The Darkest Nightmare | ナノ



テンポの良いメロディーが一節流れた。これが昼間なら、人混みの動きにかき消されていたのだろうが、今は深夜だ。最終電車に乗っている人は僅か3人だった。うち1人はくたびれたスーツを身に纏ったサラリーマンの男。きっと今も仕事に追われているのだろう。雰囲気からも嫌そうなのが分かるのは、その手に何かしらの書類を収めているからだ。そしてもう1人はとにかく飲みの帰りであることが窺える。顔を真っ赤にさせて、瞼は今にも落ちそうだ。鼻にツンとくる酒の匂いと煙草の匂いが車内に充満している。思わず、ため息が自然と零れた。

そして最後の1人はスーツ姿の女性。もちろん、サラリーマンの男のようにくたびれてなんかいない。きっちりと着こなし、昔は履くことさえできなかったパンプスで体を支えている。そんな彼女は、移り変わる景色を見つめて非常事態であろうコールの内容を思い出していた。

DGSEが落とされた。それだけの内容だった。DGSEとは仏蘭西の対外諜報機関の名称である。言葉通り、その機関そのものが壊滅されたわけではない。けれど壊滅状態へと容易に持ち込める事態が生じたのだ。詳細はいまだ不明だが、脅威が日本へと向いていることは思案せずとも理解できる。

電車から降りたのは彼女を含め2人。別車両から降りてきた、これまたくたびれた男だった。彼を一瞥するだけして、パンプスが力強い高音を響かせる。改札を抜けた途端、背後から気配を感じた。そもそも足音が掻き消えていなかった。


「うぐっ……、」
「……。」


情けない声だ。冴は呆れた様子で一息吐いて、背後から伸びてきたその手首をひねりあげる。手加減することなく男の上半身を改札口の機械へと押し付けると、機械は何を勘違いしたのかエラーだと言わんばかりに赤色へ変色した。慌てた様子で寝惚けていた乗務員が走ってくる。


「だっ大丈夫ですか!?」
「ええ。この男はお任せします。警察へ連絡をお願いしても?」
「それはもちろん! お怪我は!?」
「ありません。先を急いでいますので、後始末はお願いします。」


乗務員に未だ唸り声をあげている男を押し付けて、冴は颯爽を歩を進めた。背後からは「居て頂かなければ困ります!」と情けない声がかかってきたが、耳に入れても応えることはしなかった。

ホームからようやく出ると、目の前には車が止まっているのに気づく。しかも知っている車だ。冴の足は歩みを止めることもなく、招くように開かれたドアをくぐった。


「連絡した覚えはありませんが、感謝します。風見。」
「いえ、オレは指示通りに従ったまでです。」
「指示? それはボスからのですか?」


再び、今度は低い視点で街の景色が流れていく。冴はスマホの画面を素早くタップしつつ風見から返答がなかったことを答えに、再度口を開いた。


「では誰の。」
「それは、」
「ああ、結構。」
「え?」
「察しました。あの男ですね。」
「…………。」


そう告げた途端に、風見の眉がぴくりと反応する。その様子を逃さず捉えていた冴は予想通りの反応に口元を緩ませた。これが尚更、相手に不快感を与えたらしい。気まずそうに目線を正面へ向けながら、男はゆっくりと唇を開けた。


「……。」
「言いたいことは言っていいのですよ。」
「……いえ。」
「さようですか。」


だが、その唇から本心が発せられることはなかった。押し殺しているのだろう昂る感情を見透かしたように冴は目を細める。

そうこうしている間に、車は巨大な建築物の門をくぐる。暗闇に浮かぶ『国家公安委員会警察庁』の文字を横目で見て冴はスマホの画面を落とした。


「オレは車を置いてから行きます。若槻さんは先にどうぞ。お待ちかねです。」
「ありがとうございます。ところで貴方、」
「はい。」
「以前と眼鏡が変わっていませんか?」
「……任務で壊れました。」
「ふふ、さようですか。お似合いですよ。」
「はぁ……。」


再度礼を告げて、敬礼を受けながら颯爽と中へ進む冴の背中を見つめていた風見は、疲れたと言わんばかりに重々しい息を吐く。懐からスマホを取り出し彼女の到着を報告する。相手は、彼直属の尊敬すべき上司である。

お洒落な内装は一切ない。あくまでもビジネスとしてあるだけの建物。この中にどれほどの貴重な情報が詰まっているのか、それは計り知れないだろう。正面から疲労感に満ちた働き者たちがやってきては、冴の姿を視界に入れた途端に驚いた表情で道を開け背筋を伸ばす。冴は彼らに声をかけることはしなくても、目を薄めて軽いアイコンタクトを交わした。

