外では、サイレンがけたたましく鳴っている。今この瞬間にも、何かしらの事件事故が起こっているのだろう。安室透――いや、降谷零は警察庁のとある一室に居た。先ほどまで着ていたボロボロの服装を廃棄し、今は愛用の灰色のスーツに身を包んでいる。
「お待たせいたしました。」
そして彼女もまた、顔に簡易的な処置をした状態で部屋の中へと入室した。その身には降谷同様スーツが纏われている。決して、あの組織で幹部として振舞っていた『冴若槻冴』の姿はない。
「まあ、お座りくださいな。」
「…失礼します。」
2人は折りたたみ式のイスへと腰を下ろす。座り心地は決して良くはなかった。冴は薄く唇に弧を描く。
「まずは――そうですね、『初めまして』とでも言うべきでしょうか。」
デスクの用意されていたお茶を一口含んで、彼女は告げる。
「若槻冴と、申します。」
「……まだ、私を試しているのですか。」
告げられた名前は、変わらない。思わず降谷は眉間にしわを推せた。篠河ではないが、バカにされているような感覚を受ける。だが、真実は違った。
「ふふ、実はこれが本名なんですよ。」
「え?」
「たまたま、潜入先のボスの愛娘が『若槻冴』だったものですから、あえて偽名は使わずにいたんです。スリリングでしょう?」
「……。」
偽名を使わずに潜入捜査。
それがどれだけ計り知れない爆弾を背負っているのか――分かっていて、あえて彼女は選択したのか。その精神力に降谷は思わず口を閉ざした。
「後は、ヒントですかねぇ。」
「ヒント?」
「ええ。新人さんがいらっしゃるとのことで、悪戯んでみようかと。」
一尊敬の念すら浮かび上がったが、これが飛び散る。ふと、潜入捜査中に上から伝えられた彼女の人物像を思い出した。
『自信家ゆえに圧倒的な余裕を振りまいて他者を遊ばせて愉しむ――そういう人間だ』
まさに、その通りなのかもしれない。篠河に見せたあの対応も、今の対応も、面白がっているようにしか見えなかった。悪戯-あそび-をしているだけのようにしか。
「気を悪くしないで下さいね。私には貴方を試す必要があった。」
「分かっていますよ。」
「降谷零、初めての潜入捜査ご苦労様でした。我々は、貴方を歓迎いたします。」
初めて、手が伸ばされる。何度か触れたそれとは違う、強い意志のこもった掌を降谷は握り返した。ふっと零れた笑みは彼女のもので、先ほどまでの淡々としたものとは異なる、温かな微笑だった。
「なぜ『スラブ』を合言葉にしたか分かりますか。」
「組織の壊滅方法を選ばせてくださったのでしょう?」
降谷の即答に、肯定も否定もしない。
「潜入捜査が決まったとき、とある人物に告げられたんですよ。『スラブは形成してある』と。つまり、いつだって組織を壊滅させる準備は出来ていたということです。それでも、行動に移さなかったのは、俺がどういう答えを出すか待っていたから。」
ただ、じっとこちらを見つめていた。それはその言葉の意味を無言で問うていると察し、降谷は続ける。
「『スラブ』という言葉だけを言えば貴方は『点』として組織を壊滅させたでしょう。『点』は発生させるのは容易だが被害は少ない、それに比べて『面』は意図的な発生が困難な反面で被害は期待できる。」
「そこまで理解されていて、『ディープスラブ』と答えたのですか?」
「悪戯-あそび-好きの先輩と大規模に楽しみたかった……というのが一番近いですね。」
「ふふ、さようですか。」
緊張を隠して薄く微笑めば、冴は満足そうに頷く。
「私が捜査官だと感づいたのは?」
「ここへの加入時期や不自然な境遇を考えて怪しいとは思っていました。距離感も近かったですしね。」
「サービスですよ。」
「ありがとうございます。正直、確信したのは貴女が捕らえられているときです。」
面白い、と用意してあったお茶を飲んで冴はまたもは無言でこちらを見つめる。降谷も同じように口に含んで喉を潤わせて、言葉を紡いだ。
「貴方は篠河が爆発を引き起こすことを知っていましたね?」
