「遅い!何をしていた!」
「申し訳ありませ、」
「グズが!もういいさっさと乗れ!」
「はい…」
例え、どんな言葉を投げられようと。私の心が折れることは無かった。
親が決めた結婚、家同士が決めた婚約、私には愛情の欠片もない婚約者。産まれた時から決まっていた人生に嘆くことも悲観することも無く。きっと私は家の為に生きて、誰からも必要とされなくなった時に死ぬのだろうと。
そう思って生きて来た。
「遠い所をご足労頂き光栄です、調査兵団を代表してお礼を、」
「程度の低い挨拶は結構。エルヴィン団長はどこにいる」
「あー…かしこまりました、すぐにご案内を」
「さっさとしてくれ、時間が勿体無い」
心底嫌そうに、吐き捨てるように言う婚約者の言葉に、私の顔は酷く歪んでいるのだろう。
家柄と知識があるだけの人間。性格はお世辞にも良いとは言えない。それが私の婚約者。偉そうで、他の人を下に見る。一応は婚約者という立場である私のことすら下に見るのだ。きっと救いようのない人なんだと出会った時から諦めていた。
いつまでも表情を歪めたままの私に気付いたのは、迎えに出て来てくれた女性兵だった。名前はハンジ・ゾエさん。
目が合い驚いて表情の歪みを解く。そんな私を見て、ハンジさんは笑みを浮かべてくれた。
「モブリット、皆さんのご案内を」
「かしこまりました」
「お嬢さんはこちらへ」
「は、はい…」
うやうやしく頭を下げられ、促されるまま付いていく。婚約者に背中を向けた時「ちっ」と舌打ちが聞こえた気がしたが、構うことはしなかった。
「久しぶりだね、お嬢さん」
「はい、前回ここに来たときは別の方が出迎えてくださいましたね」
「あー、あの時はちょっと研究に没頭しててね」
「まあ、忙しいんですね」
くすくす笑うとハンジさんは苦笑い混じりに頭をかく。
話しやすい方だと初めて出会った時から感じていた。同じ女性だからというのもあるかもしれないが、ハンジさん自身が元々人当たりが良い方だからこそかもしれない。
「あの、ハンジさん…」
「うん?」
「先程は、失礼なことを…」
先程、婚約者の非礼を詫びようとしたらハンジさんは「別にいいよ!」と言って私の言葉を遮った。
「あれは貴方の責任じゃないしね。まあ色んな性格の奴はいるから」
「…ですが、」
「それよりもお嬢さん、あとはここを真っ直ぐだ行けば着くよ、分かるね?」
真っ直ぐ指差す先。
婚約者が商談や会議をしている時、私が休ませてもらっている部屋。
胸が僅かに高鳴る理由を、私はもう知っている。
「時間がきたら迎えに行くから、ごゆっくり」
それだけ言って、背を向けて去っていったハンジさん。彼女の背中が見えなくなると、私は正面を向き歩き出す。
初めてここに来た時は「仮にも婚約者だから付いて来い」と婚約者に言われ付いて来ただけだった。
それだけだったけれど。
「あの、ナマエです、…その、入っても」
扉をノックして声をかける。
開けても良いのか、どうすべきか、と悩んでいたらガチャンと音を立てて扉が開いた。
「遠慮なんかしてねえで入ってくれば良いだろ」
「リヴァイさん…!」
自分の顔が綻ぶのが分かった。
私の中にこんな感情があったなんて知らなかった。出会って、初めて知ったこんなに暖かい気持ちを。
「紅茶を淹れておいた、飲むか?」
「はいっ」
バタンと音を立てて扉が閉まる。二人だけの時間が始まる。
最初のきっかけは、リヴァイさんが堅苦しい話しは御免だと言って私の預かり役を引き受けてくれた事が始まり。言葉は少ないどころか、ほとんど無くて。ただただ無言の時間を二人で過ごしたのを覚えている。
でもそれが心地よかったのかもしれない。
機嫌を伺う必要も、言葉で打ちのめされる事もない時間が何よりも尊く思えて。
「リヴァイさん、この前楽しい事があったんですよ!」
婚約者には話さない日常の事をリヴァイさんには話しをしてしまうのも。弾んでしまう胸も、緩んでしまう顔も、全部相手がリヴァイさんだからだと分かってる。
話してる時に私を見てくれる視線が優しく感じるのは、私の思い上がりなんだろうか。
「リヴァイさん、どうかされました?」
くい、と掴んだのはジャケット越しの腕。
