ツンとした錆び臭さが鼻につくけれど、慣れてしまったこの鼻ではもはや不快だという思いは浮かびもしない。いや、もしかしたら不快だと感じる『心』がもうないのかもしれない。が、そんなことはどうでもいい。
 紅い色も、見飽きた。


 徐に手をかざし、手のひらを前に向ける。
 早く終わらせて帰ってシャワーを浴びたい。夏の夜のムシムシとした湿気は最悪だ。しかも風が吹いてないときた。最悪だ。最悪だ。立っているだけで暑苦しい。額から汗が流れてくるのが不快で、ぐしと腕で拭う。汗で張りつく髪がうざったくて仕方ない。
 そんな俺に対して、俺に背を向けて今にも転びそうなほど全身全霊で逃げるターゲットは、後ろを振り向く余裕もなく、がむしゃらに足を動かして必死に俺との距離を離そうとしている。きっと暑さなんて感じてないに違いない。
 ああ、この暑さを感じないなんて羨ましい。―――けど、あんなに怯えて……可哀想に。まあ、怖がらせてる主な原因は俺なんだけど。……ん?もしかして、恐怖心があるから暑さを感じないのか?ということは俺も何かを怖がればこの暑さから逃れられるという……いや、帰って冷房で冷えた部屋に行くのが手っ取り早いか。
 はあ、と息を付く。呼吸する度にムシムシとした不快な暑さが胸に入り込む気がして眉を潜めた。―――早く仕事終わらせて帰ろう。そうしよう。こうしてジワジワ追い詰めてターゲットに恐怖心を植え付けて喜ぶなんて性に合わない。
 仕事に脳を切り変えると、暑さも少しだけ薄れたような気がする、だけで所詮気のせいでしかないので早く帰りたい。


 大丈夫。痛みなんてない。一瞬だ。気付かないうちに、お前は楽になる。
 傲慢な“慈悲”という名の笑みを口に浮かべ、『力』を解放した。


 深夜の薄暗い路地裏に、一際明るく、透明度の高い蒼い光が満ちる。それは僅か数秒。その後は何もなかったかのように、静寂を取り戻す。
 俺はソレを目に収めるとズボンのポケットから煙草を出し、ジッポで火を付けた。
 ゆっくりと吸い込み、吐きだす。
 よし、帰ろう。





◇◇◇





 都内某所。
 周囲に高層マンションが立ち並ぶ場所で周りよりも幾分か背の低いマンションのとある一室は俺の部屋だ。4LDKのデザイナーマンション。5階建てで、モノクロを基調とした四角さを感じさせるマンションの外観に一目惚れした。家賃はまあまあそれなりで、安くはないが高すぎるということもない。


 エレベーターに乗り、5階、最上階のボタンを押す。すぐさま浮遊感が襲い、俺を上へと運んでくれる。箱の中は空調が効いていて、汗をかいた体にはとても心地よい。
 チン、と音がして浮遊感がなくなった。
 エレベーターを降り、静寂に満ちたマンションの廊下を歩く。
 他の階は知らないが、今の5階の住人は半分が一人暮らし、もう半分は若い夫婦が住んでいる。同じ一人暮らしだからといって、学生だらけのマンションとは違い、夜中の2時も過ぎると辺りはシンと静まりかえっている。
 周りの迷惑にならないよう静かに歩き、自分の家のドアの前まで来ると、音を立てないよう慎重に鍵とドアを開けて素早く中に体を滑り込ませた。
 ドアを閉め、鍵とチェーンロックをかけ終え、振り返ったその瞬間。


「折谷さんお帰りなさい!」


 ドンッとタックルしてくるモノをなんなく受け止め、ぎゅ、と抱きとめる。


「はいはい、ただいまー。ここ玄関だからあんま騒ぐなって何度言えば分かんだろーなー、この馬鹿猫は」
「馬鹿猫ってなんだよ!俺馬鹿じゃねぇし!どっからどう見ても人間じゃん!」
「だから騒ぐなっつーの」


 喚く馬鹿猫、もとい彼方を肩のところで俵のように持ち上げ、リビングに向かった。彼方は何が嬉しいのか知らんがご機嫌な様子で俺にすり寄ってくる。―――そーいうところが猫だっつーの。
 それにしても、馬鹿な子ほど可愛いってホントだなあって最近しみじみ思う俺は年を取ったのだろうか。
 いや、まだ24歳のカッコイイお兄さんだ。………だよな?






◇◇◇






 カラスの行水の如くパパッと手早くシャワーを浴び、トランクスだけ穿いてリビングに戻ると、彼方はソファーに座ってこくりこくりと舟を漕いでいた。
 ―――眠いなら先に寝てろっていつも言ってんのに。
 はあ、と短くため息を付き、持っていたタオルでガシガシと頭を拭き、8割方乾いたところでテーブルの上に放り投げた。
 空いた手で、彼方を横抱きに抱き上げる。―――軽い。
 16歳、今年で17歳になる彼方は、そこら辺にいる高校生と比べると幾分か華奢な体付きをしている。普段は服でカバーしていても、こうして触れるとその線の細さが鮮明に感じられる。
 細い腰と若くみずみずしい肌、短パンから伸びる綺麗な形の脚に欲情しそうになるが、口を半開きにして馬鹿面を晒して眠るのを見ると幼さを感じ、膨らんだ感情が少し落ち着いた。


「ったく……」


 胸に表現しがたい感情が浮かび、それを振り払うように頭を振ると、彼方を寝室に運ぶ。
 その途中で、揺られて薄らと意識が浮上したのだろう、彼方が楽しそうにふふ、と笑い、俺の首にギュッと抱きついてきた。首筋に彼方の吐息が当たる。


