『無理はしなくていいよ』と言う私に頷いてはいたけれど、結局影山君は連絡先とシフトを教えた翌日から毎回お迎えに来てくれるようになった。
バイトが終わるとそそくさと身支度を整え、自販機の前で待ってくれている影山君に『お待たせ』と声をかける。初めは気恥ずかしくて堪らなかったその言葉も、そろそろ自分の中に馴染み始めた。 そんなある日の帰り道だった。
「――そう言えば影山君」 「はい」 「そろそろ中間テストなんじゃない?」
信号待ちの時間、ペダルから足を降ろして何気なく切り出した話題に妙な沈黙が生れた。 不審に思ってその横顔を窺えば、苦虫を噛み潰したような顔をした彼が信号を睨んでいる。 ぐっと下がった口角と何より雄弁な彼の眼差しから、あからさまな勉強嫌いオーラが出ていた。
「………影山君、もしかして勉強苦手?」 「――俺、バレー以外に興味ないんで」 「っ、こら。待て、待ちなさい」
キリッと良いお顔で露骨に話を切り上げようとする影山君が、青信号と同時に走り出そうとしたのを寸ででジャージの裾を捕まえて阻止する。 そのまま引き摺られてしまわないよう自転車を降りると、目を丸くした影山君がこっちを振り向いていた。
「……どの教科が苦手なの?」 「体育以外は基本意味不明です」
これはかなり重症だ。 悲しいくらいにピンと来てしまった。
(――いや、でもちょっと意外だなぁ)
なんとなく影山君はなんでも器用にこなせちゃうタイプだと思ってたけど、見当違いだったらしい。 あの迷いのない目と口ぶりは謙遜で言ってる感じじゃない。本気だ。 どうやら影山君は、やる気と興味の矛先が極端な子のようだ。
(まぁ確かに……6月になったらすぐインターハイ予選だって言ってたし)
正直影山君にしてみれば中間テストどころの話じゃないだろう。 『そんなもんに構ってられるか!』くらいの心境なのかもしれない。 ……だけどこの子、ちゃんとわかっているのだろうか。
「――影山君、『留年』って言葉知ってる?」 「!!!」
隣に並び、見上げた影山君の顔色がにわかに悪くなる。 ――そう、中学ではあまり意識しないけど、高校では『留年』という恐ろしい措置が現実に下されることもあるのだ。
もちろん中間が悪かった場合は期末でカバーすることもできるだろうけど、その場合は期末のリスクが高すぎる。影山君の口ぶりからして、何かよっぽどの理由がない限り期末だからと頑張ることもなさそうだし――つまり、今ここで手を抜けば未来の自分の首を絞めることに繋がるのだ。 それを思えば、全くやらないよりは少しでも対策していい点を取っておいた方が後々の彼のためになる。
(1点でも良い。とにかく赤点は回避させなきゃ……!)
「――影山君!!」 「ッ、はい!」
幸い明日は土曜日。 学校はないし、バイトもお休みの日だ。 影山君も確か、週末の練習は半日だけだと言っていた。
「明日、部活が終わったら私の部屋でテスト勉強しよう!!」
* * *
「……お邪魔します」 「はいどーぞ。狭いけど適当に座ってね」
14時前。チャイムの音でドアを開ければ、練習終わりでジャージのままの影山君が遠慮がちに頭を下げてから部屋に入ってきた。 ちょっとそわそわしているその様子が可愛らしく思える反面、実は私も少し落ち着かない。 家族や女友達以外をこの部屋に上げるのは初めてのことだった。
(……いやいや、変に意識しちゃダメだ!影山君はテスト勉強しに来ただけなんだから!!)
いつもお世話になってるんだから、せめてこれくらいのお返しはきっちりしないと。 私がこの子の役に立てることって言ったらそれくらいしかないだろうし。
「っ、よし!じゃあとりあえず、一番ヤバそうな教科の教科書とノート出して!」 「一番……………」
長い沈黙が続いた。 そこからなのか影山君。お姉さん早くも心折れそうだぞ。
「………お願いします」
向かいに座った影山君がじっくり悩んだ結果、エナメルの鞄から取り出したのは英語の一式。 教科書の角はピシッと硬いままで、使い込んでいないことが一目でわかる一品だ。 そして問題のノートは、私を更なる絶望の淵に追い込んだ。
(――読めない!!)
典型的な男の子の字と言うべきか――要するに字が汚い。 走り書きのような勢いと力強さが目立つその筆跡は正確さに乏しく、アルファベットがもはや全く別の言語にさえ見えてくる。
(これ、勉強よりも先にこの字を改善しないと、例え答えがあってても採点する先生が解読できないんじゃ……?)