不意に目を逸らした彼の反応が妙に気になった。婚約者に視線を逸らされようが、無視されようが、気にならないというのに。彼は、リヴァイさんは駄目で、どうしても逸らされた視線の理由が気になってしまい、胸の内がざわめく。
「…っ」
私に再び視線を向けたあと、ジャケットに触れたままの指先を見つめ、それから少し節のある指が私の指先に絡んだ。
たったそれだけなのに、息が詰まったかのように声が出なくなる。
ざわめいていた胸が早鐘を打つ。駄目だ。このままでは指先から伝わってしまうんじゃないか、胸の鼓動も、想いも全部。伝わって、
「傷が出来てるな」
「え?、ああ…先日片付けをしている時に金具に引っ掛けてしまって」
胸の音を誤魔化すように、何でもない事のように笑みを浮かべる。
先日と言っておきながら、つい昨日出来たばかりの傷。誰も気付かなかった小さな傷に、気付くのは彼だ。いつも、いつだって、私の少しの変化にリヴァイさんは気付いてくれる。
見落とさないで、見逃さないでくれる。
「消毒したんだろうな?」
「え、っと…小さな傷でしたので、その」
「オイ、俺の目を見ろ」
その瞳を見つめていられたら、どんなに幸せか。
家の為の婚姻に自分を使われようと、婚約者に心無い言葉を吐かれようと、心が折れたことはなかった。私の人生はそういうものなんだと、物心ついた時から諦めていたから。
でも、リヴァイさんだけは、心の中で上手く整理できない。目を逸らされれば不安になる、離れられると動揺する。
きっと、この人だけなんだ。
「……そんな傷があっちゃ、お前の旦那も困るだろ」
この人の言葉にだけ、私は打ちのめされて、現実を突き付けられ、心が折れてしまいそうになる。
旦那だなんて。そんな事言わないで、貴方の口から、どうかそんな言葉を紡がないで。
「、まだ婚約者ですよ、リヴァイさん」
諦めなくてはいけないのに。リヴァイさんと一緒にいる時間なんて、欲してはいけないのに。
私の人生だと諦めていたものが、こんな人生は、こんな結婚は嫌だと逃げ出してしまいたくなる。
「リヴァイさんの手を見せてくださいな」
「オイ待て、俺の手は」
「あらあら?傷がありますね、ちゃんと消毒したんですか?」
指先から想いが伝わってしまえばいいのに。
先程まで伝わってしまうんじゃないかと胸を鳴らしていたのに。今度は伝わってしまえばいいと願ってる。
「私、狡いんでしょうか…」
「いきなり何だ」
「いまが、この瞬間が一番楽しいって、そう思ってるんです」
婚約者のいる女が、婚約者以外の男性と二人で過ごす時間を愛おしく思ってる。言葉を交わして、指を絡めて、掌を重ねて。
あなたの事を、心から好きだと想っているのに。
それなのに、婚約の解消もせず、家を突き放すこともしない私は何て中途半端で、狡い女なんだろうか。
「ナマエ、俺は」
「っ、この瞬間だけで良いんです」
「…、」
「いま、この瞬間だけは、触れることが出来るこの時間だけは、」
貴方を想う狡い私を、どうか、
「リヴァイ、いるかい?会議が終わったからもう帰るそうだよ」
終わってしまう、短い時間だとしても、貴方を
escape engage
「その汚い布切れは何だ」
馬車の中、婚約者の突然の言葉に私の肩は大きく揺れてしまった。
彼が私に興味を持つなんて、という驚きもあるかもしれないが。それよりもリヴァイさんに巻いてもらった包帯を見られたことがいけない事のように思えて、変に動揺した。
「怪我を、して…その治療をして頂きました」
「ちっ、どうせ大した事のない怪我を大袈裟に。見苦しい、屋敷に帰ったらすぐに外せ」
「…」
返事をしない私に苛ついたのか、婚約者はもう一度舌打ちをすると、大きく溜息を吐き出し窓の外を眺め始めた。
何も言葉の出ない私は左手の薬指にそっと右の手のひらを重ねた。
優しく巻いてくれた指先を思い出す。可愛く結んでくれたリボンに少し照れたような顔をした彼を思い出す。
ナマエ
呼んでくれる声に走って行くことが出来たなら。
この人生から逃げ出すことが出来たなら。
胸の内に溢れんばかりに募るこの想いを、気持ちを、全部伝えられるのに。貴方に、好きだとそう言えるのに。
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