The Darkest Nightmare | ナノ



「くっ……!」
「さすがは黒の人間。ドライブテクニックには脱帽しますね。」
「感心している場合か!」


車の間を猛速度で潜り抜けるそのテクニックは中々のものだ。単騎で潜入して、降谷の攻撃もかわし、この技術のことも考えれば女は組織の幹部であることは明確だ。それも、上の立場の人間だと容易に想像ができる。尚更、逃すわけにはいかない。


「くそっ、もし逃げられでもしたら世界中がパニックに……!!」
「降谷、」
「なんだッ!? 策でも浮かんだか!」
「逆走しますよ……!」
「なにを……ッまさか!?」


冴の言葉を境に、降谷の目の前には多量の赤が目に浮かぶ。長蛇の車の列。それを認知した真横を猛スピードで過ぎ去る車――女の車が逆走し始めたのだ。ようやく冴の言葉の意味を察し、降谷は再びその手足を動かす。


「渋滞を知っていたな若槻ッ!! なぜ黙っていた!!」
「ネズミを袋叩きにする策が出来たからですよ。」
「お前っ……! ふざけるな、ヤツは俺たちの獲物だぞッ!!」
「この一大事に手柄を気にしている場合ですか! 」
「ッ……よりにもよって……くそっ!」


ダンッ、と力強い降谷の拳がハンドルに衝撃を与えた。アクセルを踏み込むその足にも力が入るが、肝心の対象の車は視界に映らない。それが降谷の中の焦燥感と怒りを増幅させた。


「どんな手段をもってしても確保しなくてはなりません、分かるでしょう降谷。」


冴の正論すら、冷静さを欠いた今の降谷には届かなかった。何も返答をすることなく、ただひたすら相手を視野に入れようと踏み込む。

だが、降谷たちは間に合わなかった。身体全身に伝搬してくる激しい振動と共に、轟音が夜の高速道路に響き渡る。そして、その音の直後に、真っ赤に燃えた火の手があがった。


「爆発……!?」
「クソッ!」


車一台を仕留めたにしては巨大なその炎の影と、黙々と上がる黒煙に冴も眉間にしわを寄せる。疾走してきた道を戻り、着いた先は先ほど一般車両が宙を舞った場所だった。すぐに現場を確かめようと降谷が車から降りる。崩れ落ちた道路と、明らかに何かが海へと落ちたのであろう痕跡がはっきりと刻まれていた。そして、この場所には因縁の男赤井が、ご自慢のライフルを手に立っている。降谷はこの状況を怒りの裏で瞬時に察して、赤井と対峙した。


「赤井、キサマ……。」
「……。」


だが赤井は何も言わない。それが尚更、降谷の感情を負方向へと傾斜させる。感情の赴くまま足が一歩前に出そうになった刹那に、遠方からサイレンの音が響いた。これだけの騒動だ。警察が呼ばれるのは当然の出来事だった。


「っ……。」
「……行きますよ、長居は無用です。」
「……分かっている!」


冴の冷静な声色が、今は彼の感情を高ぶらせる起爆剤にしかならない。憎しみすら籠った表情を抱いたまま降谷は早々に車へと乗りこんだ。助手席から降りていた冴は再び乗り込む寸前で赤井に視線を向ける。彼もまた、こちらを向いていた。


「貴方も、早々に立ち去りなさい。ここは我々が上手くやります。」
「……ああ、任せた。」
「若槻!」
「はいはい、そういきり立たないで下さいね。では、」


気を付けて。冴の音と成らない口の動きを読み取り、赤井は静かに頷く。これを確認して冴が車に乗り込むと、赤き炎が上がる中で白いボディが疾走し始めた。赤井もまた車を動かす。片手にはスマホを持ち、その口は上司への報告を告げていた。

「随分と気にかけてやってるじゃないか、ええ? 冴。」


車内の空気は重々しい。言葉が発せられたかと思えばここには別の感情が強く宿っていた。仕事中であるにもかかわらず名前を呼んできた降谷に、冴は彼の怒りが頂点に達しつつあるのだと察して眉を下げる。


