10th Anniversary | ナノ


ヨコハマの夜風は好きだ。夜の孤独を感じさせない、柔らかい潮の香りを運んできてくれる。
夜中仕事から帰る時は、窓を開けてわざと遠回りをしたことがあった。さすがに疲れているので車を停めてまで長時間滞在したことはないが――意外と良いものだと、ナマエは瞼を閉じて深呼吸をする。


「寒ぃか?」
「ううん、平気。むしろ心地良いわ」
「だろ。俺もここにゃよく寄るんだわ」


隣には不器用な優しさの塊である、愛おしい人がいる。一つ大きな案件を終えたという左馬刻は久々に憑き物が落ちたようなすっきりとした表情を浮かべていた。ここ最近は帰宅してもピリピリしていたため、分かりやすかった。


「左馬刻くん、疲れてるのにごめんね」
「気にすんな。俺だって目が冴えてたしな」
「ふふ、そういうことにしておこっかな」
「……もう起きてる」
「うん。付き合ってくれて嬉しい」


誰もいない閑散とした空間。目の前に広がる海辺。冷たいベンチに腰を下ろして、隣の熱に凭れ掛かる。月は天高く上がり、時刻は深夜を指し示していた。こんな時間にやってきたのは、ひとえにナマエが眠れなかったからである。
やけに覚醒した脳味噌はどうやっても休むことを拒絶し、ベッドで何度か寝返りを打っても意味はなかった。疲れ切っている左馬刻を休ませたい、でも自分は眠れない。結局、静かに身体を起こしてリビングでお茶を飲みながらテレビを小音で流していたのだが、気配に機敏な左馬刻も目を覚ましたのだ。

眠れないと正直に苦笑するナマエに、欠伸を殺しながら左馬刻は一言「出掛けんぞ」と。そうして連れてこられたのが、ここだった。運転しながらも欠伸をかみ殺していた姿に申し訳なさがある一方で、自分を優先してくれたことへの喜びもまた沸々と湧き上がる。


「今日は月が良く見えるね」
「満月か?」
「満月は明後日だったかな。なんとなく、欠けてるでしょ?」
「あー……言われてみりゃ」


街灯はあるものの、月明かりでも代替できそうだ。そんな月光に煌くのはやはり左馬刻の銀髪で。何度、目を奪われたか分からない一本一本はキラキラとして飽きを感じさせない。そこから覗く紅玉も出会った時から変わらない、どんな宝石よりも気高く美しい。


「やっぱり、左馬刻くんは綺麗」
「月の話してたんじゃねぇのか」
「月もだけど、左馬刻くんもってお話かな」
「……酒飲んだか」
「の、飲んでないよ! もう、失礼だなぁ」


どうして左馬刻は素直に受け取ってくれないのかと、ナマエが口を尖らす。微かに笑われながら左馬刻は長い足を組んだ。


「つーかよォ、今日帰ってくんの遅かったな。最近、定時で上がれてねえだろ」
「そう? …あ、後輩の相談に乗っている最中だからかな。仕事終わりにちょっと時間作ってるの」
「男か」
「職場の男女比率を考えればお察しいただけるかと」
「テメェは誰の女だ。蛆虫は蹴り飛ばしとけや」


どうしてこうも愛想を振りまくのか。いつまでも無防備なナマエに、左馬刻は舌打ちをする。はいはいと頭を撫でられ、未だに年下扱いされていることに吐き気がした。すると、誰も居ないのを良いことに、ナマエは左馬刻の腕に自らの腕を絡めてきたではないか。まるでご機嫌取りでもするかのようなタイミングの良さだ。見下ろすと、彼女はやんわりと微笑む。


「こういう夜のデートも悪くないかな」
「もっとマシなプラン立てさせろ」
「考えてくれるの?」
「俺様を誰だと思ってんだ」
「左馬刻さま」
「わーってんじゃねえか」


くしゃりと頭を撫でられる。近頃はこうして触れ合えもしていなかったせいか、体温すらじんわりと心を昂らせた。それは、お互いに。じっと見つめ合って、左馬刻の手がゆるりと頬へ移る。額に触れるだけの口付けを贈る。


「暫くは落ち着けそうだ。どっか行きてぇとこあったら教えろ」
「左馬刻くんとならどこでも嬉しけど……あ、カマクラにパンケーキのお店ができたの。オープンしてから評判良いみたいだし、一緒に食べに行きたい」
「おー、たらふく食え」
「後外せないのは温泉だね。日帰りでもいいけど、せっかくなら二人でのんびりしたいわ」
「俺のおすすめ連れてってやんよ。天気が良けりゃ富士の絶景を拝めるし、料理も美味ぇから絶対ェ気にいんぞ」
「左馬刻くんのセレクトに間違いないから安心して任せちゃおうかな? ほら、前連れてってくれた日本料亭も美味しかったし! あそこもまた行きたいなあ」
「んじゃ明日の晩飯は決まりだな」


