小説 | ナノ




高校時代、私にも一応、お付き合いをした人がいた。

ひとつ上の学年で、当時の冴子先輩と同じクラス。
悪い人ではなかった。
サッカー部に入っていて、明るくて、何事にも前向き。
今思えばちょっと強引なところがあって、一体私のどこが気に入っていたのか知らないけれど、頭を下げて『付きあってほしい』と告白された時、面食らった私は断りきることができなかった。

(今思えば、本当に中途半端なことしちゃったなぁ……)

結論から言えば、私は最後までその人に恋をすることはなかった。

だって声をかけられるまで顔も名前も知らなかった先輩だ。
そんな人を意識して“そういう対象”として見ることさえ、私にとっては難題だった。
だけど、頭を下げたその人の節ばった手が、白くなるほど硬く握りしめられて、私を説得する声は微かに上擦って震えていたから。嘘や冗談で言ってるわけじゃないって、それだけはしっかり伝わってきて。
いつかクラスの誰かが言っていたように、『付きあってみてから好きになる』こともあり得るのかもしれないと、いつの間にか自分に言い聞かせて、流されることをよしとした。
――心のどこかで、その人の気持ちに応えることはできないと、初めからわかっていたのに。

そんな私を叱ってくれたのが、冴子先輩だった。



「――みょうじさん」
「!!ッ、な に!?」
「……信号、赤です」

急に肩を掴まれ、声が裏返ってしまった。
そんな私を訝しげな目で見て、影山君は信号機を指さす。
歩行者用のそれは彼の言うとおり既に赤に変わっていて、信号待ちをしていた車の列が緩やかに動き出す。
多分、影山君が止めてくれなかったら私は何も考えずにまっすぐ歩き続けていただろう。
さすがにちょっとヒヤリとして、慌ててお礼を言った。

「ごめんね、ちょっとぼーっとしてて……」
「いえ……もしかして具合でも悪いですか」
「え?あ――ううん!か、考え事してただけ、だからっ!」

心配そうな顔つきで、影山君が私の顔を覗きこもうと少し背を屈めてくる。
ただそれだけで心臓が飛び跳ねて、赤くなった顔を隠すために傘を傾けながら半歩ほど彼から離れた。

(ううう……冴子先輩のバカ……!)


『答え、出てただろ?』


悪戯っぽく、かつ快活に笑った冴子先輩の言葉が頭から離れない。
そのせいで、影山君の顔をまともに見られない。
しかもそんな日に限って雨が降ってしまうのだから、彼の隣を歩くのも、話をするのも、なんなら息をするのさえ妙に意識してしまって、息苦しいことこの上なかった。

(……なんか、調子狂う)

こんなこと、仮にも『お付き合い』をしていた時でさえ全然なかった。
だと言うのに、相手が影山君だと上手くいかない。
自分で自分をコントロールできない、のに、

(……嫌じゃない、なんて)

「――…て、テスト期間なのに迎えに来てもらってごめんね」
「……また、昨日みたいなことがあったら困るんで」
「ぅ、あ…そ、だね。あんなの滅多にない、とは…思うんだけど……」

昨日の、あの出来事の話題になってしまって、一段と頬が熱くなる。
丁度その時信号が青に変わって、歩き出した影山君の横顔を盗み見ると、眉間に思い切り皺が寄っていた。

(な、なんか怒ってる……!どうしよ、話変えなきゃ!)

「テスト……!どうだった?大丈夫そう?」
「――あ。そう言えば英語、みょうじさんの言ってた単語とか、結構出ました」
「ほんとっ?」
「今までで一番答え書けたんで、多分赤点ではないです」

『ありがとうございます』と、影山君が小さく頭を下げる。
それが、純粋に嬉しくて。
少しでも彼の役に立てたことが誇らしくさえ思えて、頬が緩むのを堪えきれなかった。

「そっか……!よかった。この調子で残りの科目も頑張って!」
「………いや、でも最終日の現国は苦手で、」
「よしっ!全教科赤点なしだったら、頑張ったご褒美にひとつだけお願い聞いてあげる!」
「!!」

ピタリ。横断歩道を渡り終えた影山君が、突然立ち止まる。
どうかしたのかと見上げた私に、影山君は恐ろしいほどの真顔で念を押した。

「……何でも、ですか」
「、え……や、その。あ、あんまり高価なものとか、は、無理だよ……?」

何だろう。
影山君くらいの男の子だから、「肉が食べたい」とか、「新しいシューズがほしい」とか、そういうのだと思ったんだけど、なんか、そんな雰囲気ではない。
いつになく真剣な面持ちでじっと私を凝視する影山君が一体何を考えているのかわからなくて、思わず喉が鳴る。
と、しばらく沈黙を保っていた影山君が、ようやく口を開いた。

「――卒アル」
「………え?」
「みょうじさんの高校の卒アル、見たいです」
「…………卒業、アルバム?」

何を、言い出すのかと思えば。
随分可愛らしいお願いに、変に身構えてしまっていた分、肩の力が抜ける。
そんな私の反応に、影山君は少し気恥ずかしげに唇を尖らせつつ、「ダメっすか」と眉を顰めた。

「い や……あの、そんなので良いの?」
「はい」
「もっと他に……えっと、ほしいもの…とか」
「……なら、今度烏野の制服着てるとこ見せてください」
「それは無理!!」

何てことを言い出すんだこの子は。

(い、今更制服着るとか……!しかも影山君の前でとか絶対無理!!)