「黙っていたことは謝ります。ですが事が事なのです、使えるものは使わなければいけません。」
「最後の労わる言葉は必要かと聞いている。ずいぶんとヤツの腕を信用していたようだが結果がアレだ。生存が不明確な今、俺たちの状況は最悪だと理解しているんだろうな。」
「ええ。仮に女が死んでいても、逃走中に組織にリストを送っているかもしれない……もしそうなったら……。」
「ここだけじゃない、この世界が終わるんだ。」
「ですが彼の力を借りなけば逃げられていました。」
「俺の腕が悪いとでも言いたいのか。渋滞状況にも気を止められなかった俺の不手際だと。俺に欠けているものがヤツにはあったのだと、そう言いたいのか冴。」


まくし立てるようなその発言に冴は思わず口を閉ざした。降谷の表情は未だ険しく、前だけを見つめている。


「……零、私は、」


冴が弱弱しい声を上げた時、掻き消すように巨大な音が響く。それは先ほどの爆音ではなく


「……。」
「……。」


最悪な日に、祝いの花火があがった。


「……戻るぞ。」
「……はい。報告をいたします。」
「FBIも絡んでいると伝えておけ。」
「ええ……。」


思いを確かに伝えられないまま、一切のコンタクトを無しに彼らは戻った。荒らされた機密情報の中枢へと。

出迎えてくれたのは不安げな表情を隠せない部下たちと、険しい表情をした男だった。降谷と冴が車から降りれば、彼らの表情は一層強張る。2人の顔色を見て、報告通りだったのだと確信を得たからなのか。男は一歩前に足を出す。


「……報告は受けた。詳細を説明してくれ。現場は既に我々が手を打った。」
「ありがとうございます、ボス。申し訳ございません。」
「いや、…にしてもFBIまで絡むとはな……。」


一刻を争う事態に下手な言葉を口に出せない。彼らは会議室の一室にこもり、重々しいため息を吐いた。空気はあまりにも重く、暗い。捕らえなければならない女を、得らなければならない組織の情報を、守らなければいけない国家機密を、何をすらをもこの手に収められなかったのだ。その責任は計り知れない。


「ボス、」
「なんだ。」
「ネズミは必ず見つけます。私に捜索許可を。」
「待て、俺が動く。」
「降谷、貴方は冷静さが欠けています。ここに居てください。」
「なんだと……?」
「彼が出た途端に見境なくなるのは悪い癖ですよ。それが仇になるのを自覚してください。」
「ハッ、やけに庇うじゃないか。いったいどういう了見だ。」
「止めろ、2人とも。捜索隊は既に派遣している。お前たちは一度休め。」


迫る2人の緊迫した空気に男は圧倒されることはなく、淡々と冷静に返す。降谷は苦虫を噛み潰したような表情で衝動を抑える。だが冴は引き下がることはなく再び言葉を発した。


「ボス、今なら間に合うかもしれない。私は女の顔も服も知っています。私が出た方が確実です。」
「若槻、お前も降谷に言えた義理ではないぞ。」
「ですが、」
「日頃冷静な奴ほど、こういう時に致命傷を刻む。分かるな。」
「……。」


一見、冴は普段通りの振る舞いで、落ち着いた態度をとっているようにも映る。だが男はそんな彼女の心の内を察して眼を鋭くさせた。これには思わず彼女も吐き出そうになる反発の言葉を呑み込む。珍しい上司2人のやり取りに、部下たちはただ口籠る。再び静まり返った冷たい空気を男の言葉が切り裂いた。


「現状の把握及び対策を練る。若槻と降谷は20分後に指揮を取れ。それまでこいつらは俺が見る。いいな、命令だ。」
「…了解。」
「……。」
「若槻、返事はどうした。」
「……承諾いたしました、ぼす。」
「……一時解散だ。」


男の言葉を区切りに、冴は踵を返してパンプスの音を鳴らす。決して力強いものではない。どこか弱々しい、便りのないそれだった。

「……降谷、今まで以上に留意しろ。既にお前の命は狙われていると言ってもいい。……お前まで失いたくはないからな。」
「ええ。分かっています。」


扉が重々しい音を立てて閉じられた。奥へと消え去った背中を思い、視線をその扉へと向けたまま降谷はぽつりと言葉を漏らす。


「……若槻を頼みます。」
「いやだね。」
「は?」
「お前が一番分かっているんだろう? ウチ一番のクールビューティーは、最も不安定な心の持ち主なんだ。支えられるのは唯一人。……この一大事に機能不全なんて勘弁してくれよ?」
「! ……ははっ、」


