雨の日の出会い。雨上がりの空、心が弾んだ帰り道。鼻歌交じりに洗濯物を干して、気付く。名前を聞き忘れた、と。

やってしまった、と頭を抱えたがまた会えるような気がして。

もらったハンカチを握り締めて願う。

また会いたい、と。




優雅なクラシックが流れる店内。

年老いたマスターと従業員が数名居るだけの、この喫茶店は私のバイト先。留学先での勉強とバイトの両立。毎日忙しくて大変だけど、凄く楽しくて。しかも、ここのお店の制服はフリフリしたのではなく、スタンダードなもので大人っぽくて私のお気に入り。



「コーヒーお待たせしました」



カチャリと音を立てながらテーブルへとカップと砂糖、ミルクを置く。

お客様はマスターと同じぐらいの年配の人で、私にニッコリと挨拶をしてくれる。応えるように私も微笑み、ゆっくりとそこを離れる。

クラシックが流れる店内を、まるで舞うようにしてこなす接客業。今日はマスターと私しかお店に居なくて少し忙しい。けれどお昼時を過ぎた今は客足は少なくて、今が一番落ち着ける時間だ。


まぁ、少し町並みから外れた所にあるから、もともとお客さんは少ないんだけど・・。そんな失礼なことを考えながら、空いたカップをさげる。



「名前ちゃん、今はお客が少ないから休憩してても良いよ」

「え、駄目ですよ!お金貰ってるんですから、ちゃんと働かないと!」



髭を蓄えた、まるでサンタさんのようなマスター。マスターが淹れるコーヒーは日本では味わえないような美味しさだ。一回飲んで気に入って、学校帰りによく立ち寄っていたら、そんな私に気付いたマスターがバイトに誘ってくれたのだ。



「そう言ってくれるのは嬉しいけどねぇ」

「大丈夫です!今いるお客様がお帰りになったら休憩しましょう?」

「そうかい?・・なら頑張ろうか」



そう言ってマスターは注文されていたサンドウィッチを作りだす。私も食器を洗おうと厨房へと入った。

しばらくすると最後のお客さんも居なくなり外は夕暮れ。この時間になるとお客さんはほとんど来ないから暇になってしまう。



「ふぅ、」



残った食器を洗い終わり濡れた手を拭こうと制服に手を入れた。



「あ・・」



手に取ったのは、あの人から貰った空色のハンカチ。そのハンカチとは別に、私は違うハンカチを常に携帯している。

あの人から貰ったハンカチはあまり使わないけれど、何故かいつでも持ち歩いてしまう。持っていたらいつかまた会えるような気がするから。

ハンカチを口元に当ててギュっと目を閉じる。

私があげたハンカチを、まだあの人は持っているだろうか。そんなことを考える私は少しだけ女々しいのかもしれない。



「あの時、私が洗濯物の事を言わなければ名前が聞けたのにな・・」

「また考えているのかい?」

「ま、マスター・・!」



びくっと身体を揺らしながら見れば、そこには微笑むマスターの姿。

マスターは私に起きた出来事を知っている。・・と言うより誰も見ていないと思って、ハンカチを握って嬉しそうにしていたら、その現場をマスターに見られてしまった。後は尋問のようにマスターに聞き出され、事あるごとにからかわれる。



「おいで、休憩にしよう」

「は、はい・・」



見ればカウンターにはケーキとコーヒー。マスターを追って私も席についた。



「まだ会えないのかい?」

「はい・・」



モグモグとマスターの作ったケーキを食べていたら、突然の質問。ゴクンと飲み込んで頷けばマスターは困ったように笑った。



「その人と会った場所に、もう一度行ってみれば良いのに」

「行ってます・・」



あれから暇さえあれば橋へと赴くけれど、中々会えない。私と同じ日本の人だったからもしかしたら、もうイタリアには居ないのかもしれない。

一期一会、とはよく言うけど‥‥無性に切なくなってくる。



「はぁ・・」

「その人は名前ちゃんからすれば王子様だね」

「は、はぃ!?」

「恋、してるんでしょう?」




王子様!?恋!?

意味が分からず目をパチパチしながら見れば、穏やかに微笑むマスターの姿。



「私、別に、そんな‥!」



王子様なんて・・!

でも容姿的には本当に王子様みたいにかっこよかったし、すごく絵になったのも確かだ。‥‥いやいや!そういうことじゃなくて!



「王子様とかじゃないです・・!」

「ふーん?」

「ただ、もう一度話がしたいだけで・・そんな、恋とかじゃないです、よ・・」

「そうかそうか」



マスターはそう言うけど顔は笑っていた。まるで全部理解してるようなその笑顔に私は何も言うことがきず、のろのろ残っていたケーキに手を付ける。



「そうだ名前ちゃん、今日は少し特別なお客様が来るから、外の看板を早めにしまっておいてくれるかい?」

「特別なお客様?」



お友達ですか?と首を傾げればマスターは「ちょっとね・・」と微笑むだけ。そういう反応をされると気になってしまう。



「私も何かお手伝いしましょうか?手伝いが終わったら邪魔しないようにすぐ帰るので」

「それは助かるけど‥いいのかい?」

「はい、もちろんです!」



相手の方が見てみたいですし!‥とは、もちろん口にせず。お手伝いします!と張り切って言えば「お願いしようかな」とマスターの声。よし!



