Zero the Enforcer | ナノ



1年前――

都内某ビルに人だかりができていた。パトカーが玄関先で存在感を放ち、周囲には何事かと民間人と情報を求める報道陣が集っている。ガヤガヤと言語化できない音声が賑やかせる空間を、遠くから見つめる影があった。

岩井紗世子である。

彼女は、警察の報道陣を規制する声をバックに踵を返す。隠れるように裏路地へと足を踏み入れ、黒革のショルダーバッグから書類を取り出した。表紙には、『ゲーム会社窃盗事件』と明記されている。一枚捲ると、そこには第一回公判調書が記されていた。


「第一回目、お疲れさまでした。」
「っびっくりさせないで……ください。」
「ふふ、それは失敬致しました。」


誰も居ないと思った路地から、気配もなく新たな人物が現れる。岩井よりも年下の女――若槻冴は、緩やかに口元の口角だけを上げた。


「守備は如何でしょうか。」
「問題ない、ですよ。証拠は十分揃っていますから。」


たどたどしい敬語の真意を読み取られている。冴の変わらない表情でそれを察する。これだからこの人間は苦手なのだ。岩井は気まずそうに視線を泳がせた。


「何か連絡事項はございますか?」
「なしと報告を受けるために、いらしたわけではないんですよね。」
「ふふ、ご理解いただけて光栄です。」


思わず、顔が歪む。
出会って一月も経っていない相手に悪戯されているような言動に、苛立ちすら感じる。この年下の女が、自分よりも上の立場であることを何度疑ったことか。けれど、彼女の持ってきた話が――あまりにも美味しくて。


「日下部検事が、『羽場二三一は自分の協力者である』と告げてきました。」
「さようですか。それで?」
「窃盗事件は自らの指示で起こった事故だから、起訴するなと。」
「あらまぁ。」
「……もちろん、指示通りに対応しました。」
「ふふ、ありがとうございます。」


淡々とした返事が続き、いよいよ岩井はため息を零した。反応を見る限り、きっと盗聴でもしていたのだろう。全く信用されていない事実に、自分は良い公安の駒なのだと察した。


「『NAZU不正アクセス事件』の現状は如何でしょう。」
「今頃最終公判ですが、日下部検事の勝訴で終わりそうです。弁護側もこれ以上反論は出来ない状況ですね。」
「橘境子でしたか……ふむ。羽場二三一の件で冷静さが欠けているのでしょう。」
「……警視庁へ、直談判をしに行ったと伺いましたが。」
「ふふ、当然ですね。」


この女は何を知りたいのだろうか。考えても、考えても理解に達さない。裁判所で戦う時とは異なる緊張感が身体を震わせる。次に紡ぐ言葉を思案していると、軽快なメロディーが鳴った。思わず、逸らしていた視線を戻す。丁度、冴がスマホを耳に当てているところだった。


「私です。――ああ、検察側の勝訴ですか、予定通りですね。」
「……。」
「こちらも問題なさそうです。日下部検事が近いうちに警視庁へ行くでしょうが……ええ、そう。橘弁護士と同様の要件でしょうね。対応は変わらずで。頼みましたよ。」


淡々と、あくまでも事務的に話していた冴の声色が変わったのは、この直後だった。


「!、それは事実ですか? いえ、失礼。確認も含めて飛びましょう。『彼』は身動きが取れないでしょうし――……ふふ、鎖に繋がれている狂犬の代わりに働かせて頂きますよ。」


いったい、何の話なのか。
若槻冴が自分にとって逆らえない立場であることは突き付けられていたが、詳細は無論知らない。ただ持ち掛けれた言葉が彼女を思い出すたびに脳裏にこびりつく。


『岩井紗世子検事ですね。』
『どちらさま? アポはとってるのかしら。』
『アポを取る余裕がなくって……大事なお話、よろしいですか?』


初めて会った時から、その微笑は冷たかった。夕陽が沈み始める頃合いに、ノック音とともに現れた女性は、こちらの断りなしに要件を告げる。


『私が、今回の事件の検事に?』
『ええ、さようです。貴女の実力は過去の法廷記録で理解しています。』
『ですが、日下部検事が担当を希望していると上から伺っていますが。』
『彼は既にNAZUの件を受けています。承諾できないと判断し、貴女を指名させて頂きました。』
『指名? 私を?』


何かがおかしい。それを、理解はしていた。けれど薄く笑みを浮かべる女に配して反論は赦されない雰囲気がひしひしと伝わってきていたのだ。恐れすら感じた。


『被告人を必ず起訴していただきたい。日下部検事が何を言っても、です。』
『なぜ、そこで日下部検事が出てくるのです……?』
『ふふ。いずれ知りますよ。』


今思えば、すべてわかっていたのだろう。今回の事件における被告人が日下部とどのような関係性なのか。分かっていて、あえて自分に声をかけてきたのだろう。最高の餌に喰いつくと確信して。


『起訴していただければ、貴女には更なる活躍の場を奉げましょう。』
『活躍の場?』
『そろそろ主任検事では差がつかなくなってしまいますねぇ?』
『!』


悪魔の囁きだった。


「ええ、では私はこれで。良い報告を持って帰れるようにいたしますよ。」


冴の通話が終わったようだ。彼女はスマホを懐にしまいながら、こちらを一瞥する。


「私はまた出なくてはなりません。後のことは貴女に一任致します。」
「……どちらへ?」


秘密主義の世界だ。聴いても無駄であろう――そう思ってはいても、訊ねざるを得なかった。冴は肩をすくめて踵を返す。細い裏路地にあのときと同じ夕陽が差し込んだ。一直線に降りかかる眩い明かりが彼女を照らした。


「この国を守りに。」





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