男に背中を押されて、降谷の足が一歩前に進む。乾いた笑みを浮かべた。先ほどまでの怒りは一気に冷めた。締めていたネクタイを緩めて、降谷はふぅと息を吐く。ようやくそこで張りつめていた体の硬直が解けた。


「では休憩を頂きます。20分後に奴らを締め上げる策でも練るとしますよ。」
「ああ、そうしてくれ。お前たちが戻り次第、俺は処理に回る。任せたぞ、降谷。」
「ええ。」


降谷は片手をふらりとあげて、部屋を後にした。再びしんと静まり返った会議室に男の声が響く。


「さあ気を引き締めろよ! これからは一切寝れないと思え!!」


しん…としているこの空気を、空間を、何と呼べるだろうか。

冴はぼうっと巨大な窓ガラスに身を寄せて夜の街を見下ろしていた。赤も緑も白も青もあらゆる色が暗闇の中で彩を放っている。その色が高層ビルや整備された道路を映し出す。作られたすべての大地を人は歩み、車が通る。何を思うわけでもなく、何を言うわけでもなく、冴は無心でただその街を見下ろしていた。


「真似でもして、窓を突き破る算段か? 」
「……。」
「さすがに高すぎて死ぬぞ。」


スーツポケットに両の手を入れたまま、降谷が近づいてくる。一定の距離を置いて彼の足は止まり、蛍光灯の光でビジネスシューズの先端が光沢を放つ。


「……。」
「寝ぼけてるのか? 嫌味の一つも飛んでこないなんて、珍しいこともあるもんだ。」


降谷の足は進む。コツン、コツン…と軽快な音がゆっくりと立って、窓ガラスに近づけば同様に街を見下ろした。


「今頃、メディアがうるさいだろうな。」
「……。」
「さっきまで近場が停電していたらしいぞ。気づいたか? あれだけ爆発すれば電線も切れるな。」
「……。」
「……。……さっきからいい度胸だな、俺の言葉を無視か。」


続く無言に降谷もこれ以上の冗談は続けられず、前髪を掻き上げながら大げさにため息をついて見せた。それでも、冴の様子は変わらず、横髪で隠されている瞳はただ街へと向いている。降谷は音を立てずに息を吐き、冴の顔を覗き込んだ。


「おい、いい加減こっちを見――……冴……。」


はっと、降谷は目を見張る。ぼんやりと街を見ていたであろう冴の瞳は、表情は、今にも涙しそうなほどに歪んでいた。瞳はほんのり赤く充血し、唇は普段の桃色を彷彿させないほど真っ白だった。傷跡が付きそうなほどに強く唇を噛みしめているのがよく分かる。眉間にも深々としわを寄せて、ただただ何かを堪えるように感情を押し殺していた。


「……バカだな、なんて顔してるんだ。ブサイクにもほどがあるぞ。」


降谷はその心中を察して、口元を緩やかに緩めて囁くように告げる。それは決して冗談を言っている口調でも、相手をけなしているそれでもない。ただ、子供をあやすかのような優しく、温かな音色だった。


「っ、よく…言えますね……事の重大さを分かっていないとは、言わせませんよ。」


ようやく開いた唇からは、今までの凛とした態度とは正反対のか細い音色が発せられる。


「それは俺があの時言ったセリフだ。勝手にとるな。」
「……、」
「盗まれたデータは組織に潜入しているNOCリストみたいだ。ヤツめ、的確に必要な情報だけを短時間で多量に盗ったようだ。全てのデータが盗まれなかっただけ、不幸中の幸いだな。」


降谷は少し屈んでいたその背筋を伸ばして、再び街へと視線を移す。


「何も諜報員が全滅するわけではない。最悪、組織に再び潜り込めばいいだけだ。年月はかかっても奴らを潰せれば問題はない。あるとすれば、痺れを切らした頭が固いウチの上層部がバカみたいな指示を出して自ら火に飛び込むことか?」
「……。」
「とにかく、今は奴らの動きを見つつ行動するしかない。俺が動けない分、お前には迷惑をかけるが――、」
「ッ、」


