D.C | ナノ

Origin.


揺れる熱


今でこそ女性が活躍する場は増えてきたが、私が新米として日々訓練に勤しんでいた時期には、女の存在など異端者扱いだった。廊下ですれ違うのは屈強な男ばかり。それも皆、私を見つけるや否や目を細め口角を挙げるのだ。微かにあげられた顎に見下してくる瞳は、完全に女を――いや、私という存在を舐めている証拠だった。
いつか絶対に見返してやる。逆に私がこいつらよりも上の立場に立って、良いようにこき使ってやる。

――そんなことを思っていたのは、果たして何年前だったか。


薄暗い照明に包まれたそれほど広くない空間に、ベルの高い音が響く。来客を知らせる鐘の音。反射的にそちらを見ると、相も変わらず無愛想な同期がそこにはいた。

視線だけを動かして捜しているのは、紛れもなく私なのだろう。分かりやすいように少しだけ手を挙げると、彼はすぐに気づき、静かに近づいてきた。足音1つ立てていないのは癖なのか、それともこの静かな空気を壊さないが為なのか。


「久しぶり。」
「あぁ。」


短く言葉を交わして、私はグラスに入ったそれを飲み干す。微かに主張してくる辛い味に、喉が熱くなった気がした。隣に座った彼から視線を感じるが、彼は口を開かない。私はこちらへ体を向けたウェイターに彼の好みを伝える。すぐにそれは作られた。


「俺に選ばせる気はないのか。」
「選ぶも何も、どうせ趣向は変わってないんでしょ?」
「まぁな。」


カウンターに肘をつきながら、彼はそっと懐から煙草を取り出す。どうやら酒の好みならず、煙草の銘柄もまた変わっていないようだ。それに安心したような気もするし、同時に頻度が変わっていないであろうことを想像すると、いい加減控えた方がいいと言ってやりたい気持ちにもなる。


「……なんだ。」
「別に? ただ、それも相変わらずなんだなって。」
「お前こそ合いもしない酒をまだ飲んでるのか。」
「喉がこれじゃないと通らせてくれないのよ。」


微かに聞こえる喉が笑う声に、思わず口から溜め息が漏れた。普段はそう変わることのない表情が、今じゃ「恋人」と対峙したかのように口角をあげている。私は「恋人」と同類なのかと吐き出してやりたいくらいにだ。


「で、なんで赤井がここにいんの。」


今日は滅多にない非番だっていうのに。


「どうせお前のことだ。明日のことを考えずにいるんだろうと思ってな。」
「なに、上司面?」
「現にお前の上司に違いない。」
「むかつく。」
「だろうな。」


昇りつめて昇りつめて、ようやく私にも部下を持てた矢先の、彼の帰還。同期で共に歩んできたにもかかわらず群を抜く彼の満ち満ちた才能に、私は当然敵いもしなかった。それでもいつかは追い越してみせると踏ん張り、ようやく掴めた位を、彼の帰還が見事に奪い去る。無事に帰ってこれたことを喜ぶべきなのか、潜入捜査が予期せぬ形で失敗したことを貶すべきなのか、立場を奪われたことを嫉むべきなのか。訳も分からないまま幾日が経っていったのは記憶に新しい。


「だが、所詮名前だけだ。」
「は?」
「分からないか?」
「…………。」


手元にあるグラスを傾ければ、からんと氷が動く。艶やかに煌めく琥珀色に、怪しげに細められる瞳。何が言いたいのか、正直サッパリだ。だがそれを口に出すのは気が引けて――いや、口に出してしまってはいけないと、痺れた脳がそう警告を出している。


「……、」
「……ふ。やはりお前にはそれはまだ早い。」
「あっ! ちょっと、赤井!」


まだ飲んでいるのに!
いとも簡単に奪い去られたグラスが、私の手の届かない距離まで置かれる。そうだ、いつだってこの男は簡単に私のモノをとっていく。私が努力して掴んだものも、何もかも、簡単に。


「返しなさいよ。」
「言っただろ、お前には早い。簡単に飲まれるぞ。」
「赤井には関係ないでしょ。」
「明日が勤務で、その勤務場所では俺が上司であることを忘れたのか。」
「……休日に仕事の話持ちださないで。」