「折谷さんだいすきー」

「はいはい、ありがとねー。すっげえ嬉しー」


 彼方は俺の適当な相槌を聞いているのかいないのか、嬉しそうに俺の胸に頭を擦り寄せる。……あんま可愛いことしてっとペロッと食っちまうぞ、こら。


 寝室にあるベッドに彼方を降ろし、腰に手を当ててふう、と息を付いた。
 彼方は軽いが、リビングからここまで横抱きにして歩くのは少し難儀だ。彼方と俺は10センチほどしか身長が違わないのだ。体重がなくとも、身長のある男を持ち上げるのは骨が折れる。


 さて、彼方は寝かせたし、俺はリビングに戻って報告書でも書くかな。
 そうして部屋を出ようとしたとき。
 ぐいっと何かに引っ張られて歩けなくなる。チラッと見れば、彼方が俺のトランクスの端を握っていた。おいこら待て、なんでお前俺のパンツ握ってんだよ馬鹿。
 指を剥がそうとするが、どこにそんな力があるのか問いたいくらいに強い力で握られていて中々剥がせない。


「おい、馬鹿猫」

「ん……、」

「色っぽい声出しても俺は騙されません。放せ」


 再度ぐいっと指を引き剥がそうとすると。


「おいおいおいおい、ちょい待てこら!!」


 俺のパンツを握った彼方が腕を下に引く、のを寸でのところで食い止めた。危うくポロリしそうだった。危ねえ。
 ……つーか、彼方、お前起きてねえ?
 拳を握り、彼方の頭に容赦なくそれを振り下ろす。ゴンッと鈍い音が鳴った。


「い……っ!な、何するんだよ、折谷さん!」


 瞬時に殴られたところを押さえて抗議の声を上げる彼方。
 やっぱり起きてたな、コイツ……。


「何すんだよはコッチのセリフだ馬鹿。お前とりあえず手ぇ離せ」

「えー」

「は・な・せ」

「……はーい」


 ギロッと睨みつけると、彼方は渋々といった風体でようやく手を離した。すかさず斜めになったトランクスを直していると、その隙に彼方が俺の腰に抱きついてくる。
 おい、もうちょっと頭の位置下がると危ないぞ……もしかしてわざとか、コイツ。


「離せって言ったよな?」

「いいじゃん。俺いい子にして待ってたんだよ?ご褒美ちょーだい。一緒に寝よー」

「俺は仕事が残ってんの。今までいい子に出来てたんだから、もうちょっといい子にしてろよ」


 ぽんぽんと優しく頭を叩いてやると、彼方はゆっくりと俺の腰から手を離した。見上げた顔には不満が浮かび、口が尖っている。かなり顔立ちの整った彼方だからまだ見れるが、良い年をした男がする表情でないことだけは確かだ。






◇◇◇






「っとに、アイツは……」


 ぐちぐちと愚痴りながらリビングでソファーに座り、膝に置いたノートパソコンに文字を打ち込む。『上』から配られた特殊ソフトのソレは、報告書のテンプレートがあるため、報告書を作るのは容易だ。が、面倒くさい。
 ターゲットの顔写真と簡易プロフィールが打ち込まれたシートに付け加えていく。『能力』使用の有無。場所、時間、その他諸々。事務的にそれを打ち込みつつ、脳内にあるのは馬鹿猫の顔だ。


 数週間前の雨の日。アイツ、彼方を仕事帰りにとある路地裏で拾った。
 薄汚れた服と靴、不格好に伸びた髪や爪、体中にある傷。どこからどう見ても訳ありの少年だった。
 狭い路地裏にうつ伏せに倒れているものだから、初めは死体かと思ったのだが、実際には熱を出して倒れているだけだった。
 普段の俺ならば関わろうともしないが、その時は雨が降っていた。俺は雨が好きだ。故に、いつもより2割増しで機嫌が良かったのだ。
 興味本位で仰向けに起こしてみると、だらしなく不潔な外見からは想像もつかないような整った顔立ちをしていた彼方。
 これまた興味本位でお持ち帰りをしてしまった―――のが運の尽き、だと今なら言える。


 俺にしては珍しく、甲斐甲斐しく看病した。一つしかないベッドを譲ってやったり、おかゆを作ってやったり、汗で濡れた体を拭いてやったり、傷の手当てをしてやったり、魘されていればアイツの求めるままに優しく抱きしめてやり、落ち着かせてやった。
 しかし、数日して回復し、意識がはっきりした彼方はまず俺に抱きついたのだ。そして。


「俺をここに置いてください!」


 じゃないと離れません!とも言った。
 テメエそれが親切にしてやった人に対する態度かコラ、と足蹴にしたのに、ぎゅうと抱きついて離れない彼方。
 渾身の力で抱きついてくるのは痛かったし、それにその後に仕事を控えていて時間が押していた。結局その場しのぎで是の返事を出してしまった、のも悪かったのだろうと今だから思えるが、そのときはそれが最善だと思ったいた。俺の馬鹿。
 仕事から帰った俺を待っていたのは―――温かいご飯と、沸いた風呂。そして、下着の上に俺のブラウスを羽織った彼方。なに人ン家で勝手してんだテメエという言葉はどうにか飲み込んだ。
 体格の違いから、ブラウスだけでも秘部は隠れる。隠れるのだが、だからこそ余計に始末が悪い。ブラウスから伸びる白い脚に欲情した―――が、今思い出してみると、なぜ彼方なんかに欲情したんだよ、俺。あんな馬鹿猫に。と自分が情けなくなるので、ここで思い出すのをやめた方が心情的に平和である。






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