小説 | ナノ

凛と冷たい朝の空気を裂くように、黒い髪が短く跳ねる。
ランニングシューズの靴底が一定のリズムで地面を蹴る音。
他人の目には見えない“何か”を、けれど確かに、一直線に追いかける吊り上った瞳は迷いなんてなくて、
目の前を通り過ぎる刹那に閃くその輝きは、まだ雲の向こう側で眠る太陽よりももっと、
――もっと、眩しかった。




レグルスの光跡




(――あ、今日も来た)

ベランダの花に水をやる。それが口実になったのは、川沿いの狭いこの道が彼のランニングコースなのだと気付いてからだった。

(……やっぱり、輝いてるなぁ)

まだ小鳥も眠る、朝日も昇り切らない早朝。段々と近づいてくる軽快な足音。明確になる人影。
毎日というわけではないけど、彼がこの道を走り抜ける時間は大体決まっていた。
ついさっきあたたかいベッドを抜け出して来たばかりの私にはいささか冷たすぎる空気の中を、彼は息を乱すこともなく、いつものペースで颯爽と駆け抜けていく。

たまたまいつもよりもうんと早く目が覚めて、気まぐれにベランダに出たあの日。
目に焼き付いたその光景が、真っ直ぐ前だけ見つめる横顔が、いつまでも頭から離れなくて。
その、流れ星みたいな一瞬のきらめきを一目見たいがために、いつの間にか必要以上に早起きをする習慣がついてしまった。

(青春、だぁ)

ベランダの手摺の上で組んだ腕に頭を預け、自然と目を細める。
ひたすらに眩しい。名前も知らない、男の子。
背が高くて目つきも鋭いけど、全体的な顔つきからして年下だと思う。多分、高校生。この熱心な走り込みを見る限り運動部なんだろうけど、何部かまではわからない。

対して私は本年度大学2年生。モラトリアム満喫中、と言えばポジティブに聞こえなくもない。
――けど、つまるところは明確な目標もないままなんとなく進学して、ある程度自由になるお金がほしくてバイトを始め、試験前にはそれなりに勉強して、そうでなければそれなりに遊ぶ。そんな、ゆるやかで大きな流れにただ身を任せるような毎日を送っているだけ。

だからこそ眩しい。
きっと何か、とても大きな目標に向かって、脇目も振らず走っていく彼の輝きが。

胸の深いところが、ずくりと疼くほど。

「………」

プランターに植えた黄色いガザニアは盛りを迎え、日の光を待ちわび綻び始めている。
触れれば弾むようなその花の、細い茎の一つにそっと爪を立て、手の中で花弁をほぐした。


「 がんば、って 」


どうせ届きはしないだろうと、たかを括っていた。
声も、掌から零れ落としたガザニアの花弁も。

その瞬間に強い風が吹き抜けて――なんて、物語みたいな奇跡はもちろん起こらない。
私が描いた僅かな放物線をささやかに彩って、鮮やかな黄色は散り散りに落ちていく。
今、まさにこの部屋の前を横切って行く彼の、どこまでも真っ直ぐな視界の端に、ほんの僅かな影を落とすことさえできないまま。

はらり。ひらり。
舞い落ちた一片が風に吹かれ、彼の走り去った道の端で寂しげに揺れている。
その様を見ていると急に虚しくなって、誰にでもなく誤魔化すように笑ってしまった。

(なにやってんだろ、私)

ため息をついてガザニアに背を向け、ガラス戸を開ける。
今日は2コマめからだから、今からならもう一回寝られそうだ。……いや、だけど天気も良さそうだし、洗濯機だけ回してしまおうか。

(あ、でも夕方からバイトだし、やっぱり寝といた方が良いかも)

うだうだ考えながら生温かい部屋の中に戻り、後ろ手に戸を締める。
――その向こう側。

あの軽快な足音が不意に途切れていたことを、まだ知るよしもなかった。



(14.09.27)

next