小説 | ナノ



早朝、ベランダに出るのをやめた。

(もう、そろそろ…かな……)

けれど早起きが癖になってしまったのか、目覚ましもセットしていないのに自然と目が覚めることがよくある。それも、ちょうど影山君が私の部屋の前を横切るだろう時間に。
そろそろ2週間くらいは経つんだから、いい加減身体が慣れてもいい頃だろうに――心の方がまだ、諦めがつかないのかもしれない。

「………」

今日もまた、布団に埋もれたまま息を殺して、聞こえもしない彼の足音に耳を澄ました。





「ふ、あ……!」

寝不足の1コマ目はつらい。大あくびを両手で隠しながらそのまま机に突っ伏し、ぐっと腕を伸ばす。
結局あの後もう一度眠ることはできなくて、布団の中でうだうだしている内に起床時間になってしまった。
今日は1コマ目からある日だったのに、ツイてない。

(……それもこれも全部影山君のせいだ)

早朝に目が覚めてしまうのも、その後寝付けなかったのも。
――いや、正確には前者は別に影山君に責任があるわけじゃないってわかってはいるんだけど、なんかもうそのあたりの責任も全部まるっと彼に取ってほしい。

(………だって、)


『 この人俺の恋人なんで 』

だってあんなの、

『 ――見ますか、この先 』


(……――あんなの、ズルい)


「よーっす、なまえ!!」
「!!?ッ、さ、冴子先輩!」

長机に俯せていた背中を景気よく叩かれ、慌てて顔を上げた私に悪びれる風もなくにかっと笑いかける人。高校時代からの先輩、田中冴子さんだった。

「おー?なんだ体調でも悪いか?アンタちょっと顔赤いぞ」
「えっ?あ……っ!いえ!全然……!!そ、それより冴子先輩が1コマ出てくるなんて珍しいですね」
「まーな。たまには出席点も稼いどかないとって思ってさ」

言いながら机に荷物を降ろし、遠慮なく私の隣に腰掛ける。
この授業は1コマ目だし、学期末のレポート重視で出席点はあまり成績に響かないらしく、もっぱらサボりガチな冴子先輩が講義に出てくるのは珍しい。と言うか、見かけたのは初めの講義以来な気がする。

「龍のヤツがさぁ、なんか最近朝から部活部活って張り切ってんだよね。うるさくって寝てらんないっつの!」
「あぁ……龍之介君、今2年生でしたっけ?」
「そ!烏野バレー部、次期エース!」

(…………ん゛ん?)

ひやり。冷たい汗がこめかみの辺りを伝っていった気がする。
そんな私の反応に気づいていないのか、冴子先輩はどこか誇らしげな、嬉しげな笑顔のまま続ける。

「今年入った1年コンビがすごいらしくてさ、『負けてらんねぇ!!』って燃えてんの!」
「(1年……!)へ……へぇ!それは楽しみですね!」
「おうっ!――……ってなまえ、アンタやっぱ顔色悪いぞ?どした?」
「!?なっ、なんでも!なんでもないですっ!!」
「………なんかアヤシイ」

細められた冴子先輩の目がキラリと光る。
いけない。これは好奇心を刺激してしまったようだ。

咄嗟に走らせた視線で確認した壁時計の針は講義開始まであと3分を指している。
それまでどうやって言い逃れようか――取り繕った笑顔の裏で必死に考えを巡らせていると、教壇側のドアが勢いよく開いた。その物音に、てっきり教授が現れたものと思い、助かったと息をついたのも束の間。

見覚えのないその人は、黒板に大きく『教授体調不良のため、本日休講』の一文を書き残すと、颯爽とした足取りで出て行ってしまった。
そうして取り残された学生たちの色とりどりのざわめきの中、私の肩をポンと叩いた冴子先輩はと言うと、目を輝かせたまま親指を立てていたのだ。


* * *


「ほい、アタシのオゴり!」
「あっ……すみませんっ!ありがとうございます」

学生用のカフェに移動して、窓際のテーブル席に座る。
昼過ぎには大勢で賑わう場所だけど、まだ時間が時間だから人影は少ない。
冴子先輩から受け取ったカフェラテのカップで掌を温めながらチラリとその顔を窺うと、向かいに座った冴子先輩がまた屈託なく笑った。

