小説 | ナノ



日曜日の部活終わり。
部室で着替えを済ませ、適当に丸めた運動着をカバンに突っ込む時、ふと目に入った淡い色。
雨の日になまえから借りた、ピンク色のハンカチ。
一度洗濯したそれは汚さないように鞄の内側のポケットの中に入れっぱなしで――いつだって返せるそれを、影山はいまだに返せないままでいた。

「………」
「影山どしたー?いつも以上に顔恐いぞー」
「あ゛ぁ!?なんだと日向ボゲェ!!」
「そーんな顔してお前なに見て――って、」

「女物のハンカチ……?」

日向の一言を切欠に一瞬、ざわついていたはずの部室が水を打ったように静まり返る。
沈黙の中、なぜ皆が黙り込んだのかわかっていない影山が頭上に疑問符を浮かべた時、大小二つの影が踊りかかるように猛然と迫ってきた。

「かぁーげぇーやぁーまぁーくぅぅん???」
「ちょぉっとお話うかがいましょーかぁー!??」

田中と西谷。二人して影山の肩をガッチリと掴み、引き攣る笑顔の上に青筋を浮かべている。
ギリギリと肩に食い込む指が言外に『逃がさねぇぞ』と脅しているようで、何が何だかわからず咄嗟に視線を走らせ、目が合った菅原に無言で助けを求めた。
今まさに部室を出て行こうと扉に手を掛けていた菅原が自分へ向けられた影山の表情を読み取り、『心得た』とばかりに大きく頷く。

(さすが菅原さん――!!)

偉大な先輩に内心で羨望の声を上げた時、ドアノブから手を離してこちらに引き返してきた菅原がにこりと笑って言った。

「よぉーし影山、話すまで帰れると思うなー」


* * *


(なんなんだあの人達は……)

結局あの後、影山はハンカチの持ち主についてバレー部メンバーから根掘り葉掘り聞かれるハメになってしまった。
明日から中間テストが始まるというこのタイミングも悪かったのかもしれない。
試験勉強に対する心的フラストレーションと、いつもほど長く練習できないという身体的フラストレーションが、一年部員に女の影疑惑という起爆剤を得て爆発してしまった。

『で、結局お前はその人とどんな関係なんだよ!!』

そう詰め寄ってきたのは田中で、影山は最後までその質問に答えることができなかった。

(どんな関係って……)

“友人”、というカテゴリーは、なんとなく違う気がする。
そもそも相手は4つも年上だ。きっとなまえだって影山をそういう風には見ていないだろう。
だが“知人”はもっと違う。それだとなんなく――遠すぎて、嫌だ。

(俺は、みょうじさんの“夢”で――みょうじさんは俺の、)


『――彼女とか、好きな人とか、』


なまえの部屋で交わした会話がふと頭を過り、影山は思わず足を止めた。

部屋を満たしていた、ふんわりと微かに甘い、なまえの香り。
影山の教科書を指さす白い指先は簡単に折れてしまいそうなほど細く、桜の花びらに似た爪は優しいカーブを描いて。薄いレースのカーテンを膨らませた風に、柔らかそうな前髪が揺れていた。


『気になる人は、います』


あの時言った“気になる人”は、なまえに他ならない。

影山はずっと、なまえが気になっていた。
早朝の身を切るような凛とした空気の中、いつもどこか寂しげな――苦しげな目で、泣きだしそうに自分を見つめていた彼女のことが。

どうしてそんな目で自分を見るのか、と。
何が彼女にそんな顔をさせているのか、と。
気になって――けれど、自分がその視線に気が付いていることを悟らせれば、彼女は二度とベランダに出てこないような、そんな気もして。
胸の奥がモヤモヤして、仕方がなかった。

(……多分それは、俺がみょうじさんのコンプレックスみたいなもんだったから、)

“夢”がないことに引け目を感じていたなまえにとって、影山は眩しすぎるのだと言っていた。
その輝きを前にするといやがおうにも自分との違いを見せつけられ、必要以上に自分を卑下し、追い詰めて、畏縮してしまう。

影山と接することで、なまえは苦しんでいた。

(――けど、)


