小説 | ナノ




自分が一体どんな顔をして、どんな風に歩いて彼をレジまで案内したのか覚えていない。
とにかく心臓の音が体中に煩く響いていて、息苦しくて、まともに頭が働いていなかった。
きっと顔色もおかしかったのだろう。代わりにレジに入って貰っていた男の子が小声で「大丈夫ですか」と声をかけてくれたけど、それさえ意識の端を素通りするようで、ただ反射的に「大丈夫」と頷いていた。

『 今日も、待ってるんで 』

紙袋に入れた商品を手渡した後、去り際に言われた一言。
顔を上げなくとも彼の目がしっかりと私を捕えているのがわかってしまって、ぞわりと胸が竦んだ。
逃げられないと、思った。



「――か げやま、君」

自販機の前。言葉通り、彼はまたその場所で私を待っていた。
自転車を押しながら恐る恐る声をかけた私を一瞥すると、徐にこちらへ近づいてきた彼が無言のまま自転車を挟んで私に並び、ハンドルに手を掛ける。

「……チャリ、俺が押していきます」
「――ハイ」

逃走手段を奪われた。
いや、この期に及んで逃げようとは思っていなかったけども、やっぱり影山君は相当おかんむりのご様子。
そんな彼にまさか反抗できるわけもなく、私は消え入りそうな声で返事をして、大人しく斜め後ろをついて歩くしかない。

(どうしようどうしようどうしよう……!影山君何も言ってこないし!や、やっぱり先に謝った方が……!?)

大通りを通り過ぎ、街灯も少ない静かな道に入ってもだんまりな影山君に戸惑いだけが加速する。
だって影山君はもっと、激情型と言うか、直情的な子じゃないかと思ってた。
なんなら顔を合わせた瞬間に『なぜ嘘をついたのか』と大声で詰られるパターンもありえそうなのに。
こんな、静かに怒りを見せつけられると、いよいよもってばつが悪い。

「〜〜〜ッ、あの、!」
「――みょうじさん」

とにかくこの居心地の悪い沈黙から抜け出したくて、意を決して彼の背中に声をかける。
と、ピタリと足取りを止めた影山君が、こちらを振り向かないまま言った。


「嘘つくほど、迷惑でしたか」


感情の起伏を見せない冷えた声。
胸を一直線に貫かれた気がして、やっと気が付く。
ハンドルを握る影山君の手は、力が入り過ぎて白くなっていた。

「っ……!」

バカだ、私。

『この子には、私の気持ちみたいに“些末”なものは見えていない』なんて。
自分だけが傷つけられたような、か弱い被害者みたいな顔して。
自分本位で、“見えていない”のは私の方だった。

嘘をつかれた彼の気持ちを、私は考えようともしなかった。

「――ッ……ごめん、なさい!!」

影山君は振り向かない。
それはわかっていたけれど、重くのしかかる罪悪感に耐え切れず、頭を下げたままスカートの裾を握りしめる。その手が震えるほど、ただ自分が恥ずかしかった。

「わ、たし……っ影山君に、嫉妬、してた……!」

羨ましかった。
“夢”がある彼が。
きっといつか、それを叶えてしまう彼が。

「わっ、私は……昔、から、夢とか、目標とか、そういうの全然なくて……っ」

いつだってそうだった。
将来の夢だとか、なりたいものなんて見つからなくて。
抗う理由もなかったから、周りの状況に流されるまま、なんとなく生きてきた。
親や先生に勉強しろと言われるから従って。今大学に通ってるのだって、“みんな”が必死に受験勉強していたから。夢も目標もないくせに、自分だけ置き去りにされるのは嫌だった。
そんな、空っぽな生き方をしてきたのだ。

「――っ、だから…影山君と、一緒にいると苦しかった……!頑張ってる影山君を見てると、自分がすごく、情けなくて……私今まで、ほんと何してたんだろ、って……ッそれで、」

感情が昂ぶって、声が上擦る。
今になってやっと、自分の中に渦巻いていた感情の核心が見えた。
気付いてしまった。

( 私、は )


「そんな、つまんない私を……影山君に知られたく、なかった」


朝日の中で煌いていたあのひたむきな眼差しに――私が憧れた彼の瞳に。
空虚な自分は一体どんな風に映るのかと、思うと。
――逃げ出したいくらい、恐かったのだ。

「……――みょうじさん」

ガチン、と自転車のスタンドを立てる音がして、俯く視界の端に影山君のスニーカーが見えた。
それでも顔を上げられず、まるで審判を待つ罪人のような心持でじっと次の言葉を待つ。
そうしていると、私が顔を上げないことを悟ったのか影山君がゆっくりと息を吐く音が聞こえて――そんな微かな息遣いにすら密かに肩を跳ねさせている自分が、尚更情けなかった。

