別れ話をしよう

「別れよう」

 晩秋の夕暮れ、朱焼けに染まる教室に、真っ透明な声が寒々しく響くのを、自分で発した声であると言うのに、どこか他人事のように聴いていた。
 向かい合ったタンザナイトのような吊りがちの瞳が、にわかに見開かれる。それからほんの少し不機嫌そうに眇められて、それと一緒に形の良い眉根がくっ、と寄った。

「なんで?」

 そうして薄い唇から落とされた、表情と同じ色をした声に、相対するように眉尻が下がる。
 だって、そうでしょう。
 少し前の――夏頃までのきみだったら、きっと、私の言葉にそんな顔をすることも、そうやって理由を問うことも、なかったでしょう。
 曖昧に微笑うしかしない私に、さらに苛立ったように眉間の渓谷が深くなる。

「……わけわかんねぇ」

 あまり気の長い方ではないタンザナイトの瞳が瞼の向こうに消えて、カフェオレ色の髪が苛立たしげに掻き乱される。
 そのまま私に背を向けて、足音荒く教室を出て行く。
 ばん、と大きな音を立てて閉められた扉は、叩きつけられた反動でまた半分ほど開いてしまった。
 大きな音に跳ねてしまった心臓を落ち着けるように、ひとつふたつ、深呼吸をする。

 これでよかった。彼にとっても、私にとっても。いずれは見えていた終わりだった。
 私はちゃんと彼のことを好きだったけれど、彼は別段、私のことが好きだったわけではないだろう。
 あのひんやりとしたタンザナイトの瞳が、夏の終わり頃から帯びるようになった熱も、そのうちに宿すようになったきらめきも、私に向けられることはない。きっとそれが、何よりの証左だ。
 先の不機嫌の理由は、単純に、体のいい女避けと欲の捌け口がなくなることへの不満と、私が別れの理由を語らなかったことへの苛立ちだろう。
 不思議と涙は出てこない。いずれこうなる予想はしていたけれど、それでも私が彼を好いていたことはたしかな事実であったのだから、哀しくないわけでは、淋しくないわけでは、ないのだけれど。
 ただ、そう、虚しさだけが溢れていて、その感情は涙と結びつかないだけなのだ。

 開け放ったままの窓からふわりとカーテンを揺らして入り込んだ秋風が帯びた金木犀の香りが、虚しさをさらに広げた気がした。


 ***


 彼――摂津万里くんとの出会いは、何のことはない、高校に入学したその日、出席番号の関係で席が隣になったという、それだけのこと。
 なんだかつまらなそうな目をした子だと、当時の印象はそれくらい。
 あまり真面目なタイプではない、むしろどちらかといえば不良と分類されるような、サボりがちで外での素行についても良い噂をあまり聞かない彼とは、ろくに話をしたこともなかった。
 ただ何となく、あのつまらなそうなタンザナイトの瞳が何かを燻らせているような、そんな雰囲気がほんの少し気になっていた、それだけ。
 二年生に上がった時にクラスが分かれ、三年生でまた同じクラスになり席が隣になっても、特に彼と関わることはないと思っていた。
 それが突然変わったのは、三年生になって二週間ほどが経った、晩春の夕暮れのこと。

「なー筱森サン、俺と付き合わね?」

 悪戯げに不敵に口角を持ち上げて、けれどタンザナイトの瞳はやはりつまらなそうな色のまま、その日はたまたま運動部の友人を待つため放課後の教室でひとり雑誌を捲っていた私に、彼はそんな言葉を投げ掛けた。
 雑誌から顔を上げた私を見下ろす彼の表情は、さながら不思議の国で少女を惑わす魔性の猫のようだった。
 けれど生憎と私は、かの少女のような可憐な純粋さなんて持ち合わせていなかったのだけれど。

「……いいよ」

 特に理由を問うことも疑うこともなく了承した私に、言い出した彼の方が面食らったような顔をしていたことを、今でも覚えている。
 この時の私は、まだ彼のことを好きになってはいなかった。
 そこにあったのは、ひとを勝手にゲームのネタにした彼とその仲間たちへの、ほんの僅かな対抗心。
 何せ私はその前日に、幸か不幸か偶然にも彼とその仲間たちのくだらないやりとりを耳にしてしまっていたのだ。

『――じゃあ賭けようぜ、万里が筱森を落とせるかどうか』
『いやさすがにアイツは無理くね?』
『は、余裕っしょ。ぜってー落とす』
『うわ腹立つー』

 何をどうしてそんな話になったのかは知らないし知りたいとも思わないが、くだらない賭けのネタにされていると知って、その時たしかに私は腹を立てていた。
 我ながら性格が悪いと思うが、だから彼の言葉に諾と応えたのは、ある種の意趣返しのつもりだったのだ。
 少しの間恋人ごっこをしたら、賭けの話を知っていたことを明かして別れよう、と。


 ***


 家に帰る頃にはすっかり日も落ちていて、愛犬に出迎えられながら着替えのために自室に入れば、なんだかどっと疲れが押し寄せて思わずベッドに倒れ込んでしまった。
 ふんふんと鼻を鳴らしながら足元に擦り寄る愛犬をおざなりに撫でながら、ベッドの上で我が物顔をしている愛犬とよく似た大ぶりのぬいぐるみにもう片方の手を伸ばす。
 付き合い始めの頃、彼に付き合って遊びに行ったゲーセンのUFOキャッチャーで彼が取ってくれたものだ。
 あまり背が高い方ではない私の上半身がまるっと隠れてしまいそうな大きさの、黒い犬のぬいぐるみ。
 手渡されたそれを抱えた私を見て、抱えてんだか抱えられてんだかわかんねぇな、などと失礼なことをのたまった彼の、いつもより僅かに幼く見えた笑顔が脳裏をちらついて、胸が痛い。

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