「……影山君、まずは焦らずに字を丁寧に書くことから気を付けようか」 「………うす」 「それから――この英語の担当の先生って誰?」 「?……英語は小野って先生です」
しめた――! 一筋の光明に、思わず内心でガッツポーズをとる。 英語の小野先生なら私も在学中に習ったことがある。 つまり、出題傾向は把握済みだ。
「その先生なら20点分は単語問題にするだろうから、重要単語は絶対押さえよう。それから、」 「!!みょうじさん、小野先生知ってるんですか!?」 「え?あれ、言ってなかったっけ?私、烏野の卒業生だよ」 「ッ!!!――言ってません!!」
ガタンと音を立ててテーブルに手を突き、影山君が身を乗り出してくる。 ああ、そう言えば彼には言っていなかったかもしれないな……と、教科書に落としていた視線を上げると、思ったより近い距離で影山君が私を凝視していた。
「影山君……?」 「………」 「……えっと。だ、黙っててごめんね……?別に隠してたわけじゃなくて、言うタイミングを逃しちゃってた、て言うか……」 「………イエ。別に怒ってはないです。デカい声出してすんませんでした」
静かに言った影山君が浮かしていた腰を降ろし、何かを考えるように下を向いて口を噤む。 一瞬、二人きりの部屋がシンと静まり返ってしまい、私は慌てて聞こえよがしな音を立てながらペン入れを漁って蛍光ペンを取り出した。 とにかくこの空気を変えなければいけないと、咄嗟にそう思ったのだ。
* * *
それから数時間。科目を変えるごとに小休憩を挟みつつ、私はひたすら影山君のノートを解読し、ほぼ新品同様の教科書の重要箇所にマーカーを引いては影山君に理解してもらえるよう説明を続けた。
走り書き以下の、ミミズの這ったような文字が多いところを見る限り、きっと影山君は授業中に寝てしまうことも多いのだろう。だから説明がきけなくて単語や公式の意味が理解できていないだけで、きちんと説明を聞けば納得してくれる。YDKだ。やればできる子。 だからついこっちにも熱が入ってしまったけれど、さすがにそろそろ限界らしい。 数字を追いかける影山君の目が虚ろになってきた。
「――主要教科はざっとさらえたし、この辺にしとこっか」 「っ……はい!あざす!」
集中力が切れた状態で無理に詰め込んでも効果はない。 それに、気が付けばもう夕方だ。暗くなるまで影山君をこの部屋に引きとどめるのはさすがに気がひけた。
「ちょっと遅くなっちゃったかな……お家の人大丈夫?」 「平気です。勉強会してから帰るって言ってあるんで……それより、みょうじさんは良かったんですか」 「ん?私は今日はバイトも予定もなかったし別に」 「そうじゃなくて――今更ですけど、俺が部屋に上がって………その」
私の言葉を遮った影山君が言葉尻を濁らせる。 その流れで彼の言いたいことが何となく予想できてしまい、お茶の入ったグラスを持つ手がピタリと止まってしまった。
「かっ――かれ……カレシ…とか、」
(……すっごい噛んだ)
めちゃくちゃ噛んだくせに、目だけはギロリと謎の威圧感を放ったまま、固唾を飲んで返答を待っている。 影山君のこういうわかりやすく真っ向勝負なところが好ましくて――同時に、やり辛いとも思った。
「残念ながらいないよー」
さすがに恋人がいたなら私だって影山君を部屋にはあげない。 ……いや、だからと言ってこの子を“そういう対象”――と言うか、“異性”として見ているのかと言われるとそういうわけではないんだけど。
(影山君はそういうのじゃなくて、もっとこう……お、弟、みたいな?)
「影山君は?すっごくモテそうだし、華の高校生だもんね。彼女とか、好きな人とか、」 「………彼女はいません――けど、」
誰にともなく内心で言い訳じみた弁解をしながら適当に口走った言葉に、首を絞められた。
「気になる人は、います」
ごくり。口に含んだお茶を飲み込む音が、やけに耳についた。 影山君の目が、意味深に、まっすぐに私を捕えている。 思わず息を止めた私に、妙な勘違いをさせるには十分すぎる微熱を孕んで。
「――そ れは、」
茶化せない。かわせない。 どういう意味で――どういう意図で、そんなに熱心に私を見つめているのか。 気になって、だけどその先を聞いてはいけない気もして。 たった今潤ったはずの喉の奥に、言葉が張り付いて出てこない。
「……――みょうじさん、俺」
何かを言おうとする影山君の唇の動きが、まるでスローモーションになったかのようにひどく緩慢に感じた。
ドクン。ドクン。とにかく心臓が煩い。 ドクン。ドクン。ドクン。 ドクン。
――ぐぎゅぅぅぅ
「……………へ?」 「――ハラ、減りました」
私の心臓の音に突然カットインした気の抜ける音は、どうやら影山君のお腹の音だったらしい。 むすっと唇を尖らせた影山君が不服そうに自分のお腹を睨んでいる。 部屋の中に充満していた緊張感が一息に霧散して、詰めていた息を吐き出すと肩の力も抜け落ちた。
「そ、育ちざかりだもんね……!よかったら何か食べてから帰る?って言ってもすぐに用意できるのは昨日の残りのカレーくらいだけど」 「カレー!!食いますっ!!」
カレーという言葉に影山君の瞳がキラキラと輝きだす。 好物なのだろうか。さっきまでの真剣な顔が嘘のようにパブロフの犬よろしくじゅるりとヨダレを垂らす姿に苦笑せずにはいられない。 影山君はやっぱり、“弟”みたいに可愛い男の子だ。
(……うん。さっきのことは、深く考えないようにしよう)
カレーの鍋を火にかけて温めなおす間に食器を用意しながら、横目に影山君の様子を盗み見る。 壁に寄りかかり、薄いカーテン越しにオレンジ色に染まるベランダを眺めるその眼差しはひどく静かだ。 ――けど、場所が場所なだけにこちらは反射的にヒヤリとしてしまう。
その場所は、私がついこの間まで密かに彼を眺めていた現場だった。
(………や、やっぱり、影山君をこの部屋に上げるのはもうやめとこう)
だって色々、心臓に悪い。
とにかく、これを食べ終わったら速やかに家に帰そう。 そう心に決めてお皿に盛ったカレーと共にテーブルに戻った私はその直後、影山君の何気ない『ベランダの黄色い花、なんて言うんですか?』という質問によって、何も飲んでないのに盛大にむせることになった。
(14.10.26)
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