手の中で花束が揺れる。
「――――あの、すみません」
「はい?」
葡萄茶の長い髪をひとつに束ねたそのひとは、忙しそうな最中に呼び止めるような不躾に気を悪くする様子もなく、朗らかに私を振り返った。
躊躇いは、ほんの一瞬。渡さずに持って帰ろうかとも思っていたそれを、けれど忙しそうな彼女を呼び止めてしまったのだからと心の内で誰にともなく言い訳ひとつ、そろりと差し出す。
「お忙しそうなのにすみません。これ、ばん……――摂津万里さんに、渡していただいてもよろしいですか?」
鮮やかな黄色の喇叭水仙が、甘い香りを揺蕩わせる。
それにぱちんとひとつ瞬いて、彼女はやはり朗らかな笑顔で、快く受け取ってくれた。
「わかりました、お預かりしますね。万里くんのお友達ですか?」
やわらかな手つきで花束を抱いた彼女に礼を述べながら、刹那ばかり、彼との関係について思案する。
友達、ではない。けれど、一応元彼女です、などと答えたところで、優しそうなこの女性を困惑させるだけなのは明白だろう。
そんな自分の考えにさえ傷付きたがる心を嘲って、私は曖昧に笑った。
「ただのクラスメイトです」
お手数をお掛けしてすみません。
そう小さく頭を下げれば、彼女はとんでもない! と大きく首を横に振る。
「万里くん、すっごく頑張っているので、楽しんでいってくださいね」
彼女のその言葉に被さるよう、開演十分前を告げるアナウンスが響いた。
すみません失礼しますね、と慌てて踵を返して行った彼女の背中にもう一度頭を下げて、私も客席へと足を向ける。
頑張る、という言葉を知らないかのようなあの彼が、頑張っていると、あの女性は言った。
きっとそうなのだろう。彼の瞳から退屈の色が消えたあの日から、薄らと察していたことだ。
だからこそ私は、彼との別れを決めたのだから。
客席後方の、真ん中よりも少し右寄りの席で、開幕を告げるブザーの音を聴く。
彼が見つけたモノは、一体どれほどの素敵なものなのだろう。