「いーっていーって!アタシが連れ込んだんだしな」

冴子先輩は相変わらずだ。
相変わらず、誰にでも分け隔てなくて、姉御肌で、頼りになる。
烏野に在学してた時も先輩には何かとお世話になった。
いつでもやりたいことがたくさんあって、それでいて自由な冴子先輩は間違いなく私の憧れの女性だった。

「――……で、本題なんだけど。アンタさ、ズバリ男のことで悩んでんだろ」
「ッッ――!!?」

ブッ、と危うく口に含んでいたカフェラテを噴きだしそうになったのを寸前で堪える。

「なっ…!ちっ……ケホッ、ゲホッ!!っ……ぅえ、!」
「………え、なに。ゴメン。もしかして当たっちゃった?」

変なところに入ってしまい盛大に咽こんだ私に、目を見開いた先輩が「冗談のつもりだったんだけどな」と、ちょっと気まずげに笑いながら背中をさする。
なんてことだろう。バカ正直に反応してしまった自分が本気で恥ずかしい。

「いやー……でもさ、なんか嬉しいよ。なまえにもついに春が……」
「だっ、だから違いますって……!今はまだそんな段階じゃ、」
「『今は』!『まだ』!!」
「!!!」

自分でもハッキリ感じ取れるほど、頬が熱い。きっと真っ赤になってる。
そんな私とは対照的に、冴子先輩はもうにっこにっこだ。
本当に、この人にはきっと生涯敵わないだろうと痛感してしまう。
自分の分のコーヒーを啜り、足を組みかえて頬杖をついた冴子先輩は吊り気味の目に反してひどく優しい、“姉”の眼差しで私を見ていた。

「――『今はまだそんな段階じゃない』って、それはアンタの気持ちが?それとも、相手がナビかないわけ?」
「う゛……その………だ、だって………」
「『だって』?」
「っ…………冴子先輩は、と……年下の男の子、って、ど…どう思います、か、」

言ってる途中で込み上げてきた恥ずかしさに顔を上げられなくなり、最後は俯いてしまった上に消え入りそうな声になっていた。
それでも向かいの先輩に届くには十分だったらしい。
「んんー……」と悩むような声を出して少しの間考えた冴子先輩が、もう一度カップを手に取って答えた。

「『どう』っつってもなぁ……どんだけ歳が違うかにもよるカモ」
「よっ、つ……とか、」
「4つ?あー……んじゃアタシからすりゃ弟と同い年かぁ」
「!」

「うーん」と唸って今度は本格的に腕を組んで目を閉じ、冴子先輩は真面目に考えてくれている。
そうか。冴子先輩は私のひとつ上だから、高2の龍之介君とでちょうど4歳差。
……なんか、そう思うとやっぱり、歳が4つ離れているってことは大きなことのように思えてくる。

「……まぁ、そりゃ“弟と同い年”だと思って見りゃ、4つ下の男なんて“可愛い”の域を出ないだろーな」
「………ですよね」

現に私だって、影山君と一緒にいると可愛い弟ができたようだと感じる瞬間がある。
――と言うか、そう思っているつもりだった。ほんの数日前まで。

「……でもな、」

冴子先輩の、黒いネイルをした綺麗な指がピシッと私を――私の心臓の上を指さす。



「どんだけ年下でも――弟と同い年でも、“ココ”がときめいちまったらそれが答えだろ!」



トン、とその部分を突ついた冴子先輩が、ちょっと照れくさそうに笑う。
その笑顔がチカチカ眩しくて、記憶を引き摺りだされたように昨日の影山君を思い出した。


『 そうですよね――“なまえさん” 』
 

初めて呼ばれた、自分の名前。
白い蛍光灯を遮った影山君の大きな影。
震えていた私の肩を抱いた手の強さ。
頬を包みこんだ掌の熱。
唇を僅かに掠めた彼の息遣いと、そして、

今までにない距離から私を見つめていたあの瞳の――濡れ羽色。


「ッ――!!」

全部全部、忘れられないほど深く記憶に焼きついて。思い出しただけで、心臓が飛び跳ねる。
今にも身体から飛び出してしまいそうなそれを咄嗟に掌で押さえつけて身体を丸めると、からからと小気味よく笑う冴子先輩に「答え、出てただろ?」と、遠慮なく肩を叩かれた。



(14.12.07)

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