うたかた

 きっかけこそ不本意で腹立たしいものだったけれど、彼と付き合っていた間、私はたしかに楽しかったし、しあわせを感じていたし、徐々にではあったけれど、きちんと彼に惹かれていた。
 なにせ、たしかに彼は言葉遣いこそ粗雑だけれど、存外優しい紳士であったのだ。
 たまに共に過ごした放課後や休日、外に出ればさり気なく車道側に立つだとか、何気ない様子で私の希望を聞いてくれたりだとか、それは本当にささやかなことだったけれど、私が彼に抱いていた荒っぽい不良というイメージを緩やかに塗り替えていくには充分なものだった。

「それ、欲しいのか?」
「え、いや別に。なんで?」

 付き合いたての頃、放課後に立ち寄ったゲーセンのUFOキャッチャーコーナーで、突然問うてきた彼に私は首を傾げた。
 大きな筐体の中にはずらりと大きな犬のぬいぐるみが詰め込まれていて、三色ある中の黒いものが愛犬に似ているなと眺めていただけだったのだけれど。

「ずいぶん熱心に見てるから」

 存外良く見ているのだなと、その時の私はそんな感想を抱いた。

「欲しいっていうか、黒いのがうちの犬に似てたから」

 ふわふわと触り心地の良さそうなぬいぐるみには、たしかにちょっとばかり惹かれていたし、ぬいぐるみの類は好きな方だったが、別段欲しいとまでは思っていなかった。

「犬飼ってんの?」
「うん。黒くて大きくて可愛いんだ」
「ふうん……ちっと待ってろ」

 そこからはあっという間で、やにわに財布を取り出した彼が止める間もなくゲーム機に百円玉をふたつ滑り込ませ、レバーを操作したかと思えば、ぬいぐるみは軽々と三本の爪に持ち上げられて落とし穴へと誘われた。
 あまりの呆気なさに私がぽかんとしていると、彼は取り出し口からぬいぐるみを引っ張り出し、もふ、と私に押し付けた。

「ほらよ」
「え、あ、ありがとう……? すごいね、一発で取れちゃうなんて」
「こんくらいヨユーだって」

 あまりにも鮮やかすぎる手際に唖然としつつ、押し付けられたやはりふわふわもふもふのぬいぐるみを思わず抱き締めれば、彼は初めて見る、ほんの少しだけ稚さを孕んだ顔で破顔した。

「ぬいぐるみ抱えてんだか、ぬいぐるみに抱えられてんだか、わかんねーな」
「、失礼な」

 言外に私を小さいと笑った彼のその笑顔がなんだか新鮮で、思いの外やわらかい甘さを含んだ眼差しがなんだか面映ゆくて、私は思わず、ぬいぐるみの前足で彼の腕にパンチを繰り出していた。
 容易に避けられただろうにそれを受け止めて、彼はやっぱり、どこか幼げな顔で笑った。

「今度、犬見せろよ」
「、うん」

 くしゃりと私の髪を乱した思いの外あたたかくて優しい指先にほんの少し戸惑ったことを、彼に悟られていなければいいなと思った。


 ***


 わん! と愛犬が呼んでいる声がドアの向こうから聞こえて、かじりついていた参考書から顔を上げる。
 凝り固まってしまった背中を伸ばしながら時計を見てみれば、ちょうど散歩に連れて行く時間になっていた。
 部屋を出れば案の定、賢い愛犬は散歩用のリードを咥えてドアの前におすわり待機していて、リードをそっと取り上げながらよしよしと撫で回してやる。
 休日出勤めと歯噛みしながら仕事に出掛けた母がいつ帰宅しても心配しないようにと書き置きをして、財布とスマートフォンをポケットに突っ込み、愛犬を連れて家を出る。

 日曜の昼下がりのビロードウェイは、ストリートACTなるものを繰り広げる役者さん達がそこかしこに立っていて、ギャラリーの数も相俟ってだいぶ賑やかしい。
 初めてこの街に来た当初は驚いたものだけれど、今ではすっかり慣れて、愛犬を傍らにゆっくりと彼らの演技を眺めながら歩くのがそれなりに好きになっていた。

 不意にリードがぴんと張って振り返れば、傍らを歩いていたはずの愛犬がその脚を止め、ぶんぶんと機嫌よくしっぽを振りながら一点を見つめていた。
 何を見ているのかとその視線をたどって見れば、そこには。

「――――……、」

 カフェオレ色の髪が、タンザナイトの瞳が、きらきらと煌めいている。
 劇団の仲間と思しき男性達とストリートACTに興じている彼は、秋のやさしい陽射しの下、少なくないギャラリーに囲まれて、いっとう輝いた瞳でそこに居た。
 タンザナイトにはあのつまらなそうな色は欠片も見当たらず、強い熱だけが煌めいている。

「MANKAIカンパニー秋組旗揚げ公演、『なんて素敵にピカレスク』! よろしくお願いします!」

 優しげだが溌剌としている髪の長い女性が、ギャラリー達へ朗らかにフライヤーを手渡して回っている。
 図らずしも視線が合ってしまい、彼女は私へもフライヤーを差し出してきた。

「よろしくお願いします!」

 反射的に受け取ってしまったそのつやりと光沢のある紙には、スーツ姿の彼ともう一人の男性がそれぞれ一人掛けのチェスターフィールドソファに腰掛けている姿が写っている。
 二人の衣装と、タイトルにも含まれている『ピカレスク』というジャンルに合わせたのであろう。シックでスタイリッシュなデザインのフライヤーは、それだけで公演内容への興味をそそられる素敵なものだった。

 もう一度、ギャラリーの真ん中で輝く彼に視線を戻す。
 真剣に、けれど楽しそうに仲間達と視線を科白を交わし合う彼の姿が、とても尊く眩くて、胸が苦しい。
 なぜかじわりと熱を帯びた目の奥を隠すようにきつく瞼を閉じて、開くのと同時に、私は踵を返していた。

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