「……俺、小2の時にバレーに出会って……すげぇ楽しくて、もっと強くなりたいって、そればっかで……そっからもう、俺にはバレーしかないんで………もし、自分がバレーと出会ってなかったら、今どうなってたかなんて全然わかんねぇし……みょうじさんの気持ちとか――俺といると、どんだけ苦しいのかも……正直想像できません」

『だから』と続いた言葉に、吸い寄せられるように顔を上げていた。
いつの間にか少し涙ぐんでいた視界の中で、影山君が私を見ている。

「――ひとつだけ、嘘つかずに教えてください」

あのまっすぐな瞳のまま、私を見ていた。



「みょうじさんは、みょうじさんを苦しめる俺のこと、嫌いですか」



「ッ――!!」

なんて、ことを聞くんだろう。この子は。

(やっぱり、ズルい)

そんな、わかりきったこと。

だって、嫌いだったら毎朝早起きしてまで彼を見ようとなんてしない。
自分との違いを見せつけられて、苦しくて、情けなくなっても。眩しさに目を焼かれたとしても。
それでも見つめることをやめられなかったこの瞳に宿る光に、私は、

「ぃ、な わけ……」

私は憧れて――焦がれていた。


「嫌いなわけ、ないよ……!」


「――……そう、スか」

影山君の声が、さっきまでの硬さをなくして俄かに柔らかくなる。
自分で訊いたくせに彼も気恥ずかしさを感じずにはいられないらしい。私から視線を逸らして指先で掻いた頬は、数メートル先にある街灯の灯りでもわかるほど紅潮していた。

けれど、そんな照れ隠しの仕草も束の間のことで、次の瞬間にはまたあの目に捕えられている。
その目つきが不意に何かを――獲物を前にした猛禽類のそれを彷彿とさせて、思わず足が半歩ほど逃げかけた。けど、胸の内を全て晒した私に、もう逃げ道は残されていないことも、わかっていた。

「……――嫌いじゃないなら、俺に預けてください」
「っ、え?」


「みょうじさんの“夢”が見つかるまでで良いです――だから、それまでは俺をみょうじさんの“夢”にしてください」


「…………え、っと…それ、は、つまり……?」

まさか。
まさかとは思うけどこの子、漫画とかドラマとかで見かける『私の夢は○○君の夢が叶うこと!』的なアレを言っているのだろうか。

(え……でもそれってそれこそ家族とか、恋人間くらいでしか成立しないんじゃ……?)

「俺、みょうじさんに『がんばれ』って応援された時、なんかこう――燃えました」
「(『もえ』、ッえ、なんて!?)」
「腹の底がカッと熱くなって、身体軽いのにいつもより断然力が出て……今試合したら絶対誰にも負けねぇって、本気でそう思いました」
「え…っ、え、ちょっ、ちょっとおちつ、」


「――だから、あんたに応援してもらえれば、俺はもっと強くなれます!!」


「〜〜〜っ、なん、!」

(なんでそこまで言い切れるの!!)

どうしよう。ほんとマズイ。どうしようこれ!!
さっきまでより全然恥ずかしい!!!

いや、影山君の言ってることは相変わらず結構自分勝手だと思う。
だけど言葉と一緒に身体もグイグイ来るものだから、勢いに押されるまま後退した私の背後には植え込みがあって、これ以上は下がれない。

「……ダメですか」
「ッ……だ、ダメって、言うか……!」

影山君の提案が、全然嬉しくないわけじゃない。
でも、自分の目標が見つからないからって、とうとう私は他人の“夢”に便乗するのか。
そう思うとやっぱり、人としてそれはどうなのかとか、色々考えてしまうわけで……!
――それなのに、葛藤する私をじっと見下ろす影山君はどこまでも上手だった。

「………こないだみょうじさん、俺に『世界一になってほしい』って言いました」
「ぅ、え……?」


「――あれも、嘘だったんですか」


「ッッ――嘘じゃ、ない!!」

拗ねたような目で、唇を尖らせて。そんなのは反則だ。
私よりもずっと背が高くて、しっかりしてて努力家なこの子を、可愛いと思ってしまった。
喜ぶ顔が見たいと思ってしまった。

輝く舞台で彼が夢を叶える、その瞬間を見たいと思った。

「!なら――」
「〜〜〜っ……うん、わかった」

「私の負けだよ、影山君」

届かないと諦めていた光に、手を伸ばす。
きっと住む世界が違うのだと思いこんでいた彼は、だけど私が差し出した手を当然のように取って。
大きな手でぎゅっと、強く握り返してくれた。

「……これからも、よろしくね」
「っ、はい!」

見上げた夜空に輝く一等星のような彼が、ただの憧れから、私の“夢”に変わった。
その帰り道はかつてないほど胸の中がすっきりと軽くて、ふんわりあたたかくて。
隣を歩く影山君の横顔を盗み見る度、頬が緩んでしまって大変だった。



(14.10.20)

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