「名前ちゃん、今日は仕入れの日だから彼が来たら応対しておいてくれるかい?」
「はい、わかりました!」
「私は足りない調味料を買いに行ってくるから」
「お留守番なら任せてくださいっ」
元気よくそう言うとマスターは少し笑ってからお店を出て行った。背中が見えなくなるまでマスターを見送ると私は手にモップを持ち再び床磨き。
今日は私とマスターの二人だけ。仕入れの日、と言うのは半月に一度配達の人がやってきて、マスターや私じゃ運べない大きな袋に入った小麦粉など、お菓子やケーキの材料を持ってきてくれる日。
どの材料もマスターがこだわり抜いた物だから簡単には手に入らない。だからこそ一度で大量に仕入れるんだけど、マスターの作るお菓子は美味しいからお客さまからの注文も多く、大量に仕入れても半月近くで無くなってしまう。
今マスターが買いに行ってる調味料も近くのお店では手に入らなくて、少し歩いた所にある小さなお店で買えるもの。行って帰ってくるには時間がかかるけど、マスターが言うには「散歩には丁度いい距離」らしい。
「よし、あとちょっと!」
バケツの中の汚れた水を取り替える。あとは乾拭きして窓を磨くだけ。お店の看板は準備中になってるからお客さんが来る心配もないし、業者の人が来たら応対するだけ。時間をかけて掃除をすることが出来る!
薬をつけた雑巾で窓を磨く。積もっていた埃が取れてキラキラと太陽の光で反射する。このままじゃ汚いから、今度は綺麗な布を取ってからぶきしていると、見慣れた青いライトバンがお店の前に止まった。
「あ、」
手に持っていた布を置いて手を洗うと急いでお店の扉を開けた。
「こんにちは!」
「やあ、名前ちゃん」
フルゴネットタイプの青いライトバンから降りてきたのは私より少し年上のお兄さん。背が高くてロイヤルブルーの瞳が印象的。イタリアの男性はかっこいい、って日本ではよく言われるけど、その理由をありったけ詰め込んだようなお兄さん。多分日本に行ったらモテると思う。
「名前ちゃん、ひょっとしてマスターは買い物?」
「そうですよ。調味料の買い足しに」
「そっか、じゃあ今日は僕と名前ちゃんの二人きりってことだ」
「そうですね」
「嬉しい?」
「はいはい、嬉しいです。それで荷物はどこですか?」
訂正。こういう所さえなければモテると思う。
「冷たいなあ」と不貞腐れたように言うお兄さんを軽くあしらう。最初、出会ったばかりの頃はお兄さんの軽口に焦ってしまったけど、もうさすがに何度も会ってるうちに慣れてしまった。
イタリアの男性は浮気性っていうのは本当だと思う。顔はいいのに「出会った女性はとりあえず口説く」っていう性格だから未だに独身。もしかしたらお兄さんだけが特殊なのかもしれないけど。むしろお兄さんだけであってほしい。
「はあ・・出会ったばかりの頃は一々顔を真っ赤にして可愛かったのになあ‥」
「そんな時期もありましたねー。あ、この袋ですね」
「日本の女性って僕たちから見ると小動物みたいで可愛らしいんだよ?」
「そうなんですかー初耳ですー。あと奥の袋もですね」
「はあ‥」と大袈裟な溜息が聞こえるけど無視。構っていたらいつまでたっても仕事が終わらない。よいしょ、と大きな袋をライトバンから降ろそうとしたら後ろからお兄さんの手が伸びた。
「重いから僕がやるよ。名前ちゃんはお店の扉開けてくれる?」
「あ、はい。わかりました」
ちょっと軽い人だけど、性格は紳士的だし仕事もちゃんとこなしてくれるから嫌いじゃない。たまに有名なお店のケーキとかも買ってきてくれるし、オススメのお菓子も買ってきてくれる。あれ?私ひょっとして食べ物で釣られてる?
「名前ちゃん、これどこに置けばいい?」
「え?あ、キッチンにあるテーブルの上に‥」
「了解、ここだね」
大きな袋が二つと、紙袋に入った他の材料がテーブルの上に乗せられる。私だったら運ぶのに一時間ぐらいかかりそうな物を、たった数分で運んでしまうお兄さんは身体とか鍛えてるんだろうか?線は細いのに不思議だな。
「はい、終わり」
「ありがとうございました。えっと、支払いは」
「ああ、大丈夫。それならもうマスターから先に受け取ってるよ。それよりさ」
「はい?」
「ちょっとだけ遊びに行かない」
「行きませんよ」
私はお仕事中です。
眉間に皺を寄せる私とは対照的にお兄さんは楽しそうに笑ってる。お仕事後の遊びの誘いはいつものこと。女性を誘うことはお兄さんにとっては礼儀のようなものだってこの前言ってた。
はいはい、配達待ってる次のお客様がいるんですから早く行きましょうねー、と言ってお兄さんの背中を押しながら外のライトバンまで連れて行く。
「本当、出会ったばかりの頃は初々しくて可愛かったのに」
「すみませんね、今は可愛くなくて」
「君ぐらいだよ。僕の言葉に左右されないのは」
「他の女性は左右されるんですか?」
「当然」
「そんなだからいつまでたっても独身なんですよ」
「お嬢さん、それは僕にとって禁句」
「はあ‥お兄さんのご両親が可哀相‥」
「それも禁句。じゃあ名前ちゃんにはそういう相手がいるの?」
「え?」
そういう相手。つまり両親が安心してくれるような、相手。
一瞬、自分の頭に浮かんだ姿に焦る。いや私は好きなんだけど別にそういう相手じゃないし‥!でも‥そういう相手になってくれたら幸せだな‥‥って違う違う違う!そもそも私は学生で、そんな話しはもっと先のことで!
どこまでも飛躍する想像に恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「その反応はいるってこと?」
「え、あ、いや‥これは、ちが‥!」
「あ、僕の言葉には一切ぶれないくせに!」
「いひゃ‥!」
悔しいと言いながら私の頬をつねるお兄さん。だって、ぶれるも何も私はお兄さんのこと、本当にお兄さんとしてしか見てないんだから仕方ないじゃないですか!
「は、はなひれ‥っ」
「結構柔らかいね」
みよんみよん、と楽しそうに私の頬を伸ばすお兄さん。公道でこんなことして誰かに見られたらどうするんですか!と抗議しようとお兄さんの手を掴んだ時だった。
こちらを見てにこやかに笑う、ハニーブラウンの彼を見つけたのは。
タイミング的な問題
(悪いと思う) (とっても悪いと思う)
あの日以来の来店
普通だったら大喜びしてるはずなのに、今は引き攣った笑いしか出てこなかった
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 名前は特に無いお兄さん
初対面の人や、あまり親しくない人の前では『僕』。女性を口説いてる時も『僕』。 でも実際の一人称は『俺』。別に根っから紳士な訳じゃないし、気に入らない相手にはアイスマン。
…みたいな設定を考えてたけどあんまり出ないと思う(ええぇ)
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