「それで、その方は何時ぐらいに来るんですか?」



時計を見れば今はまだ4時。一人暮らしだし家もここからそんなに遠くないから全然平気なんだけれど、念のために時間を聞いた。



「うーん、6時ぐらいには来ると思うんだけど‥」

「だけど?」

「分からないな、忙しい人だからねえ‥」



忙しい人、なのか‥どんな人なんだろう?

さっきより強くなる好奇心を押し込めるように残りのケーキを口に入れた。









「そろそろ看板片付けますね!」

「あぁ、よろしくね」



食器を片付けて時間を見れば5時過ぎ。そろそろ良いだろうと思い私は看板をしまおうと外へ出た。



「よいしょっ」



オススメのメニューなどが書かれている看板。その看板は私には少し重く、おばさんのような声が出てしまう。大きい看板を抱きしめるようにして運ぶ。

それにしても、どんなお客さんなんだろう?時間が近くになるにつれ来る人が気になってくる。マスターが『お客様』と呼ぶぐらいだから大切と言う事は分かる。もしかしたら私が居ない時に来た事があるのかもしれないな、と一人考えながら看板を持ち店内に戻った。



「マスター看板片付けました」

「あぁ、ありがとうね」



ニッコリと微笑むマスターに私も笑い返す。

お店の中もお皿は全部下げたし、テーブルも椅子も整えた。後はお客様が来るだけだ。時計を見れば丁度長い針がてっぺんを指し、6時を告げた。

それと同時にカランカランと入り口のドアに付いたベルが軽快に鳴り響く。



「お久しぶりです、マスター」



声に振り返れば、そこにはずっと会いたかったハニーブラウンの人。



「あ・・っ」



私が目を見開いて彼を見る。そんな私と目が合うと、同じように彼も目を見開いた。




「おや、デーチモ・・今日は早い到着ですね」




でーちも?

後ろから聞こえたマスターの声に首を傾げた。




「マスターこの子は・・」

「あぁ、バイトの子ですよ」

「お、お久しぶりです・・」




会えたことへの喜びを隠すように、おずおずと挨拶をするとマスターが口を開いた。




「久しぶり?名前ちゃんは初めましてじゃなかったっけ?」

「いえ、あの・・この人が橋で会った人、なんです・・」




ゴニョゴニョと語尾が小さくなってしまった。

私の言葉を聞いてマスターは驚いているようだが、すぐにニッコリと笑った。




「あぁ、デーチモが王子様か」

「ま、マスターっ!!」

「王子様?」




慌ててマスターを止める私と首を傾げるデーチモさん。

マスターは慌てる私を見て完全に楽しんでいる。




「デーチモ、すみませんがお出しするケーキの材料が足りないので急ぎ買ってきます」

「え、マスター・・!?」

「少し待っていてください」




私の肩にポンと一度てを乗せて店を出るマスターに慌てて手を伸ばすがパタンとドアは閉まってしまった。


材料が無いなんて嘘だ・・!

昨日、仕入れたばっかりだもん・・!!


言いたくても閉まったドアには何も言えなかった。

焦る心を落ち着かせながらゆっくりと振り返りデーチモさんを見る。




「・・・・」

「・・・・」




気まずいことこの上ない。

真っ直ぐに私を見る彼に言葉が出ない。




「あ、あの・・」

「名前」

「え?」

「・・だったよな?」

「あ・・お、覚えててくれたんですか?」




口元に笑みを浮かべて頷く彼に、嬉しさがこみ上げてくる。




「えっと・・とりあえず座りましょうか?」

「あぁ」




テーブル席へと案内し向き合うように座れば彼は肘を付き、楽しそうに微笑みながら私を見ている。




「えっと・・」

「ん?」

「あ、あの・・」




そんなに見られると何を言えば良いのか分からない。

それに、やっぱりカッコイイなんて思ってしまう私は馬鹿だ。




「な、名前って、デーチモさん・・じゃ、ないですよね・・?」




とりあえず一番気になっていた事を聞こうと口を開いた。




「綱吉」

「え・・?」

「俺の名前」

「綱吉、さん・・」




覚えるように、かみ締めるように彼の名前を呟いた。

今の彼はあの人は違って暗い表情をしていない。その事が嬉しくて少しだけ微笑んだ。


けど、綱吉さんと目が合うと何故か恥ずかしくなって俯いた。




「あの時はありがとう」

「え・・・・あっ」




私が顔を上げると綱吉さんの手には、あの時私が渡したハンカチ。



持っていてくれた。



嬉しくて私もハンカチをポケットから取り出す。




「私も持ってました・・!」




笑ってそう言えば綱吉さんは驚いた顔をしたけど、また同じように微笑んでくれた。



「そっか・・ここでバイトしてたんだ。」

「あ、はい」

「毎日いる?」

「ほとんど毎日居ると思います」

「ふーん・・そっか」




それだけ言うと綱吉さんは店内を見回した。




「明日もいる?」

「いますよ・・?」




学校が終わったら、ですけど・・。と答えると綱吉さんは嬉しそうに笑った。




「明日も来るから」

「え・・!?」

「名前、いるんだろ?」

「いますけど・・!」

「今日はマスターに会いに来たけど・・」



そう言って綱吉さんは私を真っ直ぐに見た。



「明日は名前に会いに来るから」





動き出した恋


(まるで大空を連想させるような)
(大らかな彼)



もう一度会って話したいな、とは思った。

名前が知りたい、とも思った。

これは恋じゃない、とそう自分に言い聞かせてた。

けど。今日、会って話しをして名前を教えてもらって分かった。

彼の言葉に頬が熱くなって、口元が緩んでしまうのも。


私は彼に恋をしてたから。