『嫌いなわけ、ないよ……!』


苦しみながらも、なまえは最後の最後で影山を拒絶しなかった。
今にも泣きそうな顔で、震える声で、それでも懸命に影山に伝えようとしていた。
手を離さないでいてくれた。

それが影山にとってどれだけ嬉しかったかなんて、きっとなまえ本人は欠片も理解していないだろう。

(……あの人、簡単に俺のこと遠ざけようとするしな)

ため息をつき、止めていた足を大きく踏み出して歩き始める。
ちょうどそのタイミングでポケットの中の携帯が震え、二つ折りのそれを開いた影山はポチポチとボタンを操作し、受信したメールを開く。送り主はなまえからだった。

『こんにちは!みょうじです。
明日からテスト始まるんだよね?
私のバイトのお迎えは大丈夫だから、
テスト終わるまで勉強に集中してください。
がんばってね!』

「………さっそくこれかよ」

ガシガシと乱暴な手つきで後頭部の髪を掻き乱し、先ほどよりももっと長く、沈痛なため息をつかずにはいられなかった。


* * *


いつもの時間、いつも通りに自販機の前を陣取り、裏口からなまえが出てくるのを待つ。
駐輪場に見慣れた自転車があったから、休みではないことは確かだ。
なまえは怒るかもしれないが、別に怒られたってかまわないと影山は思っていた。
夜のランニングは長年の習慣で、テスト週間だからと欠かしたことはない。それは事実だった。

(……何だあれ)

そろそろなまえが出てくるだろうという時間、既に明かりを落とした店の入り口に見知らぬ男がやってきた。
大学生くらいだろうか。片手でスマートフォンをいじりながら、頻繁に顔を上げてはチラチラと周囲を窺っている。誰かを待っているように。

「………」

何となく嫌な予感がして影山が顔をしかめた時、裏口のドアの鍵が開く音がした。

(――あ、)

小さな人影が駐輪場に向かう。
なまえだ。
自販機に軽く凭れかかっていた背中を離し、影山が一歩踏み出す。
――その目の前で、店の前にいたあの男が小走りに駐輪場へ向かった。



「こんばんは、みょうじさん」
「っ――!?あ、っこ、こんばん、は……?」

男の、どこかふざけ半分な軽薄な声がなまえを呼び、突然声をかけられたなまえは肩を飛び跳ねさせて振り向いた。白っぽい蛍光灯に照らされたその顔に、覚えがある。
彼は確か、最近よく店に来るようになった客だった。

(でも、よく来るけどあんまり本は買って行かないんだよね……)

「――あの、すみません。今日はもうお店閉まっちゃって、」
「うん。ダイジョーブ。むしろ店閉まるの待ってたしね」
「………え、っと?」
「バイト、終わったでしょ?今から帰り?俺、送ってくよ。ああ、それとも良かったら、どっかご飯でも食べにいこっか?」

にやにやと、妙に馴れ馴れしく話しかけてくる男が進路を塞ぐように立っているせいで逃げられない。
自転車のハンドルを強く握りしめ、なまえは内心で『なんで今日に限って』と毒づいた。
いつもなら――こんな時、“彼”がいてくれたら、と。

けれど影山に『来なくていい』というメールを送ったのは他ならぬなまえ自身だ。
彼に頼らず、ここは自分でどうにかするしかない。

……そう思うものの、情けないことに恐怖心が身体を支配し、まともに男の顔を見られない。
この手の輩に少しでも弱みを見せてはいけないとわかってはいるのに、心臓がばくばくと暴れて、凍りついたように脚が動かなかった。

「どっ――どいて、ください。私、一人で帰れます」
「いいっていいって。俺が送りたいだけだし、遠慮しないで!」
「ッ――遠慮じゃ、なくて……!」
「いいから!」

声が震えてしまわないよう、怯えを悟られないよう、一言一言区切って話す。
しかしなまえのそんな虚勢も、男に腕を掴まれた瞬間に込み上げた嫌悪感を前に呆気なく崩れてしまう。
背筋がぞわりと慄いて、全身に嫌な汗がにじみ出た。

