たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
 見覚えのあるその立ち姿は我が幼馴染のものだ。
 家からそう遠くない公園の入口にある、膝くらいの高さまである花壇の前に立っていた幼馴染は、ふと花壇に浅く腰かけて上を見上げた。少し見ていたが、動く様子も俺に気付く様子もなく、ジッと上だけを見上げている。
 それは俺が通ろうとしている道であるので無視はできない。何より、わざわざ避ける理由もない。
 俺は、今気づいたという風を装って何気ない歩調で近寄った。


「お前、こんな時間になにやってんだよ」


 こんな時間。もう既に時計の針は二十二時を回っている。
 まあ、俺も人のことを言えたものではないけれど。
 ちなみに俺はコンビニにアイスでも買いに行こうかと思ったから出てきたわけで、貧困ながらも一応、理由は持っている。


 我が幼馴染、浩介は俺の言葉を聞いていないように、ジッと上を見上げていた。


「何が見えるわけ?」


 俺の言葉を無視してジッと見上げているのだから何かあるのだろうな。
 浩介が見ているものが気になって、そっと隣に腰を下ろし、同じようにして上を見上げた。
 晩夏だというのにも関わらず蒸し暑い夜の空気とは違い、空は紫色と藍色の混ざったような綺麗な色に、無数の星々と、一つの月を浮かべていて清々しい。
 下弦の月が煌々と照る夜空。
 なるほど。


「こんなところで月見か」

「いんや、星見」

「………」


 指摘に対する抵抗か、本心か。長い付き合いだからこそ分かる。後者だ。
 こんなにも綺麗な月が輝いているというのに、お前は月をそっちのけで星を見ているのかよ。おい。
 呆れて思わずため息をついた。こいつの変わった行動は筋金入りだから仕方がない。


「はいはい。そんじゃあ、お前は星見をしている。それはそれで結構。
 ―――なんでこんなところで見てんだよ。星くらいお前の部屋からでも十分に見れるだろ?」

「んー?」


 星を見上げながら、浩介が首を横に、俺のいる方へと倒す。
 ぽすん、と肩に重みを感じた。


「おい……、重い。退けろ」


 俺の抗議を無視して、浩介は口を開いた。


「なんでだろうねぇ。………なんとなく、なんとなぁく、ココで星をみたいなぁって思ったんだよねぇ」


 浩介は上を見上げながら目を細めて、右手を宙にかざした。かざした手の向こうに星空を見ながら、俺の肩へとかける重みを増加させる。
 この公園は幼いころ俺と浩介がよく遊んでいた公園だ。少子化の所為か、最近ではこの公園で遊ぶ子供は滅多に見かけないが。心なしか遊具も減っているような気がする。……まあ、時の流れとはそんなものか。


 いつもとは違い感傷的な態度を見せる浩介だが、俺はそれよりもだるそうでやる気がなさそうな、間延びした口調にイラッときた。
 無言で強制的に手で浩介の頭を押し返して肩から退ける。


「おやおや、なんという非道な仕打ち。幼馴染の俺がこんなにも無防備に甘えているというのに、奏汰はそれを無碍にするだなんて」

「気色悪いこと言うなアホ」


 わざとらしい口調で言う浩介の頭をひと叩きして、花壇から腰を上げた。
 でもまあ、確かに、少しナーバスになっているのは本当なのだろう。―――だからと言って、俺に慰めを求められても困るのだが。
 未だ花壇に腰かけている浩介を見下ろすと、ん?と浩介が首を傾げて俺を見る。
 しばし沈黙が続き、俺は小さく嘆息した。
 仕方がない。幼いころから隣にいる、腐れ縁の幼馴染だ。
 片手でガシガシッと乱暴に頭を掻く。なんか、ちょっと、こういうのは気恥しさがあるな。そんなことを思いつつ、片手を差し出した。


