10th Anniversary | ナノ


「零≪ゼロ≫くん?」


それは唐突だった。
ポアロでバイトをしている最中に訪れた一人の客人。鐘の音や客同士の雑談、開いた扉から入り込んでくる雑音全てが消え失せ、か細い声は僕の耳へ鮮明に入り込んできた。来客を歓迎する笑顔は恐らく既に作れていないだろう。一瞬でもアイツだと錯覚してしまうほど、懐かしい呼び方。もう呼ばれることのない愛称に、言葉が詰まる。


「君は……!」
「やっぱり! 何年経っても童顔なのは変わらないね〜!」


屈託のない、気の抜けた笑みは確かに彼女だと指し示していた。ナマエちゃん――僕たちの幼馴染の一人だ。最後に会ったのは、22歳の夏。母親が病に伏したため正式に実家を継ぐと地方へ戻ってしまったのを、景が酷く寂しがっていたから良く覚えている。好きなら告白すればいいと背中を押したのに、結局頑なに首を横に振っていたな……。


「景≪ヒロ≫くんだったら渋くなってたのかなあ」


彼女は何も知らない。知らないが、亡くなった事実だけは耳に入っているようだった。締め付けられる胸に唇を噛み締めると、遠くから梓さんの来客を歓迎する声が届く。しまった、今は安室透なんだ。こんなところで、していい過去話は何一つない。


「こちらへどうぞ、お客様」
「はあい!」


カウンターへ案内をして、ナマエちゃんに向かって合図をする。唇に人差し指を立て、今は何も言わず聞かないでくれと首を横に振った。向ける視線に思いを込めると、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべて頷いた。良かった。彼女は手が負えない程のド天然で頭が弱いから心配だったが、さすがに年を食って成長したらしい。


「零くん可愛くなったね!」


やっぱり馬鹿だった――!!


「ナマエちゃん、スマホ出して」
「うん、いいよ〜」


警戒心も相変わらずないな!?
ロックが掛かっていないナマエちゃんのスマホの待ち受けには、幼い僕と景が映っていた。中学の入学式で撮ったやつだ。彼女の親が持っていた古い機種のせいか、少し画質が荒い。それすらも途端愛おしくなった。


「メッセージ、見て」
「私、零くんのおススメ食べたいな。ね、いつから喫茶店の店員さんになったの? 警官さんに飽きちゃった?」
「いいからまずメッセージ見て!」


駄目だ、この子に口を開かせてはいけない。小声ですぐにスマホを見るように告げて、ようやくナマエちゃんはきょとんと目を瞬かせた。


『事情は後で詳しく話すから、僕の名前は絶対に呼ばないで。安室透、それが今の名前だから呼ぶならこっちでお願い』


弱い頭で何度も文面の意味を咀嚼しているのだろう。視線が上から下へ、そして僕へと何周もする。すると、梓さんが戻ってきた。屈託のない笑みを浮かべている。


「こんにちは、ご来店ありがとうございます」
「ご来店しました! ありがとうございます!」
「えっ!? は、はあ。ええっと、ご注文はお決まりですか?」
「うんっ、ゼっ……ゼ………。……ゼリー?」
「ぜ、ゼリー……ですか?」


やっぱりダメだ。今「零くんのおススメ」って言おうとしたな。ナマエちゃんは何年経ってもナマエちゃんだ。思わずため息が零れそうになった。変わらなさ過ぎてよく社会人出来ているなと呆れすらする。
昔はこうやってバカみたいな発言をしては僕たちを掻き乱していた。僕はちょっとイライラした時もあったけど、景からすればトラウマを一瞬でも忘れられるほど楽しい空間を作ってくれる女の子だったんだよな。


「ゼリーみたいな柔らかいものを召し上がりたいそうです。歯の治療をされた後らしくて」
「なるほど! ん〜じゃあ、何がいいかしら。冷たい物も止めた方が良いですよね」
「パスタにしましょうか。少し柔らかめに仕上げましょう」
「さっすが安室さん! じゃあ、お願いしても良いですか? 私あちらの注文聞いてきますね」
「はい、お願いします」


ボックス席に呼ばれた梓さんの背中を見送って、再びスマホを素早くタップする。ぴろんとデフォルトの通知音が鳴ってナマエちゃんが視線を落とした。


『口が裂けても僕たちが知り合いだってことは言わないで。景の名前や警察官だってことも絶対に喋らないでほしい。必ず説明するから、今はただの初見の客ってことで頼むよ』


ぱちくりとする瞬きに心の中でもう一回頼むと願う。ナマエちゃんに無茶振りしているのは良く分かってる。元々人を疑うこともしないし、嘘も吐けない善人のような女の子だ。たった短いやりとりですぐ理解できるが、やっぱり何も変わってないらしい。それに、呆れもするけど、どこか安心もした。


「えーっと…ええっと、喉も乾きました。……やすむろさん?」
「安室です。お水どうぞ」


でも、やっぱり頭悪すぎるな。
梓ちゃんが戻ってくる。下手に会話は出来ない。このままナマエちゃんには静かに飲食をして退室してもらわないと。


「おねーさん、若いですねぇ。おいくつですか?」
「私ですか? 23歳です。お客様はポアロ初めて……ですよね?」
「はい。はつみです!」
「はつみ?」
「……恐らく、初見と仰りたいのかと」
「ああ。なるほど!」