「っ、か……――!」


影 山 君


「その人に、なんか用っすか」

心の中で必死に助けを求めたその人が、顔を上げれば目の前にいた。
なまえを掴んでいた男の腕を無茶な方向に捩じ上げ、底冷えするような冷え切った目で男を見やる。
驚きと痛みで掠れた悲鳴を上げた男がめちゃくちゃに暴れると、その手を解放した影山は当然のようになまえと男の間に割って入った。

「汚い手で触るの、やめてください。すげぇハラ立つんで」
「なっ……んだとクソガキィ……!テメェにんなこと言われる筋合い、」


「いや、この人俺の恋人なんで」


「………は?」
「――え、?」

しれっと言った影山の言葉に、男はおろかなまえさえも目を丸くして彼を凝視する。
そんな彼女を振り向き、影山は無言のままなまえの肩を抱き寄せた。
こてんと傾いた頭が、影山の胸に受け止められる。
男に触られた時のような嫌悪感は欠片もなく――ただ、今度は別の意味で心臓が落ち着きをなくし、暴れはじめた。

「見ての通り、ラブラブです」
「(『ラブラブ』!?)」
「そうですよね――“なまえさん”」

腕の中のなまえを見つめる影山が、合図のように目を細める。
『話を合わせろ』と、そう言いたいのだろう。
彼の思惑を頭では理解しているもの、なにぶん距離が近すぎて――自分の心臓の音が煩すぎて、なまえはただ、あわあわと視線を泳がせることしかできない。
そんな彼女に追い打ちをかけるように、頬を包んだ影山の手に顎を掬い上げられた。


「――見ますか、この先」


挑発的に男へ一瞥を投げかけた影山がその視線をなまえへ戻し、ゆっくりと背を屈めてくる。
自転車のハンドルを握っているなまえに、彼を押しのける術はない。

ドクン、ドクン。
耳のすぐ横で心臓が鳴り響く。

やがてなまえの顔を濃い影が覆った時、男が何かヒステリックに叫んで走り去っていく足音が聞こえた。

「――ッ、か……影山、君……?」
「………」
「あのっ…あの人、もう行っちゃった、よ……?」

呼吸をするのも躊躇ってしまうような、互いの睫毛まではっきりと見える距離。
もう足音は聞こえないのに、影山は一向に離れない。
きっと、もう少しで鼻先が触れ合ってしまう。
頬が信じられないほどの熱を持ち、このままだと燃えてしまいそうで。恥ずかしさに耐え切れず、なまえはぎゅっと強く目を閉じた。

「……………はぁぁ」

たっぷり数秒の沈黙の後、盛大なため息をついた影山がようやくなまえから身体を離す。
まるで疲れ果てたサラリーマンさながらに憔悴しきった様子で肩を落とす影山を不思議に思いながらも、なまえは密かに手団扇で頬を扇ぎ、とにかく顔の熱をどうにかしようと奮闘していた。

「あの……影山君」
「……なんですか」
「怒ってる……?」
「……別に」
「(エリカ様……)」

走る気配のない影山の背中を小走りに追いかけ、隣に並んでその横顔を盗み見る。
むすっとむくれた顔をしているものの、彼の頬もなまえに負けず劣らず赤くなっているのがわかり、なまえは少しだけ安心した。

「――明日からも俺、迎えに来ますから」
「………ハイ」

しかしさすがのなまえも今回のことで危機感を覚えたらしい。
影山の言葉に素直に頷き、決まりが悪げにすっと目を逸らす。
と、ピタリと足を止めたなまえが小さく息を吸い込み、振り向いた影山に、へにゃりと力なく笑いかけた。

「――……ほんとはさっき、すっごく恐かった……だから、影山君が来てくれて嬉しかったよ」


「 ありがとう 」


『見つけてくれて、本当にありがとう!』

なまえの笑顔があの時の――初めて見た、あの瞬間の笑顔と重なる。
ただそれだけのことなのに、胸を衝くように息が苦しくて。
だけどどうしようもなく、今すぐ大声で叫びだしたいほど嬉しくて。輝いて。

(――だから、アンタはズルいんだ)

自分の中に鮮やかに芽吹いたその感情の名前を、もう自覚せずにはいられなかった。



(14.11.09)

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