肩を抱き寄せられる。上着は着ても夜の海辺は涼しいを少し通り越していた。くっついていた熱を更に密着させる。ふわり、上品な香りにナマエは瞼を閉じた。


「温泉は、左馬刻くんのマッサージ付き?」
「ナマエもしろよ」
「えぇ? 左馬刻くんの肩周りとかガチガチなんだもの。癒された私の身体がまた疲れちゃうでしょう」
「テメェ以外に触られんのは御免だわ」
「……」
「あ? んだ、急に黙って」


放った言葉の意味を、告げた本人が理解していない。ナマエはじわじわと胸の焦がれが広がっていくのを感じた。いつだって自分を一喜一憂させるのはこの男なのだ。


「なんでもない。私も、左馬刻くんにしか触ってほしくない」
「……かぁいいこと抜かしてんじゃねェぞ」
「左馬刻くんが先に爆弾発言したんですー」
「はぁ? してねえ」
「しましたー」


ぎゅっと腕を抱く力を強めると、上から小さな空気の振動が伝わった。額を肩にぐりぐりと押し当てながら、左馬刻と一緒にいると酷く甘えたくなる自分を認める。恐らく、近頃の多忙さや時間の噛み合わない日々が関係しているのだろう。とはいっても、自分の方が年上なのになと内心で失笑さえ込み上げる。左馬刻はそんな彼女を大きく抱き留めるのだから、尚更抜け出せない。


「プラン練ンのはいいが、休み取れんのか」
「新しく入ってくれた先生にも任せられるようになったし、有休も消化しないといけないからね」
「おし。なら、連休で旅行と洒落込むかぁ」
「今から楽しみだね!」


心底嬉しそうな声色が伝搬して、左馬刻もまた小さく笑みを零す。ナマエの顎先を持ち上げて、唇を重ねると恥ずかしそうに眉を下げて口元を緩める姿があった。ただ、その唇は些か冷たい。さすがに長居し過ぎたかもしれないと左馬刻は身を離して立ちあがる。こてんと首を傾げる年上に不覚にもたじろいだ。


「どこ行くの?」
「飲みモン買ってくる。寒ィだろ」
「私は平気よ」
「冷てェくせに意地張んな。風邪引いたら誰が世話すんだ」
「自分の面倒くらい自分で看られるわ。……んもう、そうじゃなくて」
「ンだよ」


突然口籠るナマエに左馬刻は訝し気にする。普段であれば気の長くない左馬刻は続きを急かすか、興味なさげに放るのだが相手が相手なだけにじっくりと待つ。ナマエの手が伸ばされて、左馬刻の手を握った。上目遣いのままなのが心臓に悪いのだが、


「今は、離れないでほしいな……」


どちらが爆弾だと怒鳴りたくなった。そんなことを彼女に出来るわけもなく、左馬刻は背を丸めて見上げるナマエの唇に噛みつく。鼻から抜ける甘美を味わいたいと角度を付けて更に喰いつく。
酸素を求めて開いた唇に容赦なく侵入すると、絡めた舌はやはり冷たかった。どこが平気なのだろうか。裏筋を隙間なく舐め上げ舌尖を絡めると、ナマエの指先が左馬刻の上着を握りしめた。呑み込めない、混じり合った唾液が口角から零れる。それがやけに色っぽかった。

一度唇を離して短い休息を与え、また重ねる。何度も貪っていると、次第に身体の芯がじわじわと熱を帯びていく。籠った吐息が両者の顔に触れ、気付けばナマエも左馬刻の首裏に腕を回して応えていた。周りに誰かいる可能性も考えずに、ただ夢中になる。


「車戻んぞ」


左馬刻はベンチで腰抜けているナマエの身を軽々と抱き起こす。停めていた車までの道のりすら酷く遠く感じて、歩く最中ですら何度か触れあった。車まで到着すると助手席に乗せるのも待ちきれず、後部座席の扉を開いて乗り込む。ナマエはてっきりこのまますぐ自宅へなだれ込むと想像していたために、目を瞬かせた。座席にどかんと座った左馬刻を跨ぐ形で座らせられ、すぐに喰らいつかれる。


「ん、ん〜〜! さ、左馬刻くん、せめてお家に帰ってからが」
「一発ヤらせろ」
「お下品! お、落ち着こうよ!」
「なんで先に誘ったナマエが冷静装ってんだドアホ」
「ぁ、でもここ、人、通るかもしれないしっ」
「来るわけねェだろ」


首筋に走る痛みにぶわあっと熱がぶり返す。ナマエだって左馬刻から与えられる熱量を受け止めたいが、如何せん場所が悪い。いくら深夜とはいえ絶対に車が通らないとは保障出来ない。そもそも、声だって我慢できないのだ。この男の手腕にかかってしまえば、堪えようとすればするほど容易に高みへ昇らされる。しかも絶対に、一発は嘘だとナマエは首を力なく横に振った。


「はぁ、ぁ…」


それでも昂った身は素直に反応し、頭が蕩ける。駄目だと叱咤する理性は脆く、薄れ消えてしまった。熱を帯びた吐息を漏らした後、柔らかい銀髪を抱き寄せて自ら口付ける。明日のアラームは設定してあったっけと脳の隅で考えていると、上書きするように噛みつかれた。


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