「俺今からコンビニ行くんだけど、お前も来るか?」

「お、マジで?珍しいね、誘ってくれんの。ここ数年、そんなこと滅多になかったのに」

「もうしばらく一人で星見していたいっつうなら無理にとは言わん」

「何言ってんの!もち、行くって!」


 ようやく笑顔を見せた浩介は俺の手を取ってぴょんっと花壇から飛び降りた。俺の手に感じた重みは些細なもの。どうやら、あまり力をかけないようにと気遣ったらしい。浩介のくせに生意気だと、少しだけ思った。


 街頭の少ない夜道を歩きながら、何気ないようにそっと手を離す。何が悲しくて高校生の男が同い年の男と夜道を手繋いで仲良しこよし歩かなきゃならないのだ。………まあ、手を繋ぎたくないという明確な理由もないのだが。
 手を離したことは浩介も気づいているだろうに、何も言わずに、横を歩く俺を見てニッと笑みを浮かべた。


「暑いし、アイスでも食べたいなー。あ、俺金持ってきてねぇや。奏汰、おごってー」

「驕るとは言ってねぇぞおい」

「だーかーらー、俺今金持ってないんだって。奏汰が俺を買い物に誘うなんて珍しいことしてくれてんだからさ、ついでにその延長で驕るっていう珍しいことしちゃってよ」

「…………、今度お前もなんか驕れよ」

「はいはーい、わかってるって!」


 何が楽しいのか、浩介は始終笑顔を浮かべていた。


 そのまましばらく歩いて住宅街から抜けだし、街頭の数が多少増えたころ。
 ふと、浩介が俺の方を向いた。


「奏汰ー」

「ん?」

「…………」

「なんだよ」


 名前を呼んだかと思えば、その続きが浩介の喉から出てこない。
 訝しむ俺に、浩介は先ほどとは少し違った笑みを浮かべた。切ないような、寂しいような、よく分からない笑顔。
 しかしそれも一瞬で掻き消え、いつもの俺が見慣れている笑顔が戻る。


「ん、……うん、俺、ダッツね!」

「は!?アホか!ンな金ねぇよ馬鹿!」


 反射的に言い返した俺に、浩介があはは!と笑って少し先へと駆けだした。
 こんな時間に近所迷惑な、という諌めは喉のところで無意識に呑み込んでいた。あいつが煩ければ俺の声も煩いはずだし、人のこと言えるものじゃない。
 でもまあ、限度はあるよな。
 こんな時間でもあんなにはしゃいでいる浩介は一度注意するべきかもしれない。
 そんなことを思っていると、浩介が数メートル先で立ち止まって振り返り、俺を見ていた。


「奏汰ー!」


 浩介が俺の名前を呼びながら右手を上に伸ばし、人差し指が宙を差す。
 その指差す先を見ると、そこには下弦の月が煌々と明かりを放っていた。


「月が綺麗だねー!」

「はあ?お前星見てたんだろーが」

「奏汰が来てからはお月さまもちゃんと見てたって!」


 ニッと笑って再び駆けだす浩介の後を追いながら、俺は空を見上げた。
 空はやはり藍色と紫色を混ぜたような、綺麗な色合いを見せている。そこに無数に光る星は赤や青や黄色に見えて、大きさも含めて同じものは一つもない。
 浩介は、この星空に何を見ていたのだろう。
 考えても分かるものではない。人は他人の考えどころか、自分の考えていることすら正確に把握することなどできない。それはまだたった十七年しか生きてきていない俺にすら分かっていることだ。


 漂ってきた薄い雲が、まるで月だけを避けるようにして空を過ぎていった。星々が一瞬隠れてまた光を放つ。
 まあ、確かに綺麗な月だ。


 あと数日もすれば八月が終わり、九月に入れば新学期が始まる。慌ただしく新学期を迎えているうちに季節は秋へと移ろいゆくだろう。秋が終われば冬がきて、春になれば俺も高校三年生。受験勉強に身をすり減らしながら、夏を迎える。
 こうして夏の夜空をのんびりと見上げるのもそろそろ終わりか。
 そう思うと、こんな蒸し暑く月が綺麗な夜も悪くないと思えた。





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