「……。」
「あの場に行ったのは俺とスレイプだけのはずなのに、篠河がいることを貴女は知っていた。ましてや、地上階に爆発物があってそれを起爆させるなんて荒事、どんな預言者でも察知は不可能です。」
預言者なんて、信じてはいませんけどね。
少し冗談交じりに伝えると、相手はそれに応じてくすりと微笑んだ。
「貴女は篠河へ盗聴器を付けていたんです。」
「盗聴器、ですか。」
「篠河にスマホを返す時、ポケット内側に付けていた発信器を指で潰していた。彼女はその時俯いていましたから気が付いていなかったでしょう。しかし、さすがに俺の視界には入っていましたよ。」
脳裏に浮かぶのは、あの時の情景。指の間で潰していた小さな機器。同じものではないが、酷似した物を見たことがあるのだ。
「一見何なのかはわかりませんが――アレには世話になったことがありましてね。」
「あら、さようですか。」
「その時は発信器でしたけどね。」
肩をすくめる。初めて潜入捜査を命じられた際に、廊下ですれ違った男からの挨拶品だった。あの時の発信器も正方形のアルミであったが、強度は桁違いのようだ。あの篠河の胸元にあって壊れていないのはよほどのモノだと考えられる。
「何よりも、警察が来なかったことが明確な答えだ。」
あそこの立地を思い出してください、と降谷は続ける。
「場所は浅草スカイコートに隣接しているビル。いくら老朽化が進んで解体予定とはいえど、あんな爆発事故があって警官が来ないわけがない。警官でなくてもマスコミが押し寄せたっておかしくない状況だった。にもかかわらず、辺りが不自然なほどに静かだったのは……まるで最初から、そこで何が起こるのかを知っていたかのようでしたよ。」
部屋の中が暗くなる。外では厚い雲が太陽を覆っていた。少し雲の色も濃く、どんよりとしているのはこれからの天候を示唆しているかのようだった。
「人が寄らないように、細工をした――そしてそれで得をするのは貴女だけだ。」
だが、こんな外の様子とは裏腹に、目の前の女性は楽しそうにほほ笑んでいる。
「はい、さすがです。」
頷きながらの言葉は、まるで学校の教員のようだ。面と向かい、すべての憶測が当たっていたことを褒められ、心が少しだけくすぐったく感じる。だが、それを表に出すことはしなかった。そうこうしていると、彼女は立ち上がる。
「出来ればもう少しお話していたいのですが、実はもう時間がなくって。」
「どちらへ。」
「次に控えている捜査がありまして。」
その時、数か月前にいけ好かない男から言われた言葉を思い出す。
『アイツを愉しませるのは結構だが、そろそろ踏み込んでほしいところだな。次が控えているんでな。』
一体次に会えるのはいつなのか――冴と同様に降谷も席を立つ。
「最後に教えて頂けますか。」
「はい?」
「『篠河』とは何者なのです? お知り合いのようでしたが。」
そして、貴女を憎んでいる様子でしたが――そう続けようとして言葉を瞑んだ。さすがにこれ以上は踏み込み過ぎだと思ったのだ。
「『篠河朱音』ですか。彼女も私たちと同じ立ち位置の者ですよ。」
「同じとは……。」
「ふふ、興味があるのでしたら調べてみたらどうでしょう? そう簡単にはつかめないでしょうけれど。」
背中を向けて、ドア飲むを掴んだ途端に、ふと口が開かれる。自分でも、驚いた。
「……今は、貴女への興味の方がありますね。」
顔を振り向かせた冴は、きょとんと眼を丸めた。お互い、同じような驚愕の表情をしているに違いない。降谷自身も目を丸めていたために、おそらく咄嗟に飛び出た言葉なのだろうと冴も察したのか、ふっと笑みを浮かべる。
「おや。私ですか。」
「……潜入捜査先でも悪戯心を忘れない、その器量がどこから出てきたのか……とか。」
「ふふ、貴方であればすぐ身につきますよ。」
その微笑が、やけに印象に残った。
冴は短く失礼、と告げて部屋を後にする。扉が閉められるその隙間から、黒い髪の毛が優雅に波打った。