向かった扉は重々しく映る。分厚いその扉を振動させるように冴はノックをしてノブをひねった。当然音が鳴った方向を、中にいる者たちは誰だと確認する。


「来たか。予定より早い到着だな。」
「お待たせしました。どうやら気を遣ってくださった方がいたようで。」


自らのボスは今日もお気に入りだといっていた深い藍のスーツに包まれている。落ち着きつつも上品な質を漂わせるのは奥方が選んだというネクタイのお陰か、それとも先週切ったとわざわざ報告してきた新鮮なヘアスタイルのお陰か。どちらにせよ、今の冴にそれを褒める時間はなかった。


「要件を。」
「ああ。DGSE中枢へ侵入者があった。」
「取られましたか。」
「どうやらそうらしい。向こうは否定を続けているがな。」
「当然でしょう、機密情報を奪われれば国全体が深手を負う。」


男が低音、冴が高音というならばまさに中音の第三者のボイスが響く。冴はその発せられたボイスを耳にした途端に、口角を上げて小さく頷いた。


「仰る通りです。そして今、その深手を我が国が負う危機に曝されている。」
「それを防ぐのが俺たちの役目だ。違うか? 若槻。」
「言いましたでしょう、仰る通りだと。そのために私が来たんですよ。」
「ずいぶんな自信だな。」
「貴方に言われるのは心底心外ですね、降谷。」


視線が絡み合う。この世のものとは思えない程に恵まれた容姿を授かった男、降谷は鼻で軽く嗤う。冴もまた相手の不快感を助長させるように、それでいて上品に口角を上げた。


「貴方が出てくるということは例の組織ですか。」
「ああ、そのようだ。」
「まったく、首輪を繋がれているだけでは意味がありませんよ。」
「ふん。鎖を引っ張って根こそぎ潰してやるさ。」


冴は「相変わらずですね」と顎を上げて言葉を跳ね除けた。それに降谷が反応する前に、2人の間に挟まれていた男が手を上げて静かに牽制する。


「降谷が鎖を引っ張る前に、引っ張られる恐れがある。ここの死守が鍵だ。わかるな。」
「もちろんですよ。さあ、我が主、私に指示を。」
「命じる。若槻と降谷、お前たちをトップとしてこの主犯を捕らえろ。」


男の命令は絶対。2つの影は何も言わず、真剣な表情で頷いた。

夜の帳はまだ訪れない。一列しかつけられていない電灯。大きな空間で使われるデスクはたった4台。それらを繋げて2つの影は大きな地図を見つめていた。


「盗みに来るとすれば間違いなくここだな。我々が掴んでいる各国の諜報員がリスト化されている。」
「情報量は計り知れません。ここからどう盗むのか……。」


冴は腕を組んで目を細める。そこに苦悶の表情は見られない。


「ここへの侵入ルート、手段、データを得るハッキング技術はもちろん、膨大な量を短時間で記録する媒体の確保が必須ですね。スマホなんてちんけなものではないでしょうし。何より最悪の場合の逃走経路をどのように思案し何重に策を練っているのか……。」


若槻冴という女を良くも悪くも熟知している降谷は、その瞳に浮かんだ色の変化を瞬時に理解した。呆れたと言わんばかりに顔をしかめる。当然、冴は降谷の表情に気づき、細い首を微かに傾けた。同時に、肩にかかっていた黒髪がするりと流れ落ちる。


「お前、まさかと思うが楽しいだなんて、ぬかさないだろうな。」
「あら。悪いですか。楽しいと思っては。」
「当たり前だ。事の重大さを考えろ。」


鋭い視線も世の女性からすれば熱い視線なのだろう。冴はそれを正面から受け止めながらも、わざとらしく両手を軽く上にあげた。


「貴方のようにスリルある生活ばかりではなくなって、物足りなさを感じていたんですよ。」
「なんなら変わるか?」
「あら、良いのですか。貴方の立場、信用、財産、思惑、手柄、なにより憎しみ籠る屈辱を、全てを私がこの手に収めてしまいますが。」


この男降谷を前に、飄々とこう放てる人物はいないだろう。いないであろうからこそ、実際に目の前にいるこの女に対して、今宵運転手と化した男は眉間にしわを寄せたのだ。けれど降谷は音を出さずに鼻で嗤うだけだった。


