10th Anniversary | ナノ


窓から入り込む月が今日はやけに綺麗だと、降谷は瞼を閉じた。静寂を割くようにこつん、と軽快なヒ―ル音が届く。相手が誰かは分かっている。


「随分長かったな」
「無駄話が7割よ。さすがに欠伸を堪えるのが大変だったわ。だから、貴方も手短にね」
「最後まで手厳しいじゃないか」
「あら。お互い様でしょう?」


きっちりとしたスーツを身に纏ったナマエをじっと見つめる。月明かりのせいで黒髪がやけに艶やかに映えた。まるでこれから月に還るかぐや姫の如き美しさに、言葉なく吐息を吐く。


「警察学校の同期で、こうして肩を並べていた最後の存在だったのに残念だよ」
「良く言うわね。一緒に働いたのなんて数回だったと記憶しているわ」
「君はすぐアメリカに飛んだからな。今日みたいに、月が綺麗な日だった」
「覚えていないわ」
「そうか。僕は、良く覚えているよ」


童話のように、気高くも麗しいその人を止める力もなく見送るしか出来なかったのだから。降谷は失笑して、ようやくナマエに向き合った。凛々しい姿は自分と同じくいくつもの死線を潜り抜けた自信の表れだ。


「ずっと、謝りたかったんだ。学生時代、お前にきつく当たってしまってすまなかった」
「……」


降谷も学生時代から優秀の枠を超越した存在だったが、ナマエもまた女性ながらにして有能過ぎていた。周囲から認められ、容姿も整っているからこそ尚更注目も浴び、女性として惹かれるのは自然なことだったのだ。だからこそ、認めたくなくて降谷はナマエへ厳しく当たっていた。何をしても自分には勝てないのだと、男である自分を超えることはできないのだと見せつけるように。それは卒業をするまで続き、最後まで素直になることは出来なかった。


「卒業と同時にFBIに交換研修へ行くと聞いて、本当は謝罪したかった。だが、すぐに旅だってしまったし、戻ってきてもお互いに多忙でそんな暇さえなかった」
「…貴方がアタシに劣等感を持っていたのは知っていたわ。性別を盾に優位に立とうとしていたわね。でもね、謝ることはないのよ。負け犬ほど良く吠える……遥か古来より変わらない事実なのだから」


眉間に皺が寄った。別に、劣等感だけでしていた言動ではないのだが――……だが、今その事実を伝える必要は一切ない。


「アタシも貴方のこと嫌いだったけど……。生き続けてくれたことだけは、感謝しているわよ」
「……僕もだ」


ナマエは緩く笑みを浮かべた。それが、別れの挨拶。降谷は再び窓の外へ視線を向け、ナマエは踵を返した。ふわりと揺れる黒髪を追うことをせず、降谷は瞼を閉じる。長く、切ない想いを断ち切るように力強く息を吐いた。

部屋を後にしたナマエの足は次第に大きな歩幅となり、速度も上がる。外へ出て巨大な建造物を見上げた。きっと、降谷もこちらを見下ろしているのだろう。


「……さようなら……」


共に戦い続けてくれた男へ。今は亡き懐かしき同期たちへ。何をしているかも分からない数多の者たちへ。そして、愛おしきこの国への離別。

点滅を繰り返す心許ない照明の下に、目当ての車は停まっていた。遠慮することもなく自然な動作で助手席の扉を開けて乗り込む。温かな空気と共に、充満した煙草の煙が歓迎をしてくれる。運転手である男は何を言うわけでもなく、車を静かに発進させた。

夜の街が通り過ぎていく。何度も見てきた川の流れに、ナマエは目を細めた。


「惜しいか」


低い男の声に、ナマエは小さく唇を開いた。けれど何かを吐こうとしても吐息だけが漏れる。緩やかに、口元が弧を描いた。


「まさか。それとも、今更アタシに残ってほしいとでも言うのかしら」
「いや……棄てていただきたい」
「愛国を棄てろなんて酷なことさせるのは、後にも先にも貴方だけよ秀一」


赤井は満足げに笑みを零す。
警察学校卒業後、FBIとの交換研修に選出されたのはナマエだった。そこで出会ったのがこの男である。何年も共に過ごすうちに培った感情は形を変え、今や人生の伴侶になろうとしているだなんて、当時誰が想像したものか。


「あえて何か惜しいことがあるとすれば、滞在している貴方のご家族へ挨拶していないことくらいかしら」
「近いうち紹介しよう」
「アタシは勝手に存じているけれど、向こうはそれだと気持ちが悪いじゃない?」
「だろうな、多少荒っぽい歓迎をされても文句はあるまい」
「勿論。荒事は大得意よ」
「そんな君で安心した」


車はホテルの駐車場へと静かに忍んだ。ナマエが日本で契約をしている部屋はあるが、荷物は既に少ない。日本警察のナマエは今日で退職を果たした。部屋を契約し続ける理由はないが、自分が警察の人間であるという過去は変えられない。そして、赤井がFBIであることも。いつ使うかもわからないため、契約は取り下げなかった。

二人でホテルの一室へ入ると、ナマエは苦しそうにスーツのネクタイを外し上着を投げ捨てた。何代目かも分からない相方は丁重にクリーニングに出しておこう。受け取りは……降谷にでも任せればいいかと、ナマエはミネラルウォーターを飲み干す。


