小説 | ナノ

まずいことになった。

(――まさかあんな……まるきり不意打ち、みたいな、)

引鉄になったのは、本当に些細な瞬間で。
ただ、頬に落ちた雨粒を冷たいと感じた時、無性に彼の手の熱が恋しくなった。
もう一度あの掌に包まれたいと、無意識にそれを目で追いかけて、

触れられたいと、思ってしまった。



「〜〜〜〜っ」

授業時間終了のベルが鳴り、講師の先生に続いてざわめく学生たちが次々に席を立つ。
その波に乗ることもできず、開きっぱなしの真っ白なノートに俯せて重い息を吐いた。
今日は朝からビッシリ4コマ。だけど、まともにノートを取れた講義はひとつもない。
気が付けば影山君のことばかり考えてしまって、何を言われても全然頭に入ってこなかった。

「なまえー、大丈夫?」
「あんた今日ずっとぼんやりしてたね」

両側から私の肘やら頭を突いて声をかけてくる友人に唸り声のように「大丈夫」とだけ返事して顔を上げ、のそのそと机の上のものを鞄の中にしまう。
昨日の夜ほとんど眠れなかったせいか、どことなく頭も重い気がした。

(今日はバイトないし……このまま帰って寝ようかな……)

花の女子大生らしからぬ思考ではあるけど、今日はもう、何をしたって集中できない気がしていた。
だってほんとに、頭の中が影山君のことでいっぱいなのだ。

(――……私、ほんとに“恋”したことなかったんだなぁ)

『カッコいいな』と思う人なら、今までだって普通にいた。
それは小学生の頃、同じクラスにいた運動が得意な男子だったり、近所の交番で見かけた警察官のお兄さんだったり、流行りのアイドルグループの男の子だったり。
だけどその中の誰か一人にでも――仮にもお付き合いをしていた人にさえ、こんな気持ちを抱いたことは一度だってなかった。

(気付いちゃったら――認めちゃったらダメだって、わかってたのに、)

自分の中に初めて芽吹いたこの感情から、できることならずっと目を逸らしていたかった。
気付かないふりをして、自分を上手に誤魔化して――着かず離れずな今の関係をこのまま続けていけるのなら、それが一番良いと思ってた。
――思おうとしてた。

けれど“それ”は、私が予想していたよりも遙かに手におえない代物で。
自分に言い聞かせようとしていた私を嘲笑うかのように、ほんのささいなきっかけで、呆気ないほど簡単に弾けてしまった。
押し殺すことなんてできはしないのだと、知らしめるように。

(こんな簡単に、歯止めが効かなくなっちゃうものなんだ……)

一度、溢れてしまったらもう、抑えておくことなんて――目を背けることなんて、できない。
まるで坂道を転がり落ちていくように、自分のコントロールを越えてどんどん加速していく。そんな感情があることを、生れて初めて、身を以て知った。

(………影山君に、どんな顔して会えば、)

昨日はあの後、彼と何を話したのか正直なところあまり覚えていない。
いっぱいいっぱいだった。初めて味わう、苦しいほどの胸の高鳴りの中で、自覚してしまった想いを彼に悟られてはいけないと。
……だけどそれも、一体いつまで隠し通せるだろうか。

「なんか元気ないね。悩みでもあるの?話聞くよ?」
「ああ、そうだ。あんた今日バイト休みの日でしょ?気晴らしにどっか遊びに行こっか」

余程鬱々とした顔をしていたのか、気を使った二人がそう提案してくれる。
「ちょっと高いケーキでも食べれば気が晴れるかもよ」と肩を叩かれ、なるほどそれも良いかもしれないと、生返事をしながらポケットに入れていた携帯電話を何気なく確認する。
電源を入れると新着メールの通知が来ていて――差出人を確認した途端、面白いくらいに動悸が激しくなった。

(影山、君……!)