なんで会話しだすかなあ!? 
しかも漢字読めなさすぎだろ! 確かに前から馬鹿で阿呆でどうしようもなかったけど、大人になってもとはどうかと思うぞ。


「ウチのパスタ、とっても美味しいので楽しみにしていた下さいね」
「うん、のんびりしますね〜」


のんびりしないでくれ……。間延びした言い方は相変わらず気が抜けるな……。
ナマエちゃんへパスタを差し出すと、またへらりと笑顔を浮かべた。この笑い方が、いつも心を落ち着かせるのだと景はデレていたけど、今の僕にとっては冷や冷やさせるものでしかない。ふとした瞬間に爆弾発言をしそうで落ち着かないんだが……。


『店を出たらこのビルの裏側で待ってて。僕もすぐ店出るから』
「お仕事頑張らないとダメだよ?」


何のためにメッセージ送っているのか分かっていないなこの子は!!!
顔に手を当てて天を仰ぐ。本当に凄いな、尊敬の域へ達しそうだ……。スマホで指を叩くと、はっとナマエちゃんは口元に手を当てた。きょろきょろと慌てて視線を泳がせて、勢いよくパスタへ食いつく。梓ちゃんが遠くで目を瞬かせている。よほどお腹が空いていると思われたんだろう。

ナマエちゃんは一言も喋ることなく、パスタを飲み物の如く胃に収めてすくっと立ち上がった。『お会計お願い』とメッセージが飛んできて、いやそれは直接言ってくれと喉から声が漏れそうになって焦った。

急用が出来たと梓さんへ謝罪をし、身支度を整えてポアロを出る。お願いしていた通りナマエちゃんはポアロの裏口にいた。ぼーっと空を見上げている彼女の傍に停車をして、助手席へ乗せる。すぐ発車させた。


「わ、やすむろさんの車かっこいいねえ」
「安室。今はもう零でいいよ。それにしてもナマエちゃん、久しぶりだね。まさか再会するなんて思ってもみなかった」
「私も! でも東京に来れば零くんに会えるかなって思ってたんだ! 早速見つけちゃったからびっくり!」


僕に会いに……?
彼女はへらりと笑顔を浮かべて大きく頷く。


「何かあったの? 家業を継いだんだろ?」
「先月閉めちゃった。お母さん死んじゃってからお店上手くいかなくって」
「そう……」


おばさん、亡くなったのか。気さくで誰彼構わず明るく接してくれる人だった。ただ手がよく出たから、僕と景はよくベシベシ叩かれてたな。地味に痛かった。


「だから零くんに会いに来たの! 他に仲いい子いないんだもん。景くんも、何かあったらいつでも来いって行ってたし」


何年前の話だよ。
……でも、確かにナマエちゃんが実家に帰るって時に言ったな。景がいたらとんでもなく喜んだに違いない。アイツ、ナマエちゃんにベタ惚れだったし。


「ねえねえ、零くんは今何をしているの?」
「……昔と変わらないよ」
「そうなの? 今どきの警官さんって喫茶店でも働くんだねぇ。地域のために偉いぞ!」
「わっ、や、止めてくれ!」
「あはは。零くん可愛い〜!」


人が運転しているのに頭をぐしゃぐしゃに掻きまわしてくるな!
強引なのも変わらないな……。ナマエちゃんには直接言葉で説明しないと伝わらない、頭弱いしな。かといって全部を全部伝えるわけにはいかない。隠し事だってへたくそなんだ。内緒にしてねなんて通じる相手じゃない。


「警官さんなのは隠しているんだ。だから名前も隠してる」
「潜入捜査ってやつだね! じゃあ、私が口滑らせちゃったら零くんが困っちゃうんだ!」
「そういうこと。だから、もし呼ぶなら安室透。本当は知らないふりしてほしいけど……」


ちらり、と様子を窺うと笑顔を浮かべていたナマエちゃんが寂しそうにしていた。ああ、やっぱり……。いつだって馬鹿みたいに花咲かせて笑っているから、こうして眉を下げているだけで胸が締め付けられるような罪悪感を覚える。景なんてすぐに謝って、彼女のご機嫌取りに走ってたな……。


「ナマエちゃんが不器用なのは知ってるから、昔の知り合いってことにしよう」
「! いいの?」
「ああ。でも、」
「分かってる! 景くんのこととか、警官さんってことは内緒なんだよね?」
「……頼むよ」
「うん!」


はは、まるで昔に戻ったみたいだ。ここに景がいれば……。
赤信号で車を停めると、ナマエちゃんが僕の顔を覗き込んでくる。どうしたのかと聞くと、へらりとまた笑った。


「今までよく頑張りました!」
「――……ナマエちゃん……」


次は優しく頭を撫でられ、忘れていた感触に鼻がつんとした。ナマエちゃんは、生きている。ナマエちゃんは今、目の前にいるんだ。


「景くんの分まで、私が零くんをきちーんと見守ってるからね! 料理だって上手いんだから!」
「……はは。料理なら僕だって出来るようになったよ。パスタ、美味しかっただろ?」
「うん、美味しかった。……そっか! あれ零くんが作ったんだ! 凄いね、たくさん練習したんだね〜!」


この年になって褒められるのが、こんなに恥ずかしくて嬉しいとは思わなかったな……。当たり前のようにナマエちゃんはいつも通りだ。昔のままでいることが、どれだけ難しいことか……今の僕には良く分かる。ナマエちゃんが変わらずにいてくれるから、だから景も僕も立っていられたんだろう。

お前の代わりに、僕がこの変わらない笑顔を守ろう。


「あ、お茶零しちゃった!」
「は!?」
「や〜ごめん。急ブレーキしてないのにね!」
「ナマエちゃん……君って子は……」


でも、甘やかしすぎも良くないよな。せっかくだし弱すぎる頭を少し鍛えてあげた方がいいかもしれない。


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