「ねえ、秀一」
「どうした?」
「貴方が……ううん、世界中が追い続けた巨悪の組織をようやく壊滅に追いやったわけだけど……。バーンアウトとかするタイプかしら?」
「いや。後始末はまだ残っている。それに、壊滅したと言っても残り火が微かにでも存在していればまた組織として成り立つ。まだ、気は張りつめているな」
「そう、安心したわ」


赤井の隣に腰を下ろす。持ってきたもう一本のペットボトルを手渡すと短いお礼が返ってきた。赤井が水を飲むたびに、男性特有の咽喉仏が上下に動く。ナマエはそこへ指を這わせた。


「アタシたちの新婚旅行は、戦場かしら」
「君が望むなら」
「いやね、さすがのアタシだってのんびりしたいわ」
「行きたいところでも?」


赤井の問いにナマエは暫し考えて、咽喉仏へと口付けた。


「メジャー処は全部愉しんだし、砂漠地帯なんてどうかしら」
「絶妙なセレクトだな。暑いのが嫌だと駄々を捏ねないと約束するのなら、喜んで連れていこう」
「……」


ぴたりと動きを止めたナマエの頭を撫でながら、赤井は静かに笑みを零す。お返しと言わんばかりに頭頂部へとキスを送ると、黒艶の持ち主が顔を上げた。気高い瞳は女の情を宿し、赤井の心を満たす。そっと、首を傾けて唇を合わせた。


「アタシも貴方もこんな人生歩んでいるわけだし、満足な死に方が出来るなんて思っていないわ。でも、悔いなく死にたい。だからアタシはやりたいことをやるし、言いたいことは言う。赤井秀一の業はアタシが半分持ってあげる。だから」
「君の業も背負おう。君が守られるばかりの女性でないことは承知しているが、それでも必ず守り抜くと誓う」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。……頼りにしているわ」


再び口付けて、ナマエは赤井の頬を包み込んだ。あまりに長い時間を共有していたため、籍を入れたとしても何かが変わることはない。いつも通り赤井を支え、赤井に支えられるのだ。


「ナマエ」
「なあに?」
「酒でも飲もう」
「高級シャンパン頼みましょう。ああ、おつかみもお願いできたっけ」


このホテルには多少なりとも借りがある。ナマエは受話器を手にしてフロントへ内線を飛ばした。話はスムーズに通り、10分ほどで軽食と共にお目当てのアルコールが届く。二人で、グラスを傾けた。


「何を祝して?」
「君の退職、功績、人生に」
「大げさね。じゃあ、アタシは貴方の努力と諦めなかった心に」


本当に長かった。
ナマエは赤井の肩に身を預けながら、グラスを手にしていない大きな掌を持ち上げる。男性らしい太い骨格に、硬くなった皮膚。この指が一体何人の命を救い殺めたのか。愛おしさを込めて、甲へ口付けを落とした。


「貴方のために料理を作って待つ日々も、悪くないかもね」
「寂しい思いをさせないようには留意しよう」
「浮気されるようなことしなければいいわ」


運ばれてきたナッツを摘まんで、赤井の口へ近づけた。塩を舐めとった舌先が逃げないように触れ、上半身をぐっと伸ばす。何度目かに分からないキスを交わして、ナマエは再びグラスにシャンパンを注いだ。


「煙草の数は頑張って減らしてちょうだいね。将来の我が子のために」
「なら、君もお酒の量は減らした方が良いな。自分のためにも」
「あら。肝臓の数値問題ないわよ」
「だが悪酔いをすると手に負えない」
「……それは、悪かったわね」


勿論、お互いにアルコールへの耐性はある。が、人である以上は箍が外れることだって稀にある。その奇跡的な「稀」が赤井と飲んでいた時に発生したため、反論が出来ない。何があったかは覚えていないが、翌朝赤井が見たこともない程ぐったりしていたものだから、褒められない酔い方をしたのだけは察した。以降、自重はしている。


「拳銃の腕は落としたくないから、地下訓練所があるセーフハウスを第二のお家にするわ」
「いくつかあるぞ」
「やあね。アタシが好きな場所知ってるくせに」


見晴らしの良い丘が近くにあるセーフハウス。赤井と喧嘩した日に、鬱憤を晴らさんとそこでひたすら射撃の練習をしていたのが懐かしい。あの時はお互いに想いを言葉にはしていなかったが、確かに通じ合っていた時期だった。


「月に一回は近接戦闘に付き合ってくれるわよね?」
「俺の気力があればな」
「秀一も歳には勝てないかしら?」
「馬鹿言うな、まだ問題ない」
「まだ、ね」
「……君へだって平等に訪れる」
「やあねぇ……。美容にも力入れていかないと。健康的な生活を送りたいわ」


ボトルを手にして赤井に見せると、首を横に振られた。飲んで良いらしい。遠慮なくグラスへ注ぐと、半分も入らなかった。


「ねえ、まだ祝ってくれるでしょう?」
「まだメインディッシュが済んでいないからな」
「ドルチェもね」


再び内線を飛ばそうとした手を掴まれて、きょとんとする前にキスが降ってくる。額に、鼻先に、頬に、唇に。優しく触れるだけの甘い愛撫。ナマエは目を細めて、伸ばしていた手を赤井の後頭部へと移した。


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