ダンッ


「……おい、……窓割るには力が足りてないぞ。」


鈍音を響かせたのは冴の小さな拳だった。髪が揺れて、表情はまた窺えない。降谷は一瞬口を閉ざすも、緩やかに紡ぎなおす。


「……零、貴方、分かっているでしょう……。」
「何がだ。」
「貴方の命が、危ないんですよ……? データが向こうにある以上、今この瞬間貴方が狙われることになるんですよ!?」


それは、悲痛の叫びだった。先ほどよりも充血した瞳はすでに溢れそうなほど潤み、激しく揺れている。


「それをッ、冗談ばかり……! ふざけるのも大概にしてください!!」
「…。俺よりも、お前の方が割と冗談言ってたと思うけどな。」
「零ッ!!」
「分かったから、そう怒るな。もう若くないんだ、皴が増えるぞ。」
「ッ……貴方という人は!」


歯を食いしばった冴に、降谷は眉を下げて困ったように微笑んだ。そのまま、褐色の大きな両掌が冴の頬を撫でる。挟み込むように優しく包めば、そっと顔を近づけた。


「冴、」


優しく、赤子をあやすように名前を囁く。


「冴、俺は死なない。分かるだろ、簡単に逝くように見えるか。」
「……ひとは、あっけなくしぬんですよ、零……。」
「ああ、そうだな。だが俺はそう簡単に死んではやらならないさ……置いていけないヤツがここにいる。」
「……わたしは、」


降谷の掌に、冴の涙がたまる。静かに流れる涙を親指がゆるやかに拭う。


「貴方がいない世界に、用はありません……。」
「……大胆だな。」
「貴方がいない日本を、どう守れというのですか……もう、見ないふりはできないんですよ……。」
「当然だ、俺がそうしたんだから。」


冴は縋るように両の手を相手の胸板にあてる。熱を感じるようにゆっくりと身体を近づけて、額をそこに押し当てた。表情こそ隠れたが降谷はそれを愛おしむように細い体を抱きしめて、髪を撫でた。


「それであんなに大事なボスに反発してたのか。」
「反発なんて……。」
「納得いってなかっただろ、ボス主義のお前が珍しいってアイツらも思ってただろうな。」
「だって、貴方のことを考えれば当然ではないですか……私が逃してしまったようなもの。私の判断ミスです。」
「いや、お前は冷静な判断をしたよ。悪かった、俺のサポートをお前はずっと隣でしてくれていたのにな。」
「……零……。」


降谷は頭に一つ口付けると、再び冴の頬を撫でて顔を上げさせる。濡れた瞳と視線を交らわせて、何も言わずに唇を落とした。


「――ん……、」


最初は柔らかなそれを味わうように触れるだけ。一度顔を離せばもう一回、次は弾力を楽しむように啄む。


「ふっ、ぅ…、」
「……っは、」


何度も、唇が濡れても接吻を繰り返す。冴の腕は降谷の首に回り、降谷もまた冴の身体を強く抱きしめた。それに比例して冴も降谷も唇を薄く開けて舌を絡め合う。ぴちゃりと水温が静かな空間に響いて、それが更に2人の熱を加速させる。


「ぁ、…ん、」
「…冴、…。」
「…っれい…!」


まるで隙間なんて寸も要らないとばかりに密着し、互いの現状をも忘れるくらいに貪り合う。何度も何度も、離れては近づき、浅い呼吸音が感情を高ぶらせる。


「……、」


延びる2人の唾液を降谷が舐めとる。色情を露わにしている互いの顔を見つめ合って、降谷は再び冴の頬を撫でて、触れるだけの接吻を送る。惜しむように身体を離せば、冴の乱れた髪の毛を優しくほぐした。


「悪いが休憩は20分しか無くてな。そろそろ時間だ。」
「…ああ、……顔、酷いかもしれません……。」
「……洗ってこい。」
「化粧するの、めんどうだわ。」
「知るか。そんな誘うような顔しやがって……。」
「もう、誰のせいですか。」


冴が息を吐く。先ほどまでの行為の直後だからか、表情が艶やかだからか、その溜息一つも、降谷にとっては情事中のそれにしか思えなかった。自分の中の熱を冷まそうと、中に溜まっている二酸化炭素をゆっくりと吐き出す。


「俺は先に行っているぞ。いいか、顔直せよ。」
「女性になんて言葉です……まったく。」


立ち去る降谷とは正反対の方向に冴は歩き出す。その顔立ちはゆるりと女から変化していった。





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