烏野を卒業してはや1年。
たった1年と思うかもしれないけど、制服なんて卒業した翌日からなんとなく袖を通しにくいものだ。
コスプレ――とまでは言わないけど、なんか、着ちゃダメな気がする。気後れするって言うか、とにかく無理だ。

「わ、わかった……!卒アルね!実家の方に置いてあるから、今度送ってもらう」
「良いんですか!」
「う、うん……あ。ただし、ひとつでも赤点あったらダメだからね!」
「のぞむところですッ!!」

傘を持っているのとは逆の手で握りこぶしを作り、影山君が息巻いている。
まさか卒アルひとつでそんなにモチベーションが上がるなんて思いもしなかった、けど……まぁ、影山君のやる気が出るならそれに越したことはない。
今更な制服姿を見られるよりマシとは言え、アルバムを見られるのも本当はかなり気恥ずかしいんだけど、折角燃えてるところに水をさすようなマネはしたくなかった。

「……欲がないなぁ、影山君は」

ポケットの中を探り、さっそく暗記カードを取り出した影山君の姿に苦笑して呟く。


「――そんなこと、ないです」


ひとり言のつもりだったそれに返事があって。
まるで引き寄せられたように見上げた彼の目は、ドキリとするほど真剣だった。

「欲なら、正直キリがないです」
「そ、う…なの……?」
「卒アル見たいし、俺の知らないみょうじさんが烏野でどんな風に過ごしてたか知りたいです。それに、」



「せめてあと4年、早く生まれたかったって、思います」



それは一体、どういう、意味で。
なんで、そんな――もどかしそうな顔で、言うの。


(――どうして、私、)


こんなにも、ドキドキしてるんだろう。


「――ッ、ご めんね!私っ、年下扱いし過ぎちゃってた、かな」
「っ、そういう意味じゃ!」
「うんうん。そういうの気になる年頃だもんね。これからは気を付けるよ」
「みょうじさ、」
「さぁ!明日もテストなんだし、おしゃべりしてないで早く帰って勉強しなきゃね!」

影山君の言葉を遮って、浅い水溜りの中を足早に歩く。
雨音に紛れて影山君のため息が聞こえた気がしたけど、聴こえないふりをした。
……だって、どんな顔をしたらいいのかわからなかったのだ。

(話、思い切り逸らしちゃった……)

いくらなんでもあからさますぎた自覚はある。
それでも、そうせずにはいられなかった。

(……だって、そうでもしないと、)

あんな顔で、あんなこと言われて――期待するなと言う方が無理な話だ。


『“ココ”がときめいちまったらそれが答えだろ!』


偉大なる冴子先輩の言葉通り、きっともう、私の中に答えは出ていて、今更変えようがない。
――それでも、素直にそれを受け入れられるかどうかは、また別の話であって。

確かに芽生えた感情を飲み込めない本当の理由はきっと、4年分の時間のせいではない。

……そこまでわかってしまったから余計、胸の奥が苦しかった。

「――……『水兵リーベ、ぼくのふね』」
「……は?」
「周期表、覚え方教えたよね?『ぼくのふね』の続きは?」
「……な、『七曲りシップス、クラークか』……?」

急に始めた私に戸惑いながらも、影山君がおずおずと答える。
少し自信がなさそうだったけど、影山君は案外暗記モノが得意なのだ。
この分ならきっと、明日に控えた化学の試験も大丈夫だろうと一人頷き、後ろから追いついてきた彼に意地悪く笑いかけた。

「……じゃあ、『シップス』の部分の元素名は?」
「え゛……!」
「早く、あと5秒以内!」
「ちょっ、ちょっと待っ……!」
「さーん、にーい……」
「――ケイ素、リン、硫黄!!」
「おお、正解!」

ちょっと難しい問題だっただけに、まさかこれも答えられるとは正直思っていなかった。
驚いて、思わず拍手する私に影山君はちょっと得意げに鼻を鳴らす。
この子は本当に『やればできる子』なんだなと、しみじみ感心してしまった。

「卒アル、ちゃんと準備しといてください」
「……言ったね影山君。よぉし、じゃあもし赤点取ったら、影山君の小さい頃のアルバム見せてもらおうかな!」
「!!?それは……!」
「あれ?もしかして自信ないの?」
「ッ!!あり、ます!!!」
「(おおー、燃えてる燃えてる)」

まんまと挑発に乗って闘志を燃やす影山君を、素直に可愛いと思う。

(……やっぱり、これくらいがきっと、丁度いい)

細い雨粒のカーテン越し。
触れ合わないこの距離がきっと、私たちの正しい距離感なのだ。
――そう、思うのに。

思わなきゃ、いけないのに。

傘の縁から零れた雨粒が、頬の上で冷たく弾けて。
不意に、昨日その場所に触れた影山君の掌を思い出してしまった、瞬間。

強烈に、鮮烈に。
どうしようもなく、あの熱が恋しくなって。

「――……」


(あ、どうし よ わたし、)


心も身体も、理性を越えて彼を恋しがっているのだと
――“恋”をしているのだと、気付かないままではいられなくて。

雨音の中で一人、息を潜めた。




(14.12.25)

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