『すみません。数学でどうしてもわからないとこあるんで、聞きに行ってもいいですか』

影山君らしい、飾り気のない簡潔なメール。
受信時刻はおよそ30分前。

白く発光する液晶画面に表示されたその文章を、無意識に息を止めたまま、食い入るように見つめて、何度も読み返して。それからゆっくり、胸に手を当てて深呼吸をした。

「――ごめん。用事できちゃって……ケーキ、また今度誘ってね!」



* * *



「……いきなりお願いしてすみませんでした」
「ううん!こっちこそごめんね、ちょっと今部屋散らかってて……」

夕方6時。私の借りている部屋から一駅分ほど離れた場所にあるファミリーレストランに、待ち合わせ時間ぴったりに影山君がやってきた。

「ドリンクバー二人分頼んでるから、好きなの入れてきてね。あ、お腹すいてるなら何か食べる?好きなの奢ってあげるよ」
「いや、帰ってから晩飯なんで大丈夫です。つかドリンクバー代……!」
「いいのいいの。影山君にはいつもお世話になってるんだから。これくらいさせて!」

ね?と笑いかけてみせると、影山君はお財布を取り出そうと浮かした腰をしぶしぶ下ろす。
わざわざファミレスに来た理由が、本当は『部屋が散らかってるから』じゃなくて――単純に今、影山君と二人きりになるのが気まずかったから……だったりするものだから、そんな私の都合のために影山君にお金を出させるつもりはなかった(……ってことは影山君には言えないけど)

「よし、だったら晩御飯の時間までに終わらせなきゃね!さっそくだけど始めよっか」
「はい。あの――ここなんですけど」

影山君が鞄から取り出して広げた教科書を二人して覗き込む。
わからないと首を捻っている公式は、この間部屋で試験対策した時には説明を省略した部分だった。

「ああ……うん。ここはね、」

影山君が半分寝ながら書いたであろうノートと照らし合わせながら、できるだけ丁寧に説明していく。
私の指先を熱心に見つめる視線を前に、表情まではごまかせても心臓だけはそうもいかない。
いっそ笑いたくなるくらい、バカ正直にドキドキうるさくて――どうしても静かになってしまう私の部屋ではなく、人の集まるファミレスを選んだのはやっぱり正解だった。

(――でも、よかった。ちゃんと、普通に話せてる……)

時々シャーペンを止め、たどたどしく練習問題を解いている影山君に気づかれないよう、ほっと息をつく。
我ながらどうなることかと思ったけど、表面上はいつも通りを装えている――と、思う。

(大丈夫……ニヤけてはいない……はず。多分)

頬杖をつきながら、さりげなく表情筋をチェックした。
……だって、今日はバイトがない日だから、もともと会わない予定だった、のに。
テスト勉強のためだってわかってはいるけど、影山君の方から連絡くれて――待ち合わせなんかしちゃって。こうして二人、向かい合ってひとつのテーブルについているのだ。
自覚こそしたばっかりだけど、そりゃあもう……ニヤけそうにも、なる。

(………こうして改めて見ると、影山君てほんと……カッコいいんだなぁ)

初めて遠目に見た時からわかってはいたけど、近くでみるとやっぱり、整った顔つきをしている。
ちょっと吊り気味でキツく見えるけど、目はパッチリしてるし……睫毛も、長過ぎず短過ぎず。
髪も、肌だって男の子にしては綺麗だし、頭の形もいい。後頭部とか、丸くて可愛いし。
それに、癖なのかよく尖らせてる唇の、形も――

「――……みょうじさん?」
「ッな、に!!?」
「?いや……俺の顔、なんか付いてますか?」
「(見過ぎた……!)えっ、あ……っな、んでも、!ッ……ご、ごめん!!喉乾いたからドリンクバー行ってくるね!!」

(何やってるの私……!!)

訝しげに小首を傾げる影山君の視線を振り払って慌ただしく席を立ち、テーブルから死角になっているドリンクバーの陰に逃げ込む。両手で包み込んで確認した頬は予想通り、燃えるように熱い。

「っ………はぁぁ」

本日何度目になるかわからないため息をついて、できることなら目の前にあるこの氷のケースに頭ごと突っ込んでしまいたいと、そんな衝動に駆られた。




(14.12.28)

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