最初に触れたのはどちらだったのか。もう思い出せない。



「それで侍女達が洗濯物をひっくり返してしまって、もう大騒ぎだったんですよ」

「ほう、大変だったな」

「この前も、これくらいの大きさの虫が部屋に入ってきてしまって」



これくらい、と両手の指先で宙に大きを描くナマエの横顔を見つめていた。

鈴を転がしたような声音に耳を傾け、微笑む顔に目を奪われ。いつからこんなになってしまったのか。「それから、その前だって」と楽しそうに弾む声を、忙しなく変わる表情を。



「リヴァイさん?」



愛おしく、想ってしまったのは。



「ああ、何だ」

「何やらぼんやりしたご様子でしたので、気になってしまいまして」

「いや、」



言葉の先が続かず、彼女から視線を逸らした。

元より愛を囁くような、そんな気の利いた性格は産まれた時から持ち合わせていない。目は口ほどに物を言うという言葉もあるが、それが自分に適応しているとも思わない。重ねて言うならば目を通して気持ちが伝わってしまうのも問題だ。

何故なら、ナマエには、



「リヴァイさん、どうかされました?」



控えめに、ジャケットに触れた指先。

考えるのを止め、逸らしていた視線を再び彼女に戻す。心配そうに眉を寄せ、こちらを見つめてくる瞳と目が合った。

腕に触れたままの彼女の指先。欠けていない爪、陽に焼けていない白い肌、繊細とも言えるナマエの指に、自分の節のある指を絡めさせた。



「傷が出来てるな」

「え?、ああ…先日、片付けをしている時に金具に引っ掛けてしまって」

「消毒したんだろうな?」

「え、っと…小さな傷でしたので、その」

「オイ、俺の目を見ろ」



逃げるように視線を逸らし、言葉を濁したナマエ。少し溜息を吐くと彼女の手を離し、ソファから立ち上がった。



「あの、リヴァイさんっ」

「何処にも行かねえよ、そこにある薬箱を取るだけだ」



そう言えば安心したように微笑む彼女から顔を逸らし、誤魔化すように薬箱の置いてある棚へと足を進めた。

触れれば溶かすような笑みを浮かべ、離れようとすれば眉を寄せ動揺し。そんな彼女の存在が、いつからか自分の心を締めるようになり、愛おしさを感じるようになった。

この手の中に置いておきたい、深い所まで触れて、侵食してしまえたらどんなに良いか。



「……そんな傷があっちゃ、お前の旦那も困るだろ」



だが、ナマエには相手がいる。



「、まだ婚約者ですよ、リヴァイさん」

「似たようなもんだ」



出会った時から相手がいた。

婚約者がいたからこそ、ナマエと出会うことが出来た。

それなりに金も有り、地位もあるナマエの婚約者は調査兵団に支援金を出してくれる貴重な存在とも言えるが。性格はお世辞にも良いとは言い難い。端的に言えばクソみたいな人間性をしている。

そんな男の元へ嫁ぐ事になったナマエの家にも、それなりの地位があり、彼女を結婚させる事で家と家の繋がりを持ちたいのだろう。

誰が見てもナマエの婚約は政略的な物だと分かる。



「こんな小さな傷、あの人は気付きませんから」

「…そうか」

「流石ですね、観察眼と言いますか…凄いです」

「、観察眼か…そうか、そうかもしれねえな……手を貸せ」



消毒液を脱脂綿に浸し、ナマエの手を取る。左手の薬指、指先から第一関節にかけてまっすぐに伸びた切り傷に脱脂綿を乗せた。

先日怪我をしたと言っていたが、どうやら消毒液が染みるらしい。身体を強張らせたナマエを見る限りこの指先の傷はつい最近出来た物だと察した。



「痛むか?」

「いえ、平気です…っ」

「くっ、そう見えねえな」

「わ、笑わないでくださいな」

「悪い悪い。薬を塗って包帯を巻いておくか」



薬箱の中に入っていたクリーム状の傷薬を小指で少量掬い、傷口に塗る。

左手の薬指。今は何も無いそこに、いつか銀色の誓いが嵌められてしまう日がやってくる。

婚約指輪すらされていない指を見ていると、相手の男が如何にナマエに興味がないのか見て取れてしまい、胸の内が黒く陰る。



「どうだ、平気か?」

「大丈夫です、リヴァイさんは器用ですね」



傷口にガーゼを当て、細く切った包帯を巻きつける。キツくならない程度に結ぶとナマエの手を離した。



「わあ」

「何だ、そんなに凄いモンでもねえだろ」

「小さく結ばれたリボンが可愛いな、なんて思ってしまって」



かざす様に手を上げ、指先を見つめる。

そこにあるのが包帯でなく、本物であれば。そう考えて軽く頭を振った。



「他に怪我なんてしてねえだろうな?」

「ふふ、してませんよ」

「なら見せてみろ」



手首を掴み引き寄せる。

まるでじゃれ合う様に他愛も無く触れる。初めて触れたのはどちらからだっただろうか。自分か、彼女か、思い出せない。どちらが先だったか等、今となってはどうでもいい。触れているのはお互い様だ。



「傷、ありました?」

「見つからねえな」

「では今度は私の番です、リヴァイさんの手を見せてくださいな」

「オイ待て、俺の手は」

「あらあら?傷がありますね、ちゃんと消毒したんですか?」



子供のように笑うナマエに「うるせえ」とわざとらしく悪態をついて。それでも手は触れ合わせたまま。お互いに、それ以上近付く事もなく、だが離れる事もしない。

致命的な言葉も触れ合いも避けている。もしここで、好きだとか、俺を選べだとか、そんな言葉を吐いてしまったら戻れなくなると分かっているから。困らせるどころか、ナマエの首を締めることになると、分かっているから。

だからこそ致命的な言葉を避けて、この僅かな触れ合いに甘んじている。

ああ、俺は甘い言葉を吐けるような、そんな気の利いた性格じゃなくて良かったのかもしれない。

彼女を見つめながら、そんな事を考えた。




escape engage



コンコン


「リヴァイ、いるかい?会議が終わったからもう帰るそうだよ」



ハンジの声が聞こえた途端、ナマエの手が離れた。気のせいか表情も引き締まったものに見える。「ああ、分かった」そう返事をする俺自身も彼女と同じような顔をしているのだろうか。



「ナマエ、」

「はい、大丈夫です。いつでも行けます」



一線を引いたような顔で笑んだナマエ。

次を約束する事が出来ない。次に会うとき、彼女の左手の薬指には何も無いままでいてくれるだろうか。あわよくば、今日巻いた白い布切れを、



「外まで送る」

「いいえ、一人で行けるので気にしないでください。一緒に過ごしていただいてありがとうございました」



一礼すると背を向け、扉を開く。そこからのナマエは早く、扉の向こうにいたハンジにも頭を下げると足早に去って行ってしまった。



「お邪魔だったかな?」

「…」

「行っちゃうよ、いいの?」

「悪いが言葉の意図が見えねえな」

「嘘ばっかり、誰よりも理解してるくせに」



ハンジの言葉に答えないまま、廊下の窓から下を見下ろせば今しがた去って行ったばかりのナマエが見える。

婚約者の男に何度も頭を下げ、男は男で表情を歪め、顎でナマエに馬車に乗るよう指示をしている。


ナマエ


呼びたくなる気持ちを押し殺すと、先程まで彼女が触れていた手の感触を思い出すように、自分の手を緩く握った。