小説 | ナノ

柔らかな霧雨の振る朝だった。

「…………ない」

まだ大体の人が寝静まっているであろう時間帯に化粧もせずに外に出た私は、かれこれ15分以上、自分の部屋の前にある川沿いの道を行ったり来たりしていた。

(ええー……絶対この辺りのはずなのに、なんで……?)

時はさかのぼって、昨日の帰宅後のこと。
バイトから帰ってきた私はベランダに干しておいた洗濯物を取り込もうとして、あることに気が付いた。
ハンカチが一枚、洗濯バサミだけ残してなくなっていたのである。
おそらく、急いでいたから干し方も適当になっていたんだろう。それに昨日は少し風が強かったから、そのせいで飛んで行ってしまったのだろうと容易に想像できた。

本当はすぐに探しに行きたかったけど、ポツポツと並ぶ街灯に照らされているのは狭い道だけ。
いかにもハンカチが落ちてそうな、ベランダの下の植え込み付近なんかは当然真っ暗で、捜索は困難を極めることうけあいだった。

(――だから、いつもより早起きして探してる、のに!)

全然見つからない。
植え込みの影も、道の先も、結構離れた場所まで探しに行ったけど見つからない。
5分もあればすぐに見つかると思ったのに、とんだ誤算だった。

「………川に、落ちちゃったかな」

これだけ探して見つからないということはつまり、そういうことだろうか。
思わず声に出していた言葉は、自分が思った以上に悲しげに聞こえた。

――別に、特別なものでもなんでもない。
ほんの霧雨とは言え、長時間野ざらしになっていたものがまた使えるとも思っていなかった。
ブランド物というわけでもなく、いつ買ったかもハッキリ覚えてないような、代えのきく日用品。
だけど愛着はあった。

自分の気に入っていたものが、どこかで薄汚れて、ボロボロになっていく。それを、誰かが鬱陶しげに一瞥しては通り過ぎていく――そんな光景を想像すると、例えもう使えないものだとしても、自分の手で拾ってきちんと処分したいと思ったのだ。

(……早くしないと、“あの子”が来る時間になっちゃ、)

「――ッ!!」

そう思ってふと顔を上げた瞬間。微かな足音が、聞こえた。

マズい。
チラリと視線だけ動かして探ってみれば、道の遠くから人影が近づいてくるのがわかる。
この軽やかな足音。やっぱり“あの子”だ。

(そうだよね今日走りに来る日だもんね!だけど『霧雨だしもしかしたら』なんて考えが甘かった!)

こんな、うぶ毛が僅かにひんやりする程度の、傘もいらない霧雨なんかであの子が断念するはずがない。
会話はおろか、目が合ったことさえ一度もないけど、そんなヤワな子じゃない。
彼のひたむきな熱意が、この程度のことで挫けたりするはずがなかったのだ。

(あああああどうしようどうしようどうしよう!!一回部屋戻る!?や、でも今戻っても間に合わない!?と言うかなんか白々しい感じする!?)

迷っている間にも足音はどんどん近づいてくる。
別にこのままここに居たって彼には何の関係ないんだろうけど、なにぶん私が落ち着かない。
だって、彼は私を知らないだろうけど、私はいつもベランダからこっそり見ているのだ。
なんか、こう……罪悪感と言うか、やましさと言うか、後ろめたさと言えば良いのか。
とにかく胃の奥がぞわぞわするようで、おまけに心拍数もちょっと笑えないレベルまで上がっていた。

(こっ……こうなったらもう、気づいてないフリでやり過ごすしか……!)

ぐるぐる考えているうちに足音はすぐ傍まで迫っていて。
結局私は、地面に両膝をついて植え込みの下を覗き込んだ姿勢のまま、息を殺して彼が通り過ぎてしまうのを待つことに決めた。

――のに、

「――あの、」
「ッッ!!?」

(はっ…はな……!話しかけてきた……!!?)

初めて聞いた、声。
それが誰のものか――なんて、考えるまでもなかった。
足音は止まってて、少しだけ上がっている息を整える呼吸音。

「……大丈夫、スか」

漠然と予想してたものよりも少し、男の子っぽい。

「…ぁ……え、?」
「?具合、悪いんじゃ……」
「……――ッ!!」

吸い寄せられたように顔を上げた私の視線の先で、いつもよりもずっと近く、はっきり見たその顔は僅かに眉間に皺を寄せ、つり気味のあの瞳で不思議そうに私を見ていた。

――つまり、普通に心配されてた。

(わっ、私が紛らわしい体勢で固まってるから……!!)

そうか、この恰好、この子には具合悪くて倒れ込んでるように見えちゃったのか……!
ああ、なんて親切で優しい子なんだろう!泣ける!!
恥ずかしくて泣ける!!!

「だっ!大丈夫!!大丈夫デス!!私あのっ、探し物をしていただけで……!」
「探し物……?」

慌てて立ち上がり、膝についた土を払いながら必死に笑顔を取り繕う。
ああ、それにしてもこうやって近くに立ってみると、やっぱり背が高い。180pくらいあるかな。
でもまだまだ伸びしろありそうだ。ああ、男の子ってほんとすごいなあ!
――なんて、恥ずかしさのあまり現実逃避気味に考えていた私をじっと見降ろす彼が、なにかを思い出したように「あ、」と小さな声を上げた。

「もしかして、ハンカチっスか」
「!!え、あ…うん!」
「ピンクの」
「そう、ピンクの!!」

どうしてこの子がそんなことを知っているんだろう?
驚きながら疑問に目を丸めていると、彼が徐に道の脇を指をさす。
それを追いかけた先――桜の木の細い枝に、探していたハンカチが括り付けられていた。

「――あった!!」
「スンマセン。昨日夜に通った時に落ちてるの見つけて……一応わかりやすい場所にくくっといたつもり…だったんスけど……」

チラリと私を見た彼が言い淀む。
なるほど、下ばかり探していた私には見つけられなかったはずだ。
彼がハンカチを結んだその枝は、長身の彼からすれば目線に近い位置なんだろうけども、私の視界からはギリギリ外れる高さにあった。

「ううん!結んどいてくれてよかった、これならまた使えそう」

雨に濡れたり、汚れたりしないようにという気遣いもあったのだろう。
背伸びして枝から解いたハンカチは少しひんやりしているものの、あまり汚れた様子もない。
一回洗濯すれば元通りに使うことができそうで、素直に嬉しかった。


「見つけてくれて、本当にありがとう!」


「――……っす」

ペコリ。頭だけ小さく下げて、眉間にギュッと眉を寄せた彼が一拍置いてから走り出す。
私の横を通り過ぎる間際、一瞬だけ見えたその横顔がほんのり赤くなっていたことに破顔せずにはいられなかった。

「がんばって、ねー!」

空が眩しくなってきたとは言え、まだ早朝。
あまり大きな声を出すわけにもいかず、遠ざかっていく背中に抑え気味の声援を送る。
――と、びっくりしたように肩を跳ねさせた彼が、目を見開いて私を振り向いて、
それからまた、ぎこちない会釈一つの後に真っ直ぐ前を向く。
一直線に、脇目も振らず走っていく。

いつもと同じ光景。
だけど、いつもとは違う、昂揚感。

少しペースを上げた後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
その姿が不思議と誇らしく思えて、胸の高鳴りは、しばらく治まりそうになかった。



(14.09.28)

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