瞳は変わらない。未だに何か言いたげな瞳だが、口に出さないのだからどうしようもない男だ、彼は。そんな瞳をこれでもかというほど睨みつけると、珍しく彼の瞳が私から逸れた。


「いや、違うな。」
「は?」


小さく動いた唇。そこから漏れた小さな言葉が偶然にも私の耳に届き、私の口からも素で低い声が零れた。


「――とにかく、今夜はもう止めておくんだな。」
「なにそれ。まったく理由になってないんだけど。ていうか私まだ飲み足りないし。」


返してもらえないなら、また頼めばいい話だ。あの酒は彼に譲ってやろう。そう思い、カウンター越しで丁寧にグラスを磨いていたウェイターに目配せをする。何度も通っているから、私が注文するものも分かっているのだろう。そっと、静かに1つ頷く。


「悪いが、それはキャンセルだ。」
「ちょっと!」


だがこの男はどうしても何が何でも私に酒を飲ませたくないらしい。ウェイターも困っている。常連の私に従うべきか、異常なくらい目付きの悪いこの男に従うべきか、きっと脳内では激しい衝突が起こっているに違いない。
こんな奴無視していいと口を開けた途端に強く身体が引っ張られる。思わず体がぐらついて、同時に急に体重がかけられた足元も崩れた。それを軽々と支えてみせるこの男は、本当に腹立たしい。


「行くぞ。」
「だからなんで私が赤井に従わなくちゃいけないわけ!」
「お前気付いていないだろうが相当酔いが回ってるぞ。」
「自分の限界は自分が一番知ってるの! 赤井にとやかく言われたくない!」
「駄々をこねるな。」


私の腕をがっしりと掴んだまま、彼は歩き出す。おぼつかない足元に集中してしまうがあまり、あっさりと私自身が扉の鐘を鳴らしてバーからおさらばしてしまった。吹き込んできた冷たい風に、ぶるりと身が震える。そんな私を、彼はじっと見つめてきた。


「な、なによ……。」
「少しは醒めたか。」
「こんなんで醒めるわけないでしょ。」
「ホォー……酔っていたことは認めるわけだ。」
「うるさい! ったく、もう最悪、なにこの上司。」


どうせこの無骨な手から逃れる術は、私にはないのだ。結局私は彼に全てにおいて劣っている。まだ若かったころに夢見た男たちを見下してこき使うなんて夢は彼によって見事に崩れ去ったわけだ。ああ腹立たしい。なんとなく胃がむかむかとしてきた。


「そんな苛立つほどの上司にまだ付き合えるか。」
「なに、今度はどうさせたいわけ。」
「……飲みたいんだろう?」
「……はぁ?」


もう何度私の頭を悩ませればいいのだろうか。口角をやけにあげて、楽しそうに私を見てくる男が、一体何を考えているのか見当もつかない。私にこれ以上アルコールを摂取するなと強硬手段に出るまでに言ってきたくせに、自分で遠ざけた餌を再び私の前に吊り下げてくるとは。


「何考えてんのよ、赤井、バカになったの?」
「バカとは失礼だな。」


喉で笑うのは彼の癖か。


「あんなところで飲み潰れる捜査官がいるか。」
「……なに、つまり潰れるなら俺の前だけにしとけってこと?」
「……どうだろうな。」
「赤井、やっぱりバカになったんじゃない?」
「そう思うなら、勝手にすればいい。で、どうする? 答え次第ではこの手を離してやってもいいが。」


何を勝手なことを。私が頷かない限り、離すつもりなどないくせに。


「……お酒、くれるならどうでもいい。」
「ふ、その言葉忘れるなよ。」


いつになく彼の瞳が鋭く細まって、風が吹いたわけじゃないのに身震いした。
結局のところ私が彼を翻弄し、操り、こき使うにはまだまだ道のりは長いのだ。どうせ、当分は彼の良いように私が踊らされるのだろう。


「バーボンは、嫌だからね。」
「あの味が分からないとは、お前も子どもだな。」


それでもいつか、絶対に見返してやる。
腕から侵食してくる温かい熱を睨みながら、静かに決意を固めた。

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