「そうやって甘く見た結果、痛い目を見たことを忘れたらしいな。」
「ふふ、お陰で貴方の不器用な心の内を曝け出せて、むしろ甘酸っぱい経験だったかと。」
「能天気な脳内思考は変わってないらしい。よくそんな頭でここに居られるものだ。」
「貴方の厭味ったらしい言葉の選抜も変わらずのようで。よくその暴言で部下に愛想をつかれませんね。」


地図を見つめながらの何とも言えない会話のやり取りが、ここでぷつりと止まる。

地図上に置いていた褐色の手の甲に、まるで外を知らない程の白さが重なる。ぴくりと揺れた指先に冴は目を細めた。それは先ほどまでの嘲笑めいたものではなく、慈愛に満ちたものだった。


「安心しましたよ、零。」
「……男に絡まれたらしいじゃないか。えぇ?」
「あら、風見はとんだ口軽ですね。」
「まさか触れられていないだろうな。」
「私がそんなお安い女に見えるなら叩きますよ。」


ふふ、と嬉しそうに笑っているのは見間違いではないだろう。余裕綽々な冴にどこか苛立ちを感じたのか、降谷はほんの小さな舌打ちを打てば、重ねられていた白肌を掴んで力のままにその身を引き寄せた。男から加えられた突然の引力に冴の身体は簡単にデスク上へと傾く。降谷はもう一方の手で近寄せた後頭部を抑え、顔を寄せた。


「――んっ、」


重なった唇から零れる音色は今日一番の甘い香りを漂わせる。分厚い舌で簡単に相手の唇を押し開き、口内へと侵食していった。途端に身体に広がり始めるのは芳しい香り。先ほどの音色の甘さではない、もっと体の奥から滲み出てくるようなそれ。


「ぁ、っん…、」


後頭部から首筋に手を撫でおろし、流れる黒い仕切りに指を忍び込まれれば、現れたその白肌をやんわりと撫でる。ぴくりと震えたその正直な身体に降谷は満足げに口角を上げ、角度を変えて更に口付けた。決してそれは激しいものではなく、むしろ芳しい香りを更に拡散させるような緩やかなものだった。


「っ、…ん…んぅ、」


こんなところを上司や部下に見られたら――そんな不安すらも出させない程に奥深くまで染み込んでくる劣情。絡まり合う舌からは、これから先を助長させるように潤滑油が溢れ出て、聞くに恥ずかしい水音が止めどなく溢れている。唇は塞がれ、抜け出せない空気が鼻から断続的に漏れる。それすらをもどこかこの情を高ぶらせるだけのものだった。


「――ン、んぁッ、」


首元にあてていた指先が耳へと移る。まるでこの淫らな音を聞けと言わんばかりに耳元を弄りたおせば、艶やかさすらも感じる身体のくびれが更によじれる。抑えきれない欲が醸し出ている。

降谷は惜しむように味わっていた唇を、甘い汁共々吸ってゆっくりと身を離した。一列だけ点けられた蛍光灯が2人の間に延びるそれを厭らしく演出する。きらりと光ったその糸を自らの舌で絡めとって、降谷はようやく冴からその指先も離した。


「…っは……。」
「ぁ、ぁあ…ん、もう……。」


塞いでいた楽園から漏れた声は、抑えている理性をも破壊させにかかる。まったく、と降谷は心のうちで荒ぶる感情に冷水をかけるために、口角を上げた。


「事実だったみたいだな。」
「も、意地悪さは、変わりませんね……はぁ……。」


冴の熱はすぐには冷めない。冷水を当てる元気もない。ただ口元を垂れる2人の交わりを舌でゆるりを舐めとった。ゆるりと動く女の赤い舌に、当然男の熱は再び過熱される。


「帰るぞ、冴。」
「あら。作戦はまだ完璧ではないですよ。よろしいのですか。」
「休憩だ。明日、再び思案するぞ。いいな。」
「ああ、朝は早いのに、辛いですねぇ。」
「お互いさまだ。」


去り際に互いのスマホがかしゃりと音を立てる。地図上に描かれたあらゆる記載を記憶し、映された原形は冴の懐から取り出されたライターで無情にも崩れ去った。


「おい、火を使うな、火を。」
「だってこれお気に入りですもの。使いたいじゃないですか。」
「誰から貰ったのかも分からんそれを使うなと、俺は前にも言ったぞ。」
「零はやきもちやきですね。」
「ほぉ、……覚えてろよ。」
「ふふ、負け犬の遠吠えさまさまですよ。」


扉を開ける直前まで異なる2色は